本宮 四
「尋ちゃーん、直ちゃん! こっちこっち」
舞台の袖で、夏子が二人を呼んでいる。
日の入りを前に灯した提灯明かりに照らされ、境内は明るい橙色に染まっていた。
敷地には囃子音楽が流れて、並んだいくつかの露店へは人が列を作って楽しげな声を上げている。
拝殿は扉と障子が開け放たれて、神饌を並べた台は、沢山の食物で溢れていた。
「声でっかいわ、表の爺共が笑っよるやろうが」
「だってぇ…… お祭りやもん、張り切ってしまうやん?」
幕向こうの親戚たちの笑いを背に、二人は言い合う。
それに苦笑しながら、直はきょろきょろと辺りを見回した。
「ウチ等のお面と舞具は? 夏ちゃん持ってきてくれたんよね?」
神楽の時に身に着ける小道具を探しながら聞くと、幕の影から孝介と晴真が顔を見せた。
「それやったらこっち! 僕ら持ってきたから」
二人が脇に抱えていた桐の箱を差し出して、直はそっとそれを受け取った。
「ありがとう。 ――――二人は表出てるん? それとも、裏で控えとく?」
「僕は出るよ~ 折角の御神楽見んとやもん」
孝介の元気な答えに照れながら、直は「晴は、前みたいに裏に居る?」と晴真を振り返る。
しかし晴真はそれに首を振って、自分も表へ出ると言った。
「俺も、直姉の舞台、見たいし」
柔らかく言う晴真に、直はそっかと頷いて微笑んだ。
と、直の脇から晴真に向かって手が伸び、その頭をぐるんと抱え込む。
尋巳に首を絞められ、晴真はうわっと声を上げた。
「お兄様のありがたーい神楽を見たいとは、お前も殊勝なことゆうようになったやないか、おい」
「お前のはゆうてないやろ! はーなーせーバカッ」
わははははは。
ぐしゃぐしゃと晴真の頭を撫でながら高らかに笑う尋巳と、どこか恥ずかしげに抵抗する晴真。
そんな二人にぱちりと瞬きし、直と夏子は顔を見合わせて笑った。
みんなが祭の高揚に中てられていた。
訳もなく楽しくて、自然と笑みが零れる。
「何か、すっごい楽しいね」
ふふと頬を緩めながら言う夏子に、直と孝介は一緒になって大きく頷いた。
後ろの方から、おーいと晴真の父が直たちを呼ぶ声が聞こえる。
さぁ、待ちに待った神楽が、幕を開けるのだ。
***
神主の背後に首を垂れ、厳かな祝詞にじっと聞き入る。
神の御前に捧げる言の葉が、巫である直たちを清めていく。
かさついた音と共に幣が払われ、ようやく面を上げた。
儀礼用の木製の面から覗く世界は狭く、そこから注意深く手渡される舞具を受け取る。
天を払う天津弥彦の扇。
地を渡る陸弥彦の鈴。
それぞれを左手で、右手には舞具の根元から流れるように垂れる五色の布をまとめて持ち、ゆっくりと立ち上がる。
その場でくるりと身を翻すと、腰を落として礼をした。
客席は水を打ったかのようにしんと静まり返り、その中を音もたてずに舞台へ上がる。
中央で向かい合い、ゆっくりと体を拝殿へ。
始めます。
その意を示すように深々と頭を下げ、背後から鐘と笛と、鼓の囃しが始まる。
まずは『榊舞』。
参列者たちを清める、緩やかな踊り。
舞台を回りながら扇は風を起こし、鈴は清めの音を響かせる。
母たちが縫ってくれた上掛けを翻し、二人は厳かに一歩一歩、確かに踏みしめた。
最後の一周を終えて、二人は再び中央へ戻る。
それに合わせてゆったりと囃子が消えてゆき、最初の一幕が終わった。
それからすぐ、太鼓の力強い音が響き渡り、『歌ぐら』が始まる。
連なる句の上と下を観衆たちが歌い合い、いよいよ直と尋巳も己の役に入る時が来た。
空気を震わせるように境内を覆う音声の中、腰を落とした二人は横から近づいてきた者たちに最初の面を預け、紙製の半面を身に着ける。
ここから自分たちは、自分たちではない。
直は右座・天津弥彦。
尋巳は左座・陸弥彦である。
自分たちはこの神社の神使。
その力を示す依り代。
雅に、力強く、その姿を現へ現わにする。
歌ぐらが止み、二人はすっと立って上掛けを脱ぎ捨てた。
ついに一番の目玉、練習に打ち込んできた『曲舞』が始まるのだ。
袖なしの衣装に袴姿で、二人は舞台の対角線上に向かい合って陣取った。
紙製の半面は、木製のものより目の作りが広い。
先ほどよりも僅かに広くなった視界で、互いを確認する。
準備はいいか。
目だけで合図し、小さく頷いた。
ぐっと握りしめた手が、ひどく汗で濡れていた。
やはり緊張しているのか、直は焦って、気づかれぬように手を拭った。
その時。
ふと拝殿の上へ気配を感じ、直は小さく顔を上げる。
黒い瓦屋根の上、浮かび上がっていたのは、真っ白な毛並みだ。
威津地彦が、神饌の酒を片手に舞台を見下ろしていた。
彼の神使は直の視線に気が付くと、やんわりと目を細めて、頷いてくれた。
それを見た直は、ふっと力が抜けるのを感じた。
神使も見守ってくれている。
大丈夫、自分はやれる。
もう一度尋巳の方に顔を向け、その視線に頷いて答えた。
構えに入る。
鼓の拍子が始まり、喝采の中、二人は舞台を蹴った。
***
「(上々、上々)」
後方宙返りから着地し、尋巳は小さく、満足げに口の端を上げた。
側転から片足を大きく踏み鳴らし、吼えるような構えをとる。
すれ違う直は、まったく危なげなく演技をこなしていた。
一月前の駄目っぷりが嘘のような出来である。
本番前にああは言ったが、内心尋巳は、直が最後まで食らいついて来てくれて嬉しく思っていた。
折角やるのなら、精一杯の演技で本番に臨みたい。
それが兄貴分の転勤で駄目になってしまいそうだったのを、否と声を上げたのは、代打で役に収まった直だった。
二つ違いの従妹は、尋巳渾身の構成を引き継ぐことを頑固に訴えた。
最初は、尋巳も無理だと思った。
後釜の直では、体力も時間も足りない。
スポーツの大会でもないのに、こだわる必要もないのだ。
仕方ないと諦めようとした。
けれど、宥めすかす親たちの言葉にも諦めようとしない従妹に、つい思ってしまった。
やりたいなら、好きなだけやらせてみようか。
結局、直は完成までやり切ってくれた。
練習は無駄にならなかった。
尋巳の性格上、素直には言葉になどしないが――――
あ。
一瞬。
舞の流れを引き留める意識が混ざり込んだのを、尋巳は敏感に感じ取った。
何に気を取られたんだか、と呆れたと同時、そうかと思い及んでぐるりと体を回した。
直が《惜しみ》を残した方を盗み見る。
鳥居の足元。
夜闇に混じる、濃色の衣。
薄く澄んだ肌と、砂色の頭髪。
金の目が、食い入るようにこちらを見据えている。
尋巳がそう感じるほどなのだから、直はこれ以上に感じ取っていることだろう。
随分と勿体ぶったご登場だ。
尋巳は込み上げる笑いを面の下に潜めて、愉快痛快と景気よく腕を振り上げた。
最後の大技へ、床を踏み切る。
「(まぁ、感謝しとるわ――――ありがとうな)」
囃子が最高潮に向けて駆け上っていく。
喝采が鳴り響いて、祭の熱は高く天に立ち上っていくのだった。
***
「直、着替えは!」
母が背後から呼び止めるのも構わず、直は舞台裏から飛び出すと、脇目も振らずに走り出した。
汗で気持ちが悪いのも構わないで、はたはたとはためく衣装を翻して人垣を縫う。
直ちゃん、今年も良かったよ!
お疲れさん!
何処行っきょん?
やっぱり、尋ノ介さんの孫じゃなあ!
人ごみから飛び交う声に曖昧に返しながら、見慣れた姿を探して鳥居を目指す。
と、目の前を過る影の波間に、提灯灯りに照らされた砂色の頭が小さく覗いた。
「八景!!」
名前を呼ぶのと同時、伸ばされていた手に飛びついた。
舞で火照っていた肌に、冷やりとした体温が心地いい。
互いに握り込んだ手が強く引かれ、体ごと人ごみから引っ張り出される。
見上げる直の目と、覗き込む瞳。
どちらも提灯明かりに溶けて、橙の光が滲んでいた。
「……来んのかと思た」
「すまん。 向こうで手間を取られて遅くなった。 だが、神楽にはちゃんと間に合わせたぞ」
「うん、知っとる。 ――――ありがとな」
直は笑った。
高揚している。
自分でも自覚できるところまで突き抜けて、熱と冷静が内側を揺蕩っている。
踊りきった。
自分はちゃんと踊りきったのだ。
その様を、目の前の青年は見守ってくれていた。
それが例えようもなく嬉しくて、勝手に相好が崩れていく。
汗にまみれて笑う直を、八景は静かに待っていてくれた。
「着とるもん違うけん、分からんかったわ」
ふと、手を乗せていた八景の袖に気が付く。
八景は膝上までの黒の着物に、同色の七分のズボンのようなモノを穿いていた。
帯は銀の刺繍がされ、控えめだが上等なものだと分かる。
しゃんと着込まれた衣装は、姿勢の良さも相まって、八景によく似合っていた。
「私用だからな。 滅多に袖を通さないんだが、これでも私服だ。 用意してもらっておいてほとんど着ないから、出かけ際、母に相当探りを入れられた」
「っ、あはははは!」
気恥ずかしそうな八景に、直は噴き出して笑い声を上げる。
親子連れが不思議そうに横を通り過ぎて行き、直はひょっと笑いを引っ込めた。
はしゃぎ過ぎた、とかぁっと頬を赤らめ、誤魔化すように袴を引っ張った。
そういえば、まだ祭り衣装のままだ。
「待っとって、衣装脱いでくるけん」
「? 脱ぐのか? まだ祭は残ってるんだろう」
「うん、けど、もうええんや。 神使様も、許してくれるやろうし」
そう言って拝殿を振り仰げば、相も変わらずそこに座り込んで、威津地彦が酒盛りをしている。
二人に気が付くと、威津地彦は委細承知とでも言いたげな顔つきで、手を振ってくれた。
直が手を振り返し、八景はおずおずと会釈する。
「な? ――――それとも、祭見るほうがよかった?」
振り返って問うと、「いや…… 俺も、お前と一緒でいい」と八景も答えてくれる。
そうして二人笑い合って、直はよしっと八景の胸を押した。
「じゃぁ待っとって、着替えてくるから。 すぐ戻る」
ああ、と頷く八景を置いて、直は幕の裏へ駆け戻った。
もしかしたらと思って、着替えをそこに持ってきていたのだ。
陰になる所でTシャツとホットパンツに着替え、ばさばさと髪を振るい下ろした。
夏子が用意してくれていた化粧落としで顔を拭い、適当に畳んだ衣装を母親に押し付けて、きょろきょろと辺りを見回す。
「懐中電灯…… 無いんかな?」
今夜は月もなく暗い。
灯がないと夜道は頼りなかろうと光源を探すが、こんな所にあるはずもなかった。
家まで取りに戻らないと駄目か。
しかし、その時間も惜しいと迷っていると、
「直、直、これ持ってけ」
衣装を着たままの尋巳が、近寄ってきながら何かを差し向けてきた。
横にはいつの間にか来ていたらしい嶋が、にこやかに連れ添っている。
見ると、尋巳の手にあったのは、吊り下げ棒のついた一張りの提灯だった。
「無いよりいいでしょ。 今日はお祭だし、誰もおかしいなんて思わないよ」
「時間無いんやろが、早よ行け」
ゆったりと揺れる電気式の提灯を受け取り、直はつっと息を詰めて、「ありがと、尋兄ぃ、先生」と二人を見た。
照れたようにそっぽを向いた尋巳は、バシッと直の背をたたくと、早くしろと従妹を追い立てる。
その勢いに任せて、直はまた走り出した。
「こけんなよぉ」
尋巳の声が背後に遠のいていく。
振り返りながら二人に手を振り、直は一路、鳥居を目指した。
逸る胸の内から、全身へ何か渦巻く様な感覚が広まっていくのが分かる。
跳ねまわりたいような、抑えの利かないものに満たされていく。
体が軽い。
地を蹴る足は軽やかで、前へ前へと体を運んでゆく。
早くあの青年の元へ。
この喧噪の幻と消えてしまわないように、早く早く。
離れた時と同じ、鳥居の下で待つ八景を見つけ、直は一気に駆け寄った。
「おまたせッ 行こう!」
頷く八景の手を取って、山を下る階段を駆け下りる。
尋巳の言うよう、転ばないように。
それでもできるだけ早く、夜を駆けて。
提灯明かりを水先案内に、二人は祭の喧騒を離れるのだった。




