海と陸の縁 一
頭上には、袋からバラまけたような星の海が広がっている。
駆け抜けた祭の喧騒は背後に遠くなり、人通りのない海沿いの県道で、直はゆっくりと走る足を緩めた。
後ろ手に八景の手を引いたまま、振り返りもせず、とろとろと歩く。
「(どうしよう……)」
歩きながら、直は心底当惑していた。
何故だか分からないが、八景の顔が見られないのである。
さっきまであんなに会えて嬉しかったというのに、今はどうしてか一つも言葉が出てこない。
その代わりに、顔の熱ばかりが上がるのだ。
今日になるまで来ない来ないとやきもきしてばかりいたので、会ったら何を話そうかなんて、ちっとも考えていなかった。
前はあんなにぽんぽん言い合っていたのに、不思議なものである。
手だけは放すタイミングを失って繋いだまま、冷えた八景の体温に、直は呻き声を上げる。
言いたいことも、話したいことも、沢山あるはずなのだ。
それをどう形にするべきか、赤い顔をして口を開け閉めしていると、
「直」
いきなり名を呼ばれ、びくっと直は背筋を伸ばした。
体温が再び上がる。
呼ばれたからには振り向かずにはおれまいと、ぎこちない動きで後ろを見た。
できるだけ提灯は体から離して、赤い顔が分からないようにする。
おずおずと八景を見上げると、墨色の衣装の青年は、穏やかな表情で直を見つめていた。
その眼差しが落ち着かなくて、直は「な、なななに?」とどもりながら顔を背けてしまう。
だが、八景は素っ気ない直の態度を気にした様子もなく、繋いだ手をぎゅっと握って真っ直ぐに言ってきた。
「とりあえずは、おめでとう。 立派な神楽だった。 ちゃんとやり遂げたんだな」
屈託ない賞賛に、直は一層呻いて顔を覆った。
「ぅわ、ちょっと、やめてぇ…… なんか、大分はずい」
「けれど、本当だ。 お前の頑張りの成果だ。 見事だった。 特に、」
手を握ったまま座り込む直に、八景は追い打ちをかける。
放っておくと目の前で真面目っ面をして褒めちぎりだしかねないので、直はわぁーわぁーと八景の言葉を遮った。
直の勢いに八景は口を閉じてくれたが、言われた方は堪ったものではない。
乱れた息を整え、直は一息つく。
そうして落とした視線の先で考える。
八景は、直自身の頑張りだと言ってくれた。
けれどそれは違う、それだけじゃない。
「――――ううん、自分一人やったら、行き詰ってた。 海で練習出来たんも大きかったし、色んなことのおかげ」
海でくれた、八景の言葉のおかげ。
ようやく落ち着いてきた心拍に胸をなでおろし、直はえへへと笑った。
「そういや、陸にはいつまでおれるん? あの術、今日で切れるんやろ?」
「刻限か? そうだな…… あと三つと半刻だ。 時間丁度に、迎えが来るようになっている」
三つと半刻ということは、期限は深夜零時か。
腕時計を読み、それならばと顔を上げた。
「八景、行きたいとこある?」
勢い込んで訊ねると、八景は目を見開いてぱちりとひとつ瞬きした。
時間がない、彼がここに居られる間に、行きたいところに連れて行ってあげたい。
真剣な直の表情に、八景はふっと笑みをこぼして、
「一緒なら、どこでも」
とだけ言ってくれる。
それからぽんと白い肌を桃色に染めてそっぽを向くと、「――――陸は全部、俺には目新しいところだしな」とわざとらしく付け加えた。
それに笑みを深めて、直は繋いだ手を引いて駆け出す。
夜が更ける前に、最後の時を過ごすため。
提灯明かりに照らされた道を、弾むように急ぐのだった。
***
町を駆け抜け、橋を渡り、直は色んな所へ八景を導いた。
シャッターの閉まった商店街や、一緒に帰った通学路。
一番思い出深い高校まで、歩いていける限りの場所を廻った。
その間に、いろいろと取り留めのない話をした。
この街で育った直の思い出話や、八景の子供の頃の記憶。
好きなものや、嫌いなもの。
家族の事や、友人の話まで。
今まで話してこなかったことを思いつく限り、時間が許す限り、教え合った。
楽しかった。
潮守と人との違いや、文化、考え方の違いなど。
八景との距離を感じてしまいそうな事柄も、楽しいと思える自分が嬉しかった。
それくらい直にとって八景と一緒にいることは、この一月共に過ごすうちに、自然で当たり前のことになっていた。
八景は、もう直の心の一部になっていた。
心臓が、弾むように音を立てていた。
誰もいない公園で、二人はブランコに腰を落ち着けた。
小さく遊具を揺らしながら、直は文都甲のことを八景に聞いた。
あれから目を覚ましたのか、兄媛は彼をどうすることに決めたのか。
息を詰めて問う直に、八景は落ち着いた声で全てを話してくれた。
「文都甲は、ちゃんと目を覚ましたよ。 記憶も、あいつにはちゃんと残っていた」
一度だけ面会したときに文都甲が教えてくれたのは、夢うつつに話したという、甲兆とのやり取りだったらしい。
甲兆は己一人で罪を背負うため、神官たちの記憶を一緒に持って行ってしまったのだという。
勿論文都甲の記憶も連れて行くつもりであったが、文都甲自身がそれを拒んだ。
罪を背負うなら最後までと、甲兆に望んだらしい。
残った者の中にも、ちゃんと罪悪感を持ちながら刑に服する者が要るだろうからと。
そうして、
「罰も決まった。 媛君の膝元で、期限なしの禁固に処されることになった」
結果、誰の命も損なわれなったのだし、それが妥当な刑なのかは疑問ではある。
しかしこれは文都甲自身が望んだことで、そうすることで水緒之杜全体の責を引き受けたとうことにしてほしい、ということだった。
直は俯いて押し黙った。
やはり文都甲は、優しい人だった。
だから逃げず、罪に向き合う事を選んだのだろう。
それがもしかしたら生涯をかける償いになろうとしても。
「……八景は、どう思うてるん?」
裏切りにあったとしても、数少ない友人のことだ。
この結果に心を痛めてはしないかと様子を窺うと、八景は変わらない表情で続けた。
「相応な処罰だと思う。 水緒之杜の独断と、人の子を死に至らしめんとした罪を、一人背負うというのなら。 誰も害を被らなかったとはいえ、形だけでも咎めを負う者がなければ、事態の収束とすることはできんからな」
「…………そう」
理路整然と言い切られた言葉に、直は悄然と答える。
頭では八景の言う事も理解できる。
けれどどこかで、独り牢に繋がれる文都甲の姿を、哀しいとも思うのだ。
その感情を八景の中にも見出せたらと思ってしまったから、淡々と言い切られたことに少し、寂しくなった。
けれど、そんなのは身勝手な思いだ。
八景自身が割り切っているのなら、それを非難するような感情を見せるものではない。
それに直の本心が、そんなふうにしたくないと思っている。
なんとか不自然に空いた間を誤魔化そうとした時、横から伸びてきた手が、落ちた直の前髪を一筋掬いあげた。
「それに、死んでしまうわけじゃないんだ」
だから、そんな顔をするな。
髪の間から覗いた面差しは、自分と同じように寂しげで。
直はひくっと喉を詰まらせる。
そうだ。
大切な友人がこんなことになって、この情に厚い青年が心を痛めないはずがないのだ。
髪をつまむ手を取って、直は目元を緩めた。
「うん、――――誰も死なんくて良かった、ホンマ」
これ以上、文都甲の罪が重くならずに済んで、よかった。
ゆるゆると微笑む直に、八景は一瞬大きく目を見開いて、ばっと顔を背けた。
捕まえている手が放してほしげに遠のいていくので、きょとんとした直はおずおずと指を開いてやる。
八景?
呼んではみるが、一向にこっちを見てくれない。
気にするなと言わんばかりに手を振られるだけだ。
訝しんで首を傾げた直は、頬をかきつつブランコを揺らした。
それから何となく伸びをして、あーあ、と星の浮かぶ夜空を見上げる。
「夜じゃなかったらなぁ…… もっと色々連れて行くのに」
色んな物を見いせてやれるのに。
残り少ない時間を、もっと八景の為に。
海じゃ見れないものを、見せるために。
けれど、それを聞いた八景は、そっと直の方を見ながら首を横に振った。
「十分だ。 この一月で、色んな所に連れて行ってくれたよ、お前は」
「でも、それだけじゃ足りんのよ」
もっと見せたいものが、沢山あるのだ。
一緒に見たいものも。
じっとしていられない。
「よし、じゃあ次行こ、次! 時間いっぱい見て回って――――「いや、すまん」
次の場所へ向かおうと立ち上がった直に、懐から砂時計を取り出した八景が、申し訳なさそうに声を上げた。
逸っていた心が、水をかけられたように畏縮する。
ああ、そんな。
直は、どきっと胸が跳ねたのが分かった。
「期限までに、時間がない。 もう海の傍へ行かなくては」
腕時計を、そっと見る。
零時まで、あと三十分。
もう潮時だった。
「あ…… そ、っか」
勢いづいていた気持ちが、音を立てて萎んでいく。
もう、終わりの時間が近づいているのだ。
直はゆっくりと下げた視線の先で、縮こまるつま先を見た。
さぁ、八景を海まで見送ってやらねば。
でも、それがひどく辛かった。
直? と、八景がこちらを窺う。
駄目だ、こんなのでは。
悲しいなんて、思いたくない。
ぎゅっと唇を引き結ぶと、ごめん、何でもない、と。
そういって力強く顔を上げ――――笑った。
「じゃあ、行こ。 海へ」




