本宮 二
さて、どこから話したものか。
昔の己は、手の付けられない程の荒くれ者だったことは聞いているな?
そう言って、威津地彦は遠い目をした。
まだ彼の群れが、山神の領地とはいえ、現に住んでいた頃の話だった。
「己はこんな形だ。 当代の白毛は巫女として大切にされているらしいが、当時は毛色の違うものなどつま弾き扱いでな。 生まれた頃からそんな処遇で、いい加減それに業を煮やしていた己は、群れの者片っ端から憎んでおったのよ」
生まれた頃こそ並の小猿だったが、成長するにつれ、威津地彦は立派な巨躯に恵まれた。
それをいいことに、彼は自分を否定するもの全て、気に入らないもの全部を腕力で捩じり伏せるようになっていった。
当然と言えばそれまでだが、いつしか彼は群れの厄介者としてみなされ、仲間の中で親も子もなく、一人孤立してくこととなった。
「群れを外れた己は、当てもなく山を彷徨っとった。 日がな一日、誰とも打ち解け合わず、たった一人でな。 だが、それでも決して、群れの縄張りを外れることはなかった。 憎んではいても、生れ落ちた群れを遠く離れるなど、一介の猿には考え付きもしなかったのよ」
そんなある日のことだ。
なんの気まぐれか、人里近くまで降りていた威津地彦は、そこで仲睦まじげに遊ぶ村の子等を見つけた。
一人で過ごすのにも飽いていた威津地彦は、その日から子供らを遠く眺めるのを楽しみにするようになった。
「その中に、特に仲のいい兄妹がいてな。 親のないらしいその子等は、兄が良く妹の面倒を見て、慎ましく暮らしていた」
威津地彦は、いつしかその兄妹が仲良く笑い合う様を見守るのを、好ましく思うようになっていった。
自分の周りには生まれてからずっと、拒絶と嫌悪しかありはしなかった。
しかしその兄妹の間には、見ていて心が温まるような感情がある。
それを遠くから確認するのが、威津地彦には嬉しくてしかたなくなっていったのだ。
それからの威津地彦は、毎日のようにその兄妹の姿を探して、人里に近寄るようになっていった。
「だがその頃には、遠くからやって来た厄災が、里中を覆うようになっておった」
災いは戦火の飛び火である圧政や、強奪であった。
だが、一番の苦しみは――――治る見込みの少ない流行り病だった。
そこからは惑いの森で『彼女』に聞いた通り。
同じ里の仲間が次々死んでいく惨状に耐えかねた村人たちが、威津地彦の群れを襲おうと企て始めた。
皮肉なことに、群れに迫る危機に最初に気が付いたのは、よく里に降りていた威津地彦だった。
寄り集まって猿狩りの手筈を整える村人たち。
その話を聞いてしまった、威津地彦の反応は速かった。
すぐさま山に取って返して、群れに危機を知らせようとした。
不思議なことだが、いくら憎く思っていたとしても、威津地彦には群れに害が及ぶのをただ黙って見ていることなどできなかったのだ。
どんなにつま弾きにされていたとしても、自分が生まれた仲間は、彼等だけだったから。
「己は群れに忠告しようとした。 しかし、群れの奴等は己の話など聞こうとはしなかった。 当然だ、それまでにそうするだけの行いをしたのだ。 無碍にされても仕方がない」
結局、群れの猿たちは威津地彦の話など聞かず、追い立てられた威津地彦は、山の奥深くへと逃げ込んだ。
もういい。
折角の忠告にも耳を貸さず、降りかかる不幸を受けるというのなら、好きにすればいい。
山を登りながら、威津地彦は、そう憤った。
しかし、それからしばらくも行かないうちに聴こえてきた尋常でない仲間の悲鳴に、威津地彦は足を止めた。
ぞっと毛が逆立った。
悲鳴には、幼い子猿のものもあったのだ。
「矢も楯もたまらず、己は山を下ったよ。 あんなに恨みに思っていたのにな。 おかしなことさ、本当に」
枝を飛び、木の葉を払い、仲間の元へ駆けつけた威津地彦を待っていたものは、凄惨な現場だった。
それは、筆舌に尽くしがたかった。
罠と痺れ薬で捕らえられた仲間たち、
薬だと思い込んで、猿の肝を引きずり出す人間の所業。
全てを目にした瞬間、威津地彦は咆哮していた。
「我を忘れたよ。 群れの仲間が腹を割られ、赤い血をまき散らし、腸を引き出される様は、この世の地獄だった。 ――――目の前が、赤く焼けた」
いつの間にか、威津地彦は村人たちに襲いかかっていた。
人の鎌や鋤が肉を裂き、臓腑を抉ろうと、止まることなどできなかった。
あの時の心境はどうとも語り切れない。
ただ、そう。
怒りだけがあって、他のものは一切消し潰されたかのような心地だった。
誰に向けた怒りなのかも分らぬほど、分別のつかない感情だった。
噛みつき、抉り取り。
荒れ狂う大猿に村人共が恐れをなして逃げ出して辺りが静かになると、ようやく威津地彦は自分の立ってる場所を確認できた。
辺りは血の海だった。
人のモノとも、猿のモノとも知れぬ赤い海に一人、威津地彦は立っていた。
その時だった。
彼は、一つの骸に気が付いたのだ。
それは、自分が見守るのを楽しみにしていた、あの兄妹の兄だった。
力なく倒れ伏したその体を目に映した時、威津地彦は目の前に真っ暗な闇が落ちたのを見た。
兄妹の妹は幼く、体力もない。
他の例に漏れず、流行り病に倒れていたのだ。
兄は自分の妹を助けるため、村人と一緒に猿の群れを狩りに来ていたのだった。
血に沈む幼い体は喉を裂かれ、その瞳は二度と光を宿さない。
その時威津地彦は悟った。
他に家族もなく、兄を失った病床の妹は、遠からず息絶えるに違いない。
あんなに慈しんでいたのに。
兄妹共々、この手で殺してしまったも同然だった。
「それに思い至った瞬間、己はひどく恐ろしくなった。 恐ろしくて恐ろしくて、こんな感情に陥るのは初めてのことで、そのことが一層恐ろしさに拍車をかけた。 だから、」
だから、自分は逃げた。
生まれて初めて、群れを遠く離れ、どこか遠く。
恐ろしいのが届かないほど遠くに、遠くに、と。
足の、腕の、動く限り。
「手負いの体で、よくもまあ生き永らえたものだったと思うよ。 そうして西の境を守る神に出会い、ここに至るのだ」
明るく笑い飛ばすように、威津地彦はそう締めくくった。
彼にとっては、もう囚われるほどの執着も無い過去なのだろう。
けれど沈黙はいつまで経っても続き、威津地彦は仕方がなさげにして、直の顔を覗き込んだ。
「……そう傷ついた顔をしてくれるな。 もう遠い昔の記憶だ。 誰の心からも風化してしまった、忘れられた出来事だ」
直は俯いていた。
どうしても顔向けできないような、ひどい表情を浮かべていたはずだったからだ。
熱い目元に歯を食いしばって、直は必死に堪えていた。
いいえ、貴方も。
貴方だけでなく、惑いの森で出会った猿たちも。
まだその遠い記憶を忘れられずにいる。
それが悲しいような、申し訳ないような気がして、手を握り込む。
泣いては駄目だと思うのに、潤む視界はどうしようもない。
無闇な謝罪を口にできたなら、どれほど救われるだろう。
けれど救われるべきなのは自分ではないし、威津地彦がそれを望んでいるわけでもない。
直は熱い息を押さえて、じっと耐えた。
言うべき言葉が分からず、そうするしかなかった。
そんな直を見つめ、威津地彦は「いい子だね、お前は」と荒っぽく直の頭を掻き交ぜた。
それがどこか尋巳に似ていると思いながら、直はなされるがままになる。
「お前達兄妹を見ると、あの子等の事を思い出すよ。 本当に仲の良い子等だった」
「…………」
「だから、泣いてくれるなよ。 涙よりも、笑ってくれている方が、己は嬉しい」
頭上の手の温もりに切なくなりながら、直は黙ってこくんと頷いた。
言葉にしようとすると、きっと濡れた声しか出なかっただろうから。
それに安堵したのか、横の気配がふっと緩むのが分かる。
手はぽんぽんと直の髪の毛を撫でて、ゆっくり離れていった。
「まぁ、そう言う事で、己は里を離れたのさ。 今じゃあ新天地に至れて、いい思いをさせてもらっているよ」
ここはとても気持ちがいい所だしな。
何一つ未練を感じさせない口調で、威津地彦は空を振り仰ぐ。
それは確かに本心からの言葉だったのだろう。
晴れやかに雲を眺める横顔を、直はぼんやりと見つめた。
そこには、過去を憂う陰りなど読み取れない。
直は知らず、ほっと息を吐いていた。
辛い過去も、当人が痛みを伴うことなく思い起こせるのなら、それでいい。
自分には、深い傷を癒す言葉など持ち合わせてはいないが、共に話を聞くことで威津地彦が記憶を過去にできるなら。
そうできるなら、いくらでも傍で聞いてあげたいと思えた。
緩く笑む威津地彦につられ、直もゆっくりと頬を緩める。
すると、急に直の方へ顔を戻した威津地彦が、意味深長な表情でもって付け足してきた。
「だから、という訳ではないが…… 己は自分の群れも、ようやく愛おしんだ子等も失くしてしまったからな」
きょとんとする直の胸元――――荒渦の玉があった場所を指さして。
「誤った前例を倣いにして、お主は大切なモノを失わぬように、な」
大切なモノ?
威津地彦の指の先を目で追いかけ、数舜ぼけっとしたあと。
直はぶわっと熱い汗を流し、慌てふためいた。
「な、何のことですか?!」
「いやぁ? 言ったろう、『この土地に根ざす者のことはよく分かる』と」
ニヤニヤと顎を撫ぜる表情がまたしても尋巳のようで。
絶句して目を覆った直は、呻く様な声で「……人が悪いですね」と絞り出した。
いや、この場合、『猿が悪い』とでも言うべきなのだろうか。
「人で言うところの、老婆心だ。 余計な世話だったか?」
じとっとした直の視線にも余裕たっぷりの調子で、威津地彦は堂々と腕を組む。
それをしばらく眺めた後、なにもかもお見通しなら無駄な抵抗かと、直は渋面のまま溜息をついた。
威津地彦の指した勾玉のその先。
ここ数日のあいだ直の心の中に居座っている、ある異形の姿をした、捉え所の無い漠然とした感情を吐き出す。
「……自分でも、よく分かってないんです。 なんかアイツのことを考えると、よう分からんもやもやがあって。 アイツが祭に来てくるってゆうてくれて、そりゃあ、う、嬉しかった、んです、けど」
竜宮で別れて、すぐには会えない距離に、寂しくもなって。
でも、また会えるという約束があることで、こんなにも心が柔らかく跳ねる。
媛の寝所で荒渦の玉が変じたとき、直は知ることが出来た。
自分は、目の前の存在に名を呼ばれることが、他の誰にそうされるよりも嬉しくて仕方がないのだと。
それくらい、直の中で八景の存在は、重要なものになっているということ。
でも、その一連の心の動きは、何を意味するのだろう。
それが分からなくて、自分の中を見つめようとして。
結局、こんがらがった糸を解けずに立ち尽くしているような顔をして、直はがくっと首を落とした。
「一月って、分かってた筈なのに…… もうアイツが居なくなるんやと思うと、なんか、訳分からんくらいぐちゃぐちゃ? した気持ちになるんです。 どうしてこんな、」
よく分からない感情があるのか。
ぐるぐると廻っている思考を追いかけている直を見て、威津地彦は奇妙なモノでも見つけたような顔をする。
「はっきりせんとは、面妖な」
そこまで白状しておいてか? と何やらブツブツ言っている威津地彦に首を傾げると、直は海を見遣って呟いた。
「私は…… 八景と離れるのが、嫌なんでしょうか」
二度と会えぬ別れになることが、つらいのだろうか。
言葉にすると、ほんの少し気持ちがはっきりする。
そうか、自分は寂しいのだ。
八景という友人を失うのが、それを引き留める理由がないのが、哀しいのだ。
一人腑に落ちた直は、すっきりすると同時により落ち込んで、引き寄せた足の間に頭を落とした。
気持ちが分かっても、迫る離別は避けようがない。
術という縛りが無くなれば、八景は海に帰ってしまい、二度と会うことはないだろう。
それを引き留める理由など二人の間にはないし、直の勝手で引き留めて八景を困らせることも、直は望まない。
やはり、明日が別れか。
心がぽっかりと重さを無くしたような感覚がして、なんだかそれが身を苛むようで、直は顔を上げられなかった。
そんな姿をどう思ったか。
様子を窺っていた威津地彦は、呆れたように肩を竦めて言った。
「己に言わせれば、手放すのがそれほどまでに苦しいのなら、最後まで手を伸ばし続ければいいだけだ」
「!」
何の重みもなく投げかけられた言葉が、空の心に落ちてきたようだった。
衝撃に振動する心が頭の中を震わせて、瞠目した直は、目の奥に満月を見る。
『諦めるのがそんなに苦しいなら、最後までやりたいと、はっきりそう言え」
迷惑になりたくないと自分を押し込めていた直に突き刺さった、一本線の視線。
あの時と同じくらいの強さで、今もその声は直を揺さぶる。
「死に分かれるわけじゃないんだ、望む余地があるなら、最後まで手放さぬようにしなさい。 どれほど諦めるための理由を見つける事が出来ても、自分の本心を見失わぬほうがいい。 ――――己は結局、どちらも失くしてしまったからな」
「私は……」
失う痛みを知った威津地彦の、優しい眼差しが直を見守ってくれている。
直はくしゃっと目元を歪めた。
「私は、」
そこにあった勾玉を握るように、服を掴む。
握った手の下で、解けかけた糸の先を捕まえた心が、大きく音を立てた。
八景。
お別れを言わなくては。
だって、引き留めるなんて――――
できないよ、と叫ぶ頭の声をかき消して。
消そうとした答えの形を、その音は直よりも先に知っていた。




