『その時』へ駆けて 七
そこは、波の打ち寄せる浜辺だった。
沈みゆく夕日を背にして、海は赤く染まっている。
浜に人影はなく、――――いや。
人ではないが、影は二つあった。
ひとつは身の丈五尺はあろうかという大猿。
その毛並みは白く、綾目色の瞳と共に、夕日の赤に美しく染まっていた。
もう一つは、浜に伏せた紫紺の甲羅を持つ大亀。
潮守と呼ばれる海の神官は衣を砂に汚し、呻き声と共に倒れていた。
『――――もう終いか。 海の御仁』
その力量、相当な実力者とお見受けしたが。
亀のけしかけた術の残滓を纏いながら、佇む猿は静かに問う。
二者は、長い闘いを繰り広げていた。
突然海から現れた亀に相対した猿は、その不思議な力に最初苦戦をしいられた。
しかし、地の利があった猿は徐々に勢力を盛り返し、一昼夜に及ぶ熾烈な争いは終に猿へと軍配が上がった。
そうして今、こうやって対峙している。
猿は亀が戦いを挑んできた理由を知らなかった。
だが、少し察してもいた。
こんな僻地の猿を襲う理由。
己の出自と、この地の神に与えられた、身に余る位。
それが、己の体に及ぼした変化。
猿は、ただ待った。
時間なら十分ある。
故郷を離れ、長い旅をし。
自らに付き従った人の一族と、この地の神に交わり、彼は変わった。
出会いが、彼を変えてくれた。
以前のような荒々しさは鳴りを潜め、黙して待つという静かな心境へと至っていた。
もう目の前の亀は、自分に対抗する手立てがない。
目的を達せず、願い敗れるしかない、憐れな存在である。
敗れた者への最後の情けとして、猿はその無念を聞いてやるつもりだった。
亀は砂を払い、嘴を噛みしめて言った。
『いえ…… いいえ。 私は、肝を、生き肝を、持ち帰らねばならぬ』
しくじるなど、許せるわけがない。
猿はすっと、目を細める。
許せぬとは、一体。
それはほかでもない、自分自身かと。
『何がそれほどまでに御仁を突き動かす』
そのように大粒の雫を零すほどに。
熱い息を吐き、亀は喉を震わせた。
夜を湛えたような大きな瞳から、ポロポロと涙を溢れさせて。
『陸が奪った…… 我が媛の、その笑みを、再び…… 取り戻さんが、ため』
幼き日の記憶。
水緒之杜の長に手を引かれ、初めて目通った、あの美しい方。
その苦痛に塗れた頬に、もう一度。
『私は、ただ…… 媛を、苦しみ、から、救いたかった、だけ……』
傷ついた体を丸め、亀の涙は、砂へと帰っていく。
まだ見ぬ微笑みは、遠く。
亀は視界が霞んでいくのを見ていた。
もう、胸裂けるほどに求めた笑みは手に入らない。
涙だけが溢れる瞳は、何も映さない。
伸ばしたヒレの先が、最後に見えた。
暗くなっている世界に、それだけ。
しかし、それを取る、一つの手があった。
手は、優しく亀のヒレを掬い上げると、もう一方をそっと重ねた。
『相、分かった』
声が聞こえた。
意識が途絶えていく。
……もうそれでいい。
願っても手に入らぬなら、せめてあの美しく悲しい方の傍へ、姿を失って……
『御仁、約束しよう。 幾年月ののち、必ず――――……』
***
「!!」
見開いた目が、ひどく熱い。
直は泣いていた。
零しても形にならない雫を、それでも何度も溢れさせていた。
夢だったのか。
迎山の神使と、若き日の甲兆の過去を見ていた。
夢と断じるには、あまりにも鮮明な情景だった。
神使の達観した静けさも、甲兆の痛切な感情も、身に迫るように感じられた。
悲しかった。
ただ、もう届かない過去の風景が、悲しいほど遠かった。
心を襲う感情の波に飲まれていた直は、そのため自分が置かれていた状況を思い出すのに時間がかかった。
絶叫と共に伸ばしていた手の先をようやく目に映し、涙が止まる。
幼い体に迫る刃。
振り下ろされてはためく、文都甲の袖。
その全てが、完全に止まっていた。
飛び掛かろうとしたまま動かない自分の体を見下ろして、直は混乱した。
世界が完全に静止している。
これは一体、なんだ?
動いていないのは自分と文都甲だけか。
浮子星は、尋巳は、神官たちは――――八景は?
無事なのだろうか。
今すぐにでも動いて確かめたい。
けれど、体は指一本すら動かない。
晴真の喉に迫る短剣を振り払いたい。
今しかないのだ、全てが時を止めている今しか。
どうか。
動いてくれ。
動いて、
――――動け!
『やれやれ、ようやく戻ったと思えば…… これは何事だ』
「!?」
静止した世界に、その声は響いた。
悲嘆する声は、直のよく知ったものだった。
けれど、なんで。
直は唯一動く目だけで、その声の主を探した。
直が思う通りなら、主はすぐそこにいるはずだったから。
タンッ
動く者のないこの場所で、その人はなんの支障も感じさせず立ち上がってみせた。
見開いていた目を、さらに開く。
『長い旅路の果てに、再びこのような場に至ろうとは…… 己の因果というものを感じずにはおれん』
解かれた髪が、海中に舞う。
驚愕する直を見つめ返すのは、綾目色の瞳。
夏子が、泡を抜けだし、そこに立っていた。
『このような行い、二度と起こさぬようにと誓って旅立ったというのに……』
再び、間違いを起こさせようとしてしまった。
いつもとは違った口調で話しながら、夏子は甲兆のヒレから短剣を取り上げる。
そしてそれを遠くへ投げ捨て、眠ったままの晴真を引き取り、その腕に抱きかかえた。
『甲兆、遅くなって悪かった。 今、戻ったぞ』
数年来の友人へそうするように、夏子は甲兆へ語り掛ける。
『確かに、約束は果たした』
その言葉が合図であったのか、急に世界が溶け出した。
「わっ」
「っ?!」
勢いのついていた直の体は、そのまま甲兆に突進し、二人は縺れ合いながら台座の上に倒れ込んだ。
背後では八景が二人の神官たちを抱え込んで、動きを封じている。
尋巳と浮子星はようやく糸から解き放たれ、次々に術の使えない神官たちを伸してしまっていた。
直に覆いかぶさられた甲兆は、両ヒレから消えたモノを探して辺りを見回していた。
そうして傍に立つ夏子に気が付き、はっと瞠目する。
その口が、「まさか」と動くのを直は見た。
『威津地彦の君……』
恐れ戦く顔で、甲兆は夏子を見る。
晴真を抱きかかえた夏子はひっそりと笑い、甲兆を優しく見下ろした。
『久方ぶりだな、六蓬子殿。 ――――約束には、間に合っただろうか?』
細い指先をかかげ、夏子は台座に浮く球を指し示す。
その指先をぎこちなく追い、甲兆は直の下から抜け出して、光るそれに這い寄った。
様子がおかしいのに気が付いた八景と神官たちも、縺れ合ったまま球を見上げる。
下を片付けた尋巳と浮子星は、台座に登ってきて同じように球を見た。
球に映るほっそりとした影は、ゆっくりとその上体を起き上がらせていた。
すると次の瞬間には音もなく球が弾けて、中にいた影が目の前に姿を現す。
ああ。
そう感嘆の声を上げたのは、誰だったのか。
その女性は、ただただ、美しかった。
身の丈は人の五倍以上あったが、長い髪を高く結い上げ、身を包む衣は咲き乱れる珊瑚のように艶やか。
そして人と同じ造形の体に、瞼のない瞳が深海を湛えたかのように見開かれていた。
その人こそが、この竜宮の主。
誰に言われずとも、直たちにも分かった。
『ああ、ああ……!』
驚きに目を見開き、全身を震わせ、それでも甲兆はその人へと這いずり寄っていく。
感極まった彼を、白魚のような手が掬い上げる。
恋い慕う人の胸に抱かれ、甲兆は泣いた。
その目を拭い、竜宮の媛は、眩しいほどの笑みを浮かべる。
慈しみに満ちた、花のような笑み。
それは、怨霊にまで身を堕とした六蓬子・甲兆が、数百年、求めて止まなかったものだった。
『ああ、媛様……!』
長い年月、現に彷徨った怨霊は、想い果たして海の泡と消えゆく。
最期にその目に愛しい笑みを映しながら、六蓬子・甲兆は万感を込めて想い人の名を呼び。
静かに満ち足りた表情を浮かべながら、永い眠りについたのだった。




