惑いの森 三
『我々の群れは『綾目猿』と人に呼ばれる、少々特異な一族でした』
なぜ『綾目』と呼ぶかというと、一団の猿は全て、綾目の花色に似た紫の目を持っていたからである。
よくご覧になって下さいと『彼女』に後ろを示され、直たちは背後の猿たちを振り返った。
一見茶色の毛並みを持つ猿たちは、どこも変わったところのない、よく知る普通の猿に見えた。
しかし、ようく目を凝らすと、その両目は確かに薄い紫色をしている。
元々そうだったのか、代を重ねるごとにそうなってきたのかは、今となっては分からないと『彼女』は言った。
『容姿が変わっているからと言って、我らには変わった力はありません。 ただ、山神様の領分である山の一角に縄張りを持っているだけの、一介の猿に過ぎませんでした。 しかし人にとっては我等のこの目はなにか特別なものに映ったらしく、その昔群れを山神様の使いとして、信心深く崇め奉っていたのです』
「でもさっき、貴女は私の傷を涙で癒してくれました。 十分特別な力があるように思います」
『それは、私が山神様に身を捧げた巫女だからです。 幾年月修行し、わずかではありますが神力を授かっているためです。 力と言っても、先ほどのように小さな傷を癒すほどのモノでしかない。 そして一族の者にはそれすらも無い、いたって普通の猿なのです』
紫は高貴な色。
それを瞳に持つ猿は、山神の眷属である神聖な御使いに違いない。
そう信じられ、一族は山神の地とされる禁域に住み、里の人間に大切にされてきた。
ある時、その群れに一匹の猿が生まれた。
それは生まれた時から白い毛を持ち、群れのどの猿よりも鮮やかな紫の目をした美しいオスの猿だった。
彼は長じるにつれ、猿とは思えない立派な体躯の成体へ成長した。
しかしその気性はひどく荒く、成年となる頃には誰も手がつけられないほどの、山一番の荒くれ者となっていった。
群れから疎まれ、山の獣たちからも遠巻きされ。
誰も寄り付かなくなったその猿は、いつも一人っきりで山を彷徨うようになっていった。
一方その頃人の世は、戦乱、飢饉、流行り病などが横行しており、猿たちの住む山の里にも、その波は押し寄せてきていた。
『平和に暮らしていたはずの里の者たちは、略奪や貧困にあえぎ苦しむようになりました。 苦しみに追い打ちをかけるように流行り病が村に蔓延し、体力のない子供や老人から、次々に倒れてい行きました』
ある夫婦は次々倒れていく子供等を前に尽くす手もなく嘆き悲しみ、ある若い男は若くして病に見舞われた恋仲の娘を抱えて無力な自分を涙ながらに責めた。
村は悲しみに包まれ、やがて病に食い殺されてゆくのを待つばかりの有様となっていた。
そんなときだった。
村の誰が言いだしたのか、一つの噂が里中に流れ始めた。
『それは全く根も葉もない噂でしたが、村の誰もが目の色を変えて聞き耳を立てるような噂でした』
曰く、
この病は、山の神の災いだ。
山の神の病は、山の神の薬でしか癒せない。
山の神が大事に囲っているあの紫の目の猿たち。
あれの肝こそが、この病を癒す唯一の万薬だ、と。
全く根拠のない噂だった。
当時薬として利用する噂があった、『猿の肝』から派生しただけの話だったのかもしれない。
しかし手立てもなく、ただ大切の者の死にゆく様を見ていることしかできなかった村人たちは、こぞってその噂に飛びついた。
肝を手に入れれば、家族を救える。
安直ではあったが、『手段』を手に入れた里の者の動きは速かった。
人々はすぐさま猿たちを狩るために、山神の土地として禁域とされていた山へ、山狩りに入った。
群れに危機が迫っていた。
そんな時、里の異常にいち早く気が付いたのは、なんとあの荒くれ者の大猿だった。
群れを離れ、たまたま人里近くにいた大猿は、村人たちが紫の目の猿たちを生け捕りにしようと話し合っているのを聞いていたのだった。
大猿はすぐさま、群れに危急の報を知らせた。
もうすぐここに里の人間たちがくる。
人間たちはこの群れを薬にするため殺しつくしてしまうつもりだ。
急いで深山の奥まで逃げるように、と。
『しかし、群れはこの知らせを信じませんでした』
山の神の御使いとして人に崇められてきた一族の者たちは、人が自分たちに徒なすなどありえないと、慢心しきっていたのだ。
群れは大猿がどんなに言っても、相手にしなかった。
それどころか、暴れ者の妄言などと全員で糾弾した。
『仕方ない部分もあったのです。 大君が荒ぶり、群れに害なしていたのは本当のこと。 二者の遺恨は根深く、話などまともにできる関係ではありませんでした』
そうこうしているうちに、人の手は群れへ迫っていた。
大猿が群れに追い払われた次の日、村人たちは捧げものだと言って、猿たちに供物を持ってきた。
猿たちは傲慢にも喜び、こぞってそれに食いついた。
しかし、それが間違いだった。
供物には痺れ薬が仕込まれており、群れの者たちは次々に倒れていった。
様子がおかしいと逃げ出した猿たちも、先に仕掛けられていた罠にかかって、ほとんどが囚われてしまった。
猿たちは混乱した。
何故、自分たちを神の使いと崇めてきていた人間が、このようなことをするのかと。
『一族は驕っていたのです。 自分たちこそは山神様の眷属、人すらも我らの前にはひれ伏すのだと。 しかし、それは誤りでした。 私たちは何の力もない一介の猿。 忠告にも耳を貸さず、愚かなのは我ら一族の方でした』
群れは生け捕りにされ、次々と腹を裂かれ、肝を取り出されていった。
その様は凄惨を極めていった。
囚われた猿たちが最早これまでと死期を悟った、その時。
一つの影が人間たちに向かって襲いかかった。
猿も人も、目を瞠った。
それは身の丈五尺はあろうかという、白銀の大猿だった。
群れを追われた大猿は、それでも群れを助けんと、再び舞い戻って来たのだった。
仲間の骸を目の当たりにし、大猿の両眼は怒りに燃える。
何故、奪うのか。
何故、殺めたのか、と。
『『猛君』は人相手に暴れ狂いました。 しかし、人方も家族を救うため、引くことなどできなかった。 互いに傷つけ合う争いは続いた。 『猛君』は人の目を抉り、喉元に食らいつき、多くの命を奪いました。 その美しかった白い毛を、鮮血に赤く染め上げて』
やがて勝敗は決した。
荒れ狂う大猿に恐れをなした人は、生き残ったものから里に逃げ帰り、山には静寂が訪れた。
猿と人の骸が夥しく転がる惨状の中、大猿は一人立ち尽くしていた。
生き残った群れの一団は身を寄せ合い、その姿を固唾を呑んで見守った。
大猿は何も語らず、何も求めず、ただ暮れ行く空を振り仰ぐと、ゆっくりと動き出した。
そしてそのまま大猿は山中に消え、二度と戻ってはこなかった。
『多くを殺め、血という穢れを纏い、姿を眩ました『猛君』の行方を、我々はついに知ることはありませんでした。 ですが、彼のお方のおかげで今もこうして群れが命を繋ぐことが出来ているのは、確かなことです』
その一件以来、群れを憐れんだ山神の采配で、一族は山神に隠されたこの森で暮らしているのだという。
群れに伝わる話は、これだけです。
『彼女』は静かに頭を垂れると、小さくそう言った。
***
『彼女』の話が終える頃。
まるで膜が張ったかのように、うっすらと世界は揺らいでいた。
「直」
声と共に、目尻に温もりが触れる。
拭われて、ようやく分かった。
揺らいでいたのは本当で、それは涙の雫を通して見ていたからだった。
普段の粗っぽさからは想像もできないほど、尋巳の手は丁寧に水気を攫ってくれる。
それをそっと掴み、直は俯いた。
どうして、――――どうして。
零れ落ちる涙は次々に溢れ、決して止まってはくれなかった。
心が酷く寂しかった。
寂しくて、苦しくて、掴んでいた尋巳の手を両手で強く握った。
他に頼るものがなく、縋るように握りしめた。
『…………優しい方ですね。 遠い昔に冥途へ渡った命を、憐れと思って泣いてくださるのですか』
『彼女』の声が、柔らかく直を包む。
その優しさに、直は俯いたまま強く頭をふった。
違う。
これは、そんな綺麗な理由のものじゃない。
ただ、どうしようもない現実を前にして、途方に暮れているだけだ。
大切な人の為に無意味な命を奪おうとした人の過ちと、無残に死んでいった猿たちと。
救うために手を汚すほかなかった神使のことを思って。
小さい子供のように、呆然と泣きじゃくっているだけのことだった。
いつまでも泣き止まない直を、尋巳が肩を掴んで引き寄せる。
俯いた額が尋巳の左肩にぶつかり、震える背を、大きな手がゆっくりと叩いた。
「…………どうして、」
どうして、そんな惨い。
しゃくりあげる息の合間に、声が零れる。
それに目を伏せた『彼女』は、仕方がなかったのだと、寂しげに言った。
仕方がなかった?
こんな悲しいことが、そんな風に言い終えられていいのだろうか。
自分にはそう思えない。
面を上げた直は、涙で霞む目で『彼女』を見つめた。
「――――貴女は、貴女の一族は、人間を恨んではいないんですか。 私たちを追いかけたのも、人間を、」
自分たちに強いた人の過去の行いを、厭うているからではないのか。
恨んでいると言われても仕方がない、直はそう思っていた。
けれど『彼女』は、優しい微笑みのまま、頭上の一族を見回して再び直を見る。
『確かに、一族の者は、今でも人を恐れています。 大切な仲間を奪われた記憶は、何代にわたっても、中々潰えることはありません。 それはこの神の森に住み、人と切り離されてしまったが故の事でもあります』
人と交わる事がないということは、古い記憶が塗り替えられる事がないということ。
過去の恨みはそのまま、言い伝えられてしまいということ。
それを選んだのは自分たちだから、仕方のないことだと『彼女』は目を伏せる。
『なれど私は思うのです。 我らを襲った人にも、理由がなかったわけではない。 元々人は、我らを神の使いとして畏れてもいた』
神のモノに手を出すことは、ひどい災いを招く。
当時の人は、それを固く信じていた。
それを分かっていても、凶行に手を染めたのは、
『死にゆく愛しき者を前にして、自らに降り注ぐ災いよりも、他者の救いを求めた。 その優しさが、全ての始まりだったと』
それがどんなに畏れ多い事でも、行わずにはいられなかった哀しさだと。
『彼女』は儚く笑う。
『優しかったから。 優しければ優しいほどに、凶事を行わずにいられなかった。 そのことを思えばこそ、人への恨みばかり囚われることは、私にはできなかった』
彼女の微笑みに、直は目を見開く。
優しさが、人を駆り立てた?
だから恨みはしない。
そう、『彼女』は言うのだろうか。
その時、ふと八景と目が合う。
電車で苦しんでいた八景を見て、思ったこと。
苦しみを除いてあげたいと自然に湧き上がった想い。
それが人を駆り立てったのだというのだろうか。
だとすれば、直は人の想いも分かってしまう。
尋巳との間で、胸元を強く握った。
胸が痛い。
引き裂かれそうに痛かった。
許されていいとは思えない人の行いと、それでも許すのだという『彼女』の言葉の狭間で。
再び溢れる涙に、尋巳の肩に隠れる。
それを見下ろし、尋巳は『彼女』を真っ直ぐ見つめて言った。
「話、してくれて、ありがとうございました。 神使さんのこと、知ることが出来てよかったです」
『――――私は、務めを果たしただけです』
頭を垂れた白猿は、余談事だと前置いて、最後に教えてくれた。
薬として『猿の肝』を求めた人の思惑は、強ち間違いでもなかった。
長らく山神の神域で過ごし、清廉な霊気にさらされた『綾目猿』には、数代に一度『彼女』と同じ白毛の猿が生まれる。
その猿が神の元で修業し、神位を賜れば、その臓腑――――特に肝は、神をも癒す万薬となるのだと。
『私は、神位を賜るまでには至りませんでした。 『猛君』は、成し遂げたのですね』
帰り着く神の元を、見つけたのですね。
遥か昔袂を分かった、我らの群れから離れた、遠くの地で。
『彼女』の言葉に、直たちを囲んでいた猿の一群も、いつの間にか一斉に頭を垂れていた。
辺りが静けさに包まれる。
全てを語り終えた『彼女』は深く目を閉じると、踵を返して言った。
『さあ、あまりここに長居していても良くはありません。 ここは山神様の惑いの森、人が入ってはならぬ場所。 …………貴方方にも帰るべき場所があるのでしょう』
そうだ、自分たちは戻らなくてはならない。
ようやく引き始めた涙をぬぐい、直は『彼女』の背を見遣った。
「自分等は、どうやってここまで来たか分かってません。 元の場所まで帰ることはできるんですか?」
尋巳の問いかけに、社の階段の前で止まった『彼女』が振り返る。
『大丈夫、貴方方が通って来たのは、境の神の道。 異界を通る道です。 私にその力はありませんが、道は通るべき者の前に開かれ、帰りつくべき場所へ導きます』
目を閉じて、元居た場所を思い浮かべて。
『彼女』の言葉に導かれ、二人はそろって目を閉じる。
瞼のない潮守の二人も、頭の映像に集中した。
元居た所、あの夏の小さな社の事を思い浮かべて。
「「「「!?」」」」
瞬間、来た時と同じ力が、二人と二匹を襲った。
あの引き込まれるような感覚。
咄嗟に直は目を開けた。
「あの!」
力に逆らって、優しげな面差しで此方を見つめる『彼女』へと叫ぶ。
「ごめんなさいッ ――――ありがとう!」
それが最後。
次の瞬きの後には、穏やかな森に若い人間の姿はなかった。
窪地に佇む一匹の白い猿は首を垂れると、社を振り仰いで目を細めるのだった。




