プロローグ 図書委員
「それじゃ星屋君、行こっか」
とある私立高校の一教室の片隅で、黒髪ロングの女子生徒が一人の男子生徒に声をかけた。
『星屋君』と呼ばれたその男子が、軽く手を上げて返事をする。
「高瀬さん、今日も一日お疲れ! ……で、行くってどこに?」
「図書室だよ。今日は放課後に図書委員の仕事がある日でしょ?」
「……マジで?」
ボソリと呟いたその男子、星屋宏樹の眼前に一枚の紙が突き出された。
一瞬怯んだ宏樹だったが、すぐにその紙の正体を察したのだった。
「何かと思ったら図書委員の当番表じゃん。毎月配られるやつ」
「そう。それで、今日の日付のところ見てみて」
高瀬さんこと、高瀬真波に言われた通りにする宏樹。
今日の日付のところにはペンで赤丸がつけられており、すぐに目を向けるべき場所がわかった。
「えっと……はい、確かに、二年四組って書いてありますね……」
「わかったんならバッグ持って! 早く行くよ」
「はいよ。……やっと家に帰れると思ったんだけどな」
次々と昇降口に向かうクラスメートたちを尻目に、図書室へと連行される宏樹であった。
それから五分後、図書室にやってきた宏樹と真波。
本の貸出カウンターの内側に適当にバッグを並べて置き、本を借りにくる生徒が訪れるのを待つ。
図書委員の主な仕事は、本の貸出や返却の受付なのである。
しかし、図書室には生徒の姿など一人も見当たらず、ただ図書委員の二人がカウンターに座っているだけというのが現状。
その理由は明白だった。
「ねえ高瀬さん? やっぱり誰もいない上に来る気配もないから、もう帰らない? 中間テストが来週に控えてるのに、図書室来る奴なんかいないって」
普段ならともかく、テストまで一週間を切った今の時期に生徒が図書室に訪れる理由など無いのである。
「図書室は静かだから、勉強するために訪れる生徒もいるんじゃないか?」とも思うかもしれないが、この学校の図書室には勉強用のテーブルなど一つも配備されていないのだ。
故に、宏樹が言っていることも間違いではなく、なんなら的を射ている。
しかし、そんな宏樹の発言に流されるほど、真波の責任感は脆いものではない。
「だけど、本の返却に来る人とかいたら、その人困っちゃうじゃん」
「そうかもしれないけどさ……。俺は早く帰りたいんだよなぁ……」
「はいはい、お仕事頑張ろうねー」
慣れた口調で宏樹をあしらう真波。
二人がそんなやりとりをしていると、不意に図書室の入り口のドアが開いた音がした。
カウンターからはドアの方は死角となって見えないが、誰かが入室してきたのは確かである。
「ほらね、帰ってたらマズかったでしょ?」
小声でそんなことを言いながら、少し勝ち誇ったようなニヤケ顔を宏樹に向ける真波。
僅かにドキッとした宏樹だったが、それとは関係なしに、入室してきた誰かは真っ直ぐとカウンターに向かってきたのだった。
「あれ、君達って図書委員の子かい?」
二人の目の前に現れたその人物は、本を返却しにきた生徒ではなかった。黒髪、黒スーツ、黒ネクタイと、全身に黒色を纏った、若い印象を受ける男性だったのだ。
「あ、はい、そうです」
黒スーツの男性の問いに、素直に答える宏樹。
「ホント? いやー、助かった! 昨日も一昨日も図書委員の子がサボって来てくれなくてね……。一人で新しく届いた本を整理してたんだよ」
後頭部を掻きながらそんなことを言う黒スーツの男性。
しかし、宏樹と真波はこの男性と面識はない。
この学校の教師であることは間違いないのだろうが。
「えっと、本の整理はもちろん手伝いますけど、図書委員の先生って大沢先生でしたよね?」
「あ、そっか。まだ定例委員会には顔を出していなかったね。……今年度から大沢先生と一緒に図書委員会を担当する、羽賀博光です」
定例委員会というのは、月に一度委員会ごとに教師と生徒たちが集まる会のことであり、図書委員の場合はそこで当番表が配られる。
今は五月ということもあり、今年度の定例委員会はまだ一度しか行われていなかった。
ちなみに何年も前から図書委員会を担当している大沢靖子先生は、生徒達から『クソババア』と呼ばれている。
「なるほど……」
「じゃあ早速だけど、その奥に積んである本をジャンルごとに分けてもらっていいかい?」
「わかりました」
新書の仕分けを始める三人。
新書はかなりの量があり、なかなか骨の折れそうな作業である。
作業開始から三十分ほど経過したところで、不意に羽賀が席を立った。
「ごめん、ちょっと作業続けててね」
そう言い残した羽賀は、出入り口のドアの方へと向かっていった。
羽賀の姿が見えなくなったところで、宏樹が口を開く。
「まさかこんなことに巻き込まれるなんて……。これ絶対、最終下校時刻までやらされるパターンだ……」
「そんなこと言ったってしょうがないでしょー。……仕分けた本が邪魔になってきたから、そろそろ本棚に入れに行かない?」
「はいはい了解しましたよ」
カウンターから立ち上がって本を抱え、本棚の方へ並んで歩く二人。
「そこそこ重いな……。高瀬さん結構な量を持ってた気がするけど——」
「大丈夫?」と、宏樹が真波の方に視線をやろうとした瞬間、足元から大きな音がした。
思わず視線を下に向けると、さっきまで真波が抱えていたはずの本が散らばっていたのだった。
真波の無事を確かめようと、すぐに視線を上げた宏樹。
しかし、そこに真波の姿は無かった。
「……は? お、おい、どういうことだよ……」
真波が煙の如く消えてしまったことに、驚きと混乱を隠せない宏樹。
羽賀が二人への差し入れを持って図書室に戻ってきたのはそれから数分後のことだったが、そこに二人の姿はなかった。
羽賀の目についたのは、ただ床に散乱している本だけであった。