スワンプマン
「よし、できた!」
ようやくレポートを書き終えた時には、外はもう暗くなっていた。
「今日は早く帰りたかったのに…」
愚痴をこぼしながら書きあがったばかりのレポートを印刷する。研究室のプリンターは最新のもので、20枚を超えるレポートの印刷もすぐに終わった。出来上がったレポートの左上を綴じ、少し離れたデスクでキーボードを叩いている教授のもとに向かう。
「教授、レポート終わりました。」
「ん、ちょっと待ってね。」
教授は画面から目を離さずに、忙しなくキーボードを叩き続けている。もうすぐ還暦を迎えるというのに、すごいタイピング速度だ。
「お待たせ。早速見せてもらおうか。」
作業が一段落したらしい。教授はレポートを受けとると、パラパラと捲った。
「だいたい大丈夫そうだ。細かい部分は後で見るから、今日はもう帰っていいよ。」
「ありがとうございます。あ~あ、すっかり遅くなっちゃった。」
「ん?まだそんな時間でもないだろう。」
「え?」
時計を見ると、まだ16時。どうやら外はひどい雨が降っているらしい。
「外が暗いからもう19時ぐらいだと思ってましたよ。」
「時間感覚が狂うくらい集中してたのか。まあ確かに、コーヒー入れてって声かけても聞こえてなかったもんね。」
「コーヒーは自分で入れてくださいね。」
そのとき、外がカッと光った。それほど間をおかずにゴロゴロと轟音が聞こえてくる。
「おや、雷まで鳴り出したか。早く帰った方がいいかな。」
「そうですね。停電なんかしても嫌だし。」
私と教授は帰り支度を始めた。傘は一応持ってきているが、それでもずぶ濡れになるであろう豪雨にため息が出た。
「そうだ。教授の車で送ってくださいよ。」
「それが車の調子が悪くてね。今日はバスなんだ。」
「えぇ~。こんなときに限って…。」
「いやあ、残念だったね。」
がっくりと肩をおとす私にかまわず、教授は余裕たっぷりの顔で荷物を鞄に詰めている。バス停まで少し距離があることを忘れているのではないだろうか。
「そうだ。雷にまつわる面白い話があったんだった。」
ふと顔をあげると、教授はそう言った。こちらを向いたその顔には、教授がイタズラを思いついたときにする子供っぽい笑みが浮かんでいた。
「西山くん、君は『スワンプマン』って話知ってるかい?」
知らなかったが、教授の顔からそんなに愉快なものでもないだろうことは予測できた。しかしここで相手をしないと教授は拗ねる。それはもう、ものすごく拗ねる。話を聞くしか選択肢はなかった。
「聞いたことないですね。なんですか、それ。」
教授は嬉しそうに話しはじめた。子供みたいなおじいちゃんだ。
「スワンプマンは日本語で沼男って意味でね…」
教授の話によると、こういう話らしい。ある男が沼のそばを歩いていた。すると突然雷が落ち、男は死んで沼に落ちてしまった。そして時を同じくして、沼にも雷が落ちた。沼に落ちた雷によって沼の汚泥は奇跡的な化学変化をおこし、なんと死んだ男と全く同じ生成物が生まれた。この男をスワンプマンという。スワンプマンは死ぬ直前の男と原子レベルで同じであるため、記憶などももちろん同じである。生前の男とスワンプマンは同一人物と言えるだろうか、という思考実験だそうだ。
「僕がこの話を面白いと思うのはね、男の死とスワンプマンの誕生が無関係であることなんだ。」
「えっと、つまりどういうことですか?」
「男が死んだこととスワンプマンの誕生はそれぞれ独立した出来事だってことだよ。男が死ぬことはスワンプマン誕生の条件ではない。男がもし死ななければ同じ男が2人になったということだ。記憶も同じでね。」
「なるほど、そういうことですか。しかしなぜ今その話を?」
「君、帰り道に沼あるでしょ?」
「いや、あるけども。所詮は思考実験だし、科学的にありえないでしょ。」
「そう思うかい。でも、ドッペルゲンガーの目撃情報はまれにあるだろう。あれの正体は、スワンプマンなんじゃないかと僕は思っているんだ。」
「……何でもいいですけど教授、教授の乗るバス停も沼の先だということは、覚えてますか?」
「あ。」
教授と仲良く沼の横を歩く。雨の勢いは強く、教授も私もすでにずぶ濡れになっている。
「雷に気を付けてね。」
教授がニヤニヤしながら言ってくる。いつまで言ってんだ。
そのとき、目の前が真っ白になり、同時に激しい轟音に襲われた。近くに落ちたのだろうか。突然のことに目をつむる隙もなく、閃光の直撃を受けた目はなかなかしばらく見えなくなった。やっと目が復活して目を開けると、数メートル先を歩いていた教授の姿がない。
「…教授?」
周りを見渡すが、やはり姿がない。
「教授!どこですか!?」
「…いや、参ったね。」
「? …ぎゃあ!」
沼から教授が這い上がってきた。めちゃくちゃびっくりした。
「教授!無事でしたか。」
「なんとかね。泥だらけで、バスには乗れそうもないが。」
「生きているだけ良いじゃないですか。姿が見えなかったから、雷で跡形もなくなったのかと思いましたよ。」
「発想怖すぎでしょ。でももしかしたら、沼から出てきた僕はスワンプマンかもしれないよ。」
「教授、バスに乗れないならタクシーでも呼びますか。」
「…見事なスルー。いや、今日は歩いて帰ることにするよ。」
「チッ。便乗しようと思ったのに。」
次の日、見事に雨は止んでおり、意気揚々と研究室のドアを開く。
「おはようござい……は?」
そこにいたのは、私であった。毎日鏡で見る自分の顔が、そこにあった。
ドッペルゲンガー。スワンプマン。
昨日の教授との会話が頭に浮かぶ。その後、汗が吹き出してきた。どうすればいいのか。これまでの人生を振り返っても、対処法など知っているわけもない。あまりの出来事に考えがまとまらない。
目の前の自分が、ニヤリと笑った。そして、
パーンッ!!
「うわっ!」
尻餅をついた。紙吹雪が降り注ぐ。どうやら自分が、クラッカーを鳴らしたらしい。
「フッフッフ。」
聞き覚えのある声。目の前の自分は顔に手をかけると、一気に剥がした。そして、現れる教授の笑顔。
「なんですか、それは。」
「驚いたかい。最新の特殊メイクさ。」
「そんなもの、一体どこで…。」
「我が校が誇る特殊メイク研究会を知らんのか。」
「知らんわ!めちゃくちゃびっくりしたじゃないですか!」
「はっはっは。2時間かけてやった甲斐があったよ。」
「マジかこの人。」
「昨日沼に落ちたときに笑われた仕返しだよ。」
「人間が小さい…。」
昨日の話の直後とはいえ、まんまと騙されてしまった。いや、昨日の話が無かったとしても騙されたかもしれない。それほどのメイクだった。
しかしやはり、気づいて然るべきだったのではないか。よく考えれば教授の好みそうなイタズラであるし、そもそも自分はそんなオカルトを信じたことがない。科学的にあり得ないとわかりきっていたのに騙されたのだ。きっと自分は詐欺に引っ掛かるタイプの人間なのだろう。注意せねば!
作業のためにパソコンを立ち上げる。朝から疲れたからもう帰りたいくらいだが、早朝から2時間働かされた特殊メイク研究会の人たちの方がかわいそうなので頑張ることにする。
パソコンが立ち上がったので、まずブラウザを開く。ホームページに設定してある検索サイトが開いた。
ニュースの欄にある、ある一文に目を奪われた。
『○○県北部の沼で男性の遺体発見。近所の大学教授か。』