#2 折鶴のいのり
#2 折鶴のいのり
夕食を食べ終えた荒神は縁側に座り、眼下の景色を眺めていた。
その逞しい両腕の中には、武流がいる。
まだ包帯のとれない武流に気を使っているのか、ただ抱きしめ、時おり頬ずりしてくるくらいで、無体なことは求めてこない。
武流は人形のようにおとなしく抱かれていた。
こういう時の荒神は、図体はでかいけれども人懐こい犬のようなもので、人畜無害だ。
だが荒神の癇癪は、嵐やにわか雨のようなもの。
今の機嫌がいつまで続くのかは、武流には全く分からない。
荒神が訳の分からないバケモノである以上仕方のないことと諦めているとはいえ、この荒神と付き合うのは、人の身にとっては命がけだ。
「きれいだな」
荒神の視線の先で、山の裾野にちらちらと灯が点っている。
武流の村の明かりだ。
あの灯の下で人々は、つましく暮らしている。
「あそこで人間は何をしてるんだ?」
荒神の言葉に、武流は答えた。
「あれは、それぞれの家族の家。
人は寄り添いあって、生きているのです。
人は、荒神さまと違って、無力な生き物ですから」
「カゾク?
人間は、あんな狭い所に集まって暮らしてるのか?」
「はい。人は一人では生きられない弱い生き物。
人はみな、家族と共に暮らしています」
荒神はその目線を、山辺の灯から武流の顔へと移した。
「武流はどうしてカゾクと暮らさないのだ?」
「私は、荒神さまにお仕えするのが役目ですから」
と、武流は答えた。
「それに、一緒に暮らせる家族もいませんし」
「じゃあオレが武流のカゾクになってやる」
「・・・は?」
唐突な荒神の言葉に、武流は目をしばたいた。
「オレは武流と一緒に暮らしてる。
オレたち、カゾクだな!」
――バケモノと家族だなんて冗談じゃない。
その言葉を飲み込んで、武流はにっこりと微笑む笑顔の仮面をつけた。
荒神の方は、その笑みを勝手に肯定の意味と受け取ったらしく、子供のように満面の笑みを浮かべた。
人懐こい犬のように、鼻先を武流の首筋にこすりつけてくる。
――うっとおしいな。
と思いながら、武流は視線を荒神の頭の向こうに向けた。
縁側の軒先から下がっている千羽鶴。
風を受けてゆらゆらと揺れている。
――おゆう。
早くよくなっておくれ。
また、お兄ちゃんと一緒に暮らそう。
その日が来るまでの辛抱だと思えば、おれも耐えられる。
その日は朝から、武流はそわそわしていた。
荒神はまだ、社の奥で鼾をかいているが、武流は朝日が昇るのと同時に寝床から起き出す。
そう、今日は十日に一度の、下の村から差し入れが届く日。
じっとしてられない思いで、武流は社から出、神社の入り口に立つ鳥居のところで待つ。
目をこらすと、森の木々の間から、米俵や野菜の束を背負って山道を登ってくる村人たちの姿が見えた。
「おはようございます」
武流は手を振って、やってきた村人たちに挨拶した。
「おお、武流」
荷物を背負った男たちの先頭に立つ初老の男が、にっこりと微笑んだ。
「この秋の大風も、荒神さまのおかげでやり過ごすことができた。
これで今年の豊作も間違いない。
これも、武流、お前のおかげだ」
「それは良かったです」
武流は、村の長の言葉に笑顔を見せた。
荒神との暮らしの中では決して出てこない、自然な笑みがこぼれる。
二人の背後では、荒神と武流のための食料を持ってきた村人たちが、背負った荷を次々と蔵に運んでいく。
十日に一度、村人たちは、生活に必要なものを神社に届けにやって来るのだ。
そして、何より武流が心待ちにしているものも。
「長」
武流が待ちきれないという表情で促すと、長の方も気付いて、
「おゆうからの手紙だよ」
いつものように、手紙とそれに添えられた千代紙の折鶴を渡してくれた。
武流の表情がぱっと明るくなる。
その様子に、長は目を細めたが、
「・・・まだ、包帯は取れぬのか」
武流の着物の襟元からのぞける白い包帯に気付き、長は眉根を寄せた。
「すまんな、武流。つらい役目をさせて・・・
だが、荒神さまはお前のことを大層お気に召している様子。
お前の言うことならば、大概のことは聞き届けて下さる。
この村は、お前だけが頼りなのだ」
「妹のために、京から高名な薬師を呼んで、高い治療費を払ってくださっていることには感謝しています」
武流は黒曜石のように輝く美しい瞳を向けて、長に言った。
「でも、おゆうの病がよくなったら、おれはおゆうと一緒に暮らします。
その約束は忘れないでください」
妹からの手紙と折鶴を、武流は会えない妹の代わりにぎゅっと胸に抱きしめた。
十日ごとに届けられる妹からの手紙。
バケモノに奉仕する惨めな毎日の中で、それが唯一の心の支えだった。
お兄ちゃん、お元気ですか?
わたしは、薬師の先生から外に出ては駄目と言われてるけど、
熱があるとかどこかが痛いとか、そんなことはないの
だから、心配しないでね
昨日の夜、障子を明けて空を見ていたら、お月さまがきれいでした
お兄ちゃんも、今夜、月を見てみてね
とってもきれいだから
私も今夜、部屋から月を見ます
お兄ちゃんも一緒に月を見てるんだと思うと、寂しくないもの
薬師の先生が出すお薬はとっても苦くて、おいしくないけど、
でも、頑張って全部飲みます
早くよくなりたいもん
わたしが元気になったら、また、お兄ちゃんと一緒に暮らせるんだもんね
一日も早くその日が来るように、がんばるね
――家族と一緒に暮らしたい。
一人、蔵の奥で妹からの手紙を読みながら、武流は涙をこぼした。
両親は、流行り病でとっくの昔に死んでいた。
妹のおゆうだけが、武流の家族。
唯一の心の支えだった。
妹の病を治す――そのためならば、何でもする。
心を殺し、バケモノに奉仕することだって。
それで、再びこの手におゆうを取り戻すことができるなら。
つづく