本宮 一
祭りの当日に向けて、迎山ではその準備に追われていた。
掃き清めた境内と階段には、長く使い古されてきた提灯明かりを。
開け放った本殿には、供物を連ねる祭壇を。
拝殿前には即席の舞台が整えられ、四方に紙垂のついた注連縄が張り巡らされる。
準備には親戚中の男衆が前日の朝から駆り出され、一日がかりの大仕事になる。
今年は前日も当日も晴れの日和に恵まれるらしく、順調に祭りの舞台は整えられていった。
八景たちとの縛りも消え、彼等を引き連れ歩くことも無くなった直たちは、その準備に最初から参加した。
よく顔を合わす親類から、県外から駆け付けた者まで。
親戚連中に挨拶して回りながら、力仕事を手伝った。
その時一緒に手伝っていた晴真は、他の従兄弟たちよりも話しかけられることが多く、その度に大人びた様子で受け応えていた。
「晴真君、大きくなったなぁ! 来年はもう早、中学か」
「このまま、高校大学も一気に成長してまうんやろなぁ。 晴君はしっかりしとるし、親父さんも安心やわ」
「中学も今の持ち上がりやろう? ええとこ通っとるし、きっとええ高校行くやろ」
「そうなったら、この神社も安泰やなぁ」
気の早い小父たちに囲まれる晴真を、直は遠目にはらはらと見守った。
あの子がこういう空気を好んでいないことを知っていたから、暗い顔をしやしないかと気がかりだったのだ。
けれど、晴真は浴びるように降る小父たちの褒め言葉に、顔色一つ変えず対応しきった。
その合間に直の視線にも気づき、『全くしょうがないよね』とばかり、肩を竦めて苦笑してみせたりもする。
直はその表情に、どこかほっとした気持ちになっていた。
晴真はもう、柵から逃げ出したい自分の思いに、顔を背けてはいない。
ちゃんと向き合う安定感を手に入れているのだ。
それをもたらしたのは、確かにあの花火の日。
真っ直ぐに晴真に向き合ってくれた、文都甲のおかげなのだろう。
あの言葉が晴真にどんな風に響いたかは当人にしか分からないが、それでも直はあの日の文都甲にありがとうと伝えたいと思うのだ。
叶うならあの人にも、最後の夜を自分たちと過ごしてほしかったけれど。
ここを去ってしまったあの人が残してくれたものは、裏切りだけではない。
こんな思いも確かにあるのだと、直は笑う晴真に思うのだった。
***
昼の蝉が、今日の終わりに鳴いている。
迎山の境内の中心に、無垢の木材で組まれた舞台。
その上で直は額を拭っていた。
明日に備え、本番通りの練習を行っていたのだ。
「(もう戻らんと、遅れるかな……)」
腕時計を確認すれば、夕飯の時間までもうそろそろだ。
当番の尋巳は少しばかり先に戻っている。
夕食前に風呂にも入りたいので、ここら辺が頃合いだろう。
ふと、湿った風が頬を撫でる。
その後を追うように顔を上げると、波のない瀬戸の海が西日にきらきらと輝いていた。
ほうと溜息の漏れる光景へ誘われるように、直は舞台の端に腰かけた。
「励むのぅ」
「!」
突然降って来た声に、直はぱっと顔を上げた。
見上げると神社の鳥居の上に、見慣れぬ大きな猿が座り込んでこちらを見下ろしている。
普通なら大声を上げて騒ぎ立てるところだが、直にはすぐ分かった。
昨晩神社からけろりとした顔で戻って来た夏子が、教えてくれていたのだ。
『神使様、ちゃんと戻って来られたよ』
夏子の、人の姿を失ったということは、つまりそういうこと。
本来の白毛紫眼の猿の姿を得た威津地彦が、そこにいたのだ。
「あ…… えと、」
いきなりのことに言葉を選べなくて、直は結局ぺこりと軽く頭を下げる。
それに笑いを漏らすと、鳥居を飛び降りてきた威津地彦はのしのしと直に近づいて、直の横に同じように腰かけた。
直と同じくらいの背丈の威津地彦が横に座ると、丁度の位置に横顔がくる。
先ほどまでの直と同様に、威津地彦は目前の海を眺めだした。
「あの、神使様、ですよね?」
「ん? ああ、そうだな」
「その、なんというか…… こんな大っぴらに姿現して、大丈夫なんですか? 一応、神様的なものに戻ったんですよね」
夕時とは言え、人が上がって来ないとは限らない。
誰かに見つかったらまずいのではと直が心配すると、威津地彦はくくっと笑って首を振った。
「案ぜずとも、己の姿はお主等兄妹にしか見えはせんよ。 今も、傍から見ればお主一人で喋っておるように見えるだろうな」
「えっ」
なんだと?
それでは完全に変人ではないか。
それではますます人が来ては困ると、直はきょろきょろと辺りを見回した。
「人の気配がすれば教えてやるよ。 この土地一帯の者の気は、よおく分かるからな』」
「? 何でですか?」
「己はこの土地の神社の使いだぞ? この土地に根ざす者のことが分かっておらねば、役目など全うできまいよ」
「そうゆうもんですか」
「ああ、そうゆうもんだ」
そうなのか。
いまいち納得しかねる話だが、直は素直に頷いておくことにした。
不思議な存在には、そちらで通じる道理というものがあるのだろう。
海を眺める威津地彦の横顔をちらりと見て、直は自分もそれに倣った。
「私、神使様の生まれ変わりは、晴真やと思ってました。 晴真だけ夢見たり、神使様の字が読めたりして……」
生まれ変わりの兆候らしきものがあったのは、晴真だけだった。
あの文都甲も勘違いしていたのだ。
それが実際は違って、夏子が当の生まれ変わりだった。
首を傾げる直に、威津地彦はうむと顎を撫ぜて言った。
「それはあれだ。 夢も文字も、夏子から出ていた己の気によって影響があったからなんだが…… 晴真とやら以外、お前達には強い海の気が混じり込んでいるだろう」
「海の気? ですか」
「そうだ。 持っていただろう、真珠」
威津地彦は、直の首元を指して示す。
そこにはつい先日まで、潮守たちと繋がった石がぶら下がっていた。
「あれのせいでお前たちの中に乱れが生じ、夏子から発せられる己の気配を感じ取ることが出来なんだのだ。 晴真にはそれが無かった。 だから一人だけ夢を見たり、文字が読めた」
だとすれば孝介は、と言いかけて、直ははっとする。
確か晴真が紋様を読めると言いだした直前、孝介は直たちの水映しの術とは違う、他の術を文都甲にかけてもらっていた。
アレのせいか、と直は威津地彦を見返す。
威津地彦はにやりと頬を歪めて、「早とちりだのぅ」と腕を組んだ。
「じゃあ真珠が無ければ、私たちも夢を見たりしたんですか」
「そうだな。 晴真のは己の気に中てられただけだから」
ということは、直たちはとんだ勘違いをしていたということだ。
疑われた晴真も災難である。
呆気ない事実に直が脱力すると、威津地彦は可笑しそうに大笑する。
そうしてしばらく笑っていたかと思うと、遠くを眺めて目元を緩めた。
「さて、しかし…… ここからの景色は、どれほど時を経ても変わらんのぅ。 海も、空も、暮れ行く陽の光も、昔と同じだ」
対岸に霞む、緑滴る四国の山の峰。
むくむくと湧き上がり、天を衝く入道雲は夏の盛りを感じさせ、海は静かに波打ち、日を照り返して瞬くように美しい。
見晴るかす景色は緩やかに時を弛ませるようで、泰然自若とそこにあった。
その風景へ嬉しげに顔を綻ばせる威津地彦を見て、直はでもと問いかける。
「やっぱり何年も経ってたら、変わってることの方が多いもんじゃないですか?」
「そりゃあそうだ。 人の一生など。この身に比べれば遥かに短い。 変わってゆくのは、世の必然だろう。 明日の祭だってそうだ。 己が去った後に、このような祭が執り行われていようとは思わなんだ」
自分がいた頃には祭など無かったし、ましてや本当に猿みたいな演技をする舞ができているなんてな。
人の考えることは面白いと、威津地彦は楽しそうに言った。
そこにある直たちへ興味、人への親しみを見て取って、直は思った。
「――――聞いていいですか」
「ん?」
「神使様はどうして故郷の山を出て、この土地までやって来たんですか?」
直の問いに、威津地彦はすっと表情を無くした。
何の感情も読み取れない表情に、直はぎくりと身を引く。
怒らせたのかと焦って言葉を重ねようとすると、威津地彦は手を上げてそれを押し止めた。
「大丈夫だ、怒ったわけではないよ。 気に病まんでいい。 ――――己の里で起こったことは、当代の者に聞いたそうだな」
どうしてそのことを、と直が目を瞠ると、威津地彦は苦笑して言った。
「この社の神様が教えてくれたんだ。 異界やお前達のことなら、あの方は己以上に何でもお見通しだよ」
それで、昔の話か。
過去を思い出すようにしながら、威津地彦は海を見つめた。
「そうさな…… 何故里を捨てたか、か。 しかし、どうしてそんなことを聞きたい?」
先にそっちを答えてくれんとなぁと横目で見られ、直は逡巡した。
本当に、ふと口をついて出た疑問だった。
直は、威津地彦の過去を聞き知っている。
その事実を鑑みると、今こうして人である直や兄弟たちに親しげにしていることが、なんだか腑に落ちなかったのだ。
威津地彦の群れは、人にひどい目にあわされている。
だったら人間を憎んでいてもおかしくないのに、どうしてそうしないのだろう、と。
そこをストレートに聞くのは憚られ、何故逃げたのかと聞いてしまったのだが。
考えたことを詳らかに言ってしまうべきか悩み、直は言葉が出なかった。
すると、じっと直を待っていた威津地彦は、優しい顔を浮かべて首を左右に振った。
「答えるのが難しいなら良いよ。 ――――まぁ、大した話じゃあないが、聞きたいなら話そうか」




