陸へ上がる 三
陸へ上がると、時刻は夜明け前だった。
神官たちに孝介と晴真の術を解いてもらい、潮守たちが竜宮へ戻るのを見送ったあと。
それじゃあ己は社に籠るからと、威津地彦は夏子の姿のまま神社の方に消えていった。
それを見送った直たちはしばらくぼんやりしたあと、誰となく家路へつき始めた。
家に近づくと、つきっぱなしの門灯が四人を出迎えてくれた。
体全体を気怠く覆う疲労感を引き摺りながら戸に手をかければ、玄関に鍵はかかっておらず、簡単に横に引けた。
からからと音をたてて引き戸を開けると、電気のついていた居間から、バタバタという物音が上がる。
小さく開いていた襖が勢いよく開いて、中から髪に寝癖のついた嶋が飛び出してきた。
ろくに寝ていないのか、その目元には薄っすらクマが浮かんでいる。
尋巳が「たでーま」と手を上げると、ふっと力が抜けたらしく、そこに座り込んでしまった。
しかし、夏子の姿が見えないのに気が付いたのか、嶋は一瞬顔を険しくして立ち上がろうとする。
そんな彼を尋巳が大丈夫だと宥め、全員で居間に入った。
座卓についた尋巳が、嶋に起こったことを全て話している隙に、直は台所に入って全員分の飲み物を用意することにした。
その時、余分に二つコップを用意しそうになって、はっと麦茶のピッチャーを傾けるのをやめる。
もう直と尋巳の分を用意するとき、二つ余計に入れ物を出す必要はないのだ。
行き場を失った手を下ろし、直は嘆息する。
台所の窓は山向こうの朝日の光に少しずつ照らされ、ほんのりと明るくなっていた。
もう向こうでは夜が明けている。
新しい日が始まるのだ。
それが少し寂しくて、直はコップの縁を指先でそっとなぞった。
***
祭りの本番を、三日後に控えた日。
補習終わりの尋巳を待って、座である天津弥彦・陸弥彦の二人は神楽の衣装合わせを行った。
本家の奥座敷を開け放って衣装を広げ、刺繍を入れた上掛けの裾直しを行う。
「直、あんたちょっと背ぇ伸びた? 丁度ええくらいやわ」
「え、マジか。 やったぜ」
「ちょ、尋巳動かんのよ! 針が刺せんやろうっ」
「へいへーい」
母たちが数か月かけて用意してくれた上掛けを身に着けて、両手を開き、直立不動のまま。
直と尋巳は、お互いの全身をしげしげと眺め合う。
「……なんか、いよいよって感じ」
「そりゃ、あと三日やじゃし。 しかしお前、馬子にも衣装やなぁ」
「尋兄は猫に小判、豚に真珠ですけどね」
軽口をたたき合っているうちに、母親たちに「はい、おしまい」と背をたたかれる。
衣装を脱いだ二人は、そのまま練習用の袴に着替え、稽古場に駆け込んだ。
あと三日、何とか形になって来た舞を、もっと見栄えのするように磨きをかけていく必要がある。
鼓役に孝介と晴真を引き連れ、格子窓から射し込む陽光の中、練習用の面を被って紐で結ぶ。
「じゃぁ、いくよー」
孝介の明るい声に小さく頷いて、さっと最初の構えをとる。
まずは《榊舞》。
鼓がポーンポーンと音をたて始め、すうと意識を体の動きに集中させた。
舞台に上がる所作から始まり、丁度中央で背を向け合う。
鏡写しのように手を動かし、立ち上がって参列者全員を清める動作。
「(あれ……?)」
動きの途中、直は小さな違和感を抱いて後ろの尋巳を見た。
何がおかしいのだろう。
それがはっきりと分からず、心中で首を捻りながら動きを続ける。
神使を勧請し、自らに下ろす動きを経て、いよいよ衣装を脱ぎ捨てる。
舞台の隅に向かい合って立ち、《曲舞》が始まった。
違和感は、ずっと付きまとっている。
神楽にしっかり集中しながらも、直はずっと、その正体を探し続けていた。
***
一通りの練習を終え、稽古場の壁に背を預けて座りながら、直は思い切って聞いてみた。
「なぁ…… 尋兄なんか、動き大人しいなった?」
練習をしていくにつれ、直は何となく違和感の正体に気が付いた。
元々荒々しかった尋巳の舞の所作が、どこか慎重に、丁寧になったようなのである。
荒っぽいのが陸弥彦の味だと豪語していたくせに、どうゆう心境の変化だろう。
不思議に思ってじっと従兄の横顔を見つめると、
「俺だけとちゃうぞ。 お前もやろ」
と、ペットボトルに口をつけて尋巳が横目を流す。
急に問いを打ち返されて、直はぱちりと目を瞬かせた。
自分も?
何処が? と、眉を寄せれば、
「必死さが、何か違う。 完成だけ目指しとるんと違うて…… あれや、張り切っとる」
何に期待しとるんやかなぁ。
にやにやと顔を覗き込まれ、何故だか顔がかっと熱くなった。
訳が分からずバタバタと腕を振り回した直は、仰け反って尋巳と距離をとる。
「んなッ なんっちゃ、ないよ! なんでもない、なんでもない!!」
「それでかよー? ざまぁねぇ」
けらけらと笑われ、直は頬を赤くしたままむっと口を尖らせる。
確かに尋巳の言う通りだ、自分は期待している。
それが何をかなんて、自分でもはっきり分かっていた。
祭りの日、本番の晩に、必ず来ると言った声。
それが今でも、耳の奥で繰り返される。
必死に腕を浮かんできたあの一本線の目が忘れられず、再び会うのを待ちわびているのだ。
その当日に、今までで一番の出来の神楽を披露しようと意気込んで。
それを見抜かれていたのにばつが悪い思いがして、直はぷいとそっぽを向きながらブツブツ言った。
「ウチのことはええやろ。 尋兄はどうしたんよ。 ちょっと踊っとる感じ、変わった理由」
慎重、丁寧と表したが、それだけではない。
尋巳が舞にそそぐ気配は、どこか柔らかで、慈しみに満ちたようになっていた。
何がそうさせるのだろうかと、じっと答えを待っていると、尋巳はふんと息を吐いてペットボトルを置いた。
「色々あったしな。 前は、豪快にやっとれば神使さんらしいもんになる、思っとったが…… 案外この神楽は、単純に神使さんの事を演じるだけと違うて、残ったこの土地のご先祖さん等ぁが、神使さんのために始めたんちゃうか思うたんや」
「神使さんの、“ため”?」
「色々あったわけやろうが、あの猿も。 その慰みに、ゆうことや」
”慰み”に。
尋巳の言わんとするところが分かって、直は息を詰めた。
穢れと手傷を負って現れた大猿。
それに付いてきたという仲山神社の巫女の一族。
この神楽が、兄媛を助けるために再び旅立った神使を偲んで、始められたものだとすれば。
この神楽の始まりは、はっきりと分かっていない。
元々はこんなに激しいものではなかったのは確かだが、最初にあった想いとはどんなものだったのだろう。
それを確定することなど、できはしないが……
尋巳の言葉に、直は両足を抱えて、
「そっか……」
と、呟いた。
従兄も従兄なりに、この一月を通して思う事があったのだ。
それが何だか嬉しくて、直は顎を乗せた膝の上で小さく微笑んだ。
なんだか、体がムズムズする。
早く神楽を完成させたくて居ても立ってもいられず、直は肩にかけていたタオルを取って立ち上がった。
「なぁ、早う練習しよ! お神楽、まだまだ改善の余地ありなんやし」
座っている従兄を引っ張り上げると、尋巳は「なんや、いきなりはしゃぎよって」と、呆れ交りで腰を浮かす。
祭りまで、あと少し。
神楽を威津地彦に披露するのも、アイツにもう一度会えるのも、もう少し。
舞へのモチベーションをはっきり自覚した直は、跳ねるように尋巳の手を取り、面を被った。
自分は、自分の納得できる演技を、皆に見せたい。
そしてそれが誰かを慰め、誰かを感嘆させるものになれば。
きっと自分は嬉しいのだ。
あんなに来るのが怖くて遠かった祭りの日が、今はこんなにも待ち遠しい。
直と尋巳は構えをとる。
飽き始めたらしい孝介の代わりに、晴真が鼓を構えてくれた。
早く来い、早く早く。
被った面の奥で目元を緩める。
逸る心を宥めながら、直はたんっと勢いよく床を蹴ったのだった。




