惑いの森 一
鳥の声がする。
小鳥の高い囀りと、羽ばたき。
群れた葉を透過する、柔らかな陽光。
木々の根が這う土の湿った香りと、遠くから聴こえる、微かな水の流れる音。
それはまるで、真っ直ぐに切り裂かれた布地の穴のように見えた。
何もない宙に現れたその裂け目から人影が二つ、無防備に地面へ投げ出される。
「「うわっ!」」
しかし、落ち葉の積み重なる柔らかな土がクッションになって、二人は痛みも少なく、なんとか手をついて立ち上がった。
「っ……直、大丈夫か?」
「うん…… 尋兄は?」
「何ともない」
無事を確かめ合った二人は、それぞれ自分の相方を確認する。
肩に乗っていた八景は「なんともない」と平気そうだが、浮子星の方は落ち方が悪ければ危うく尋巳に潰されていたところだ。
落ちたときに放りだされたのか、地面の上でこっちだと鰭を振る浮子星を、尋巳はそっと拾い上げる。
全員怪我も無く無事なようだ。
服に着いた土を払いながら、直は辺りを見回す。
ここは一体どこだろう。
辺りは背の高い木々が生い茂り、それが幹の合間から見渡せる平地の先まで続いている。
これではまるで森だ。
混乱した直は、片手で髪をかき上げて困惑した表情を浮かべる。
つい数舜前まで直たちは山中にいたはずなのに、どうして平地の森へ移動している?
見たこともない、この場所は、一体全体どこなのだろう。
自分たちの身に、何が起こったというのか。
「な、にが、起きたん、コレ…… ここは、「しっ!」
突如伸びてきた手に口を塞がれ、直は口から出そうとした言葉を飲み込んだ。
腕の先を辿れば、ひどく顔を歪めた尋巳と浮子星が頭上を注視している。
「(何?)」
つられて、直と八景も上を見上げた。
上げた視線の先から、一枚の木の葉が舞い落ちてくる。
視界を覆った葉が、ひらりと身を躍らせた刹那。
「「!!??」」
全身が総毛立った。
見られていた。
編み目よりも複雑に絡み合った枝葉の間。
そこから覗くのは、敵意に歪んだような、目、目、目、目、目。
数えきれないほどの瞳。
じりっと、意図せず直は後退る。
歯を剥き出しにしてこちらを見下ろしていたのは、大量の猿の集団だった。
いやに辺りだけ陰が濃いと思っていたのは、突然の来訪者を威嚇する、ニホンザルの群れだったのだ。
心臓が急に脈拍を早め、全身から嫌な汗が噴き出す。
無意識に何かを言いかけ、口がはくはくと開閉した。
これがどんな状況かは理解が追い付かなかったが、少なくとも直の本能は身に迫る危険を察していた。
こんな数、襲われでもすれば、
血が足の方へ下がる。
干上がった喉に、何とか息を通そうと短く呼吸した、瞬間。
キャァアア!!
「走れっ!!!」
一匹の猿の雄叫びと、尋巳の絶叫。
弾かれてように直は土を蹴った。
動き出した二人を追って、群れが枝の上を走りだす。
静けさに覆われていた森に、一瞬で風を切って疾走する物音が響き渡った。
足元は木の葉と木々の苔で、ひどく足を取られる。
前を行く尋巳を懸命に捉え、直は全速力で走った。
しかし、駆けても、駆けても、頭上の枝音は振り切れない。
むしろ段々と二人を囲い込むように迫ってきているように思える。
コッコッコッコッコッ!
猿の集団はめいめいに短い鳴き声を発していた。
それが何を意味するのか正確なことなど知らないが、猿の生態になんて通じていなくても分かる。
アレはこちらを威嚇する声だ。
一瞬見えた背後。
木漏れ日が漏れる空を、黒い影がびっしりと覆っている。
木から木へ、頭上を走る猿の大群に、二人は徐々に飲まれている。
地の利は明らかにこちらにはない。
まだこちらが走り続得るだけの力があるから、あちらも手を出さずにいるだけだ。
あれらは待っている。
地を這う獲物が力尽き、足を止める、その時を。
あの数に纏わりつかれれば一たまりもないに違いない。
「どうして、なんで猿なんか!」
「知るかそんなもん!! とにかく足止めんな! 走れ!」
尋巳の足は、悪路のハンデなどものともせず前を行く。
追いかける直は、足を止めないだけで精一杯だ。
少しずつ二人の距離が離れ始めるのを、歯を噛みしめて食らいつく。
「おいッ 俺の術を解け!」
左胸の上あたりにへばりついた八景が、後ろを振り返りながら叫んだ。
八景のいる分、確かに走りづらくはあるが、今変化に割く余裕などない。
直はぴしゃりと「大人しぃしとってっ!!」と言い捨て、八景を胸の中心に庇った。
八景に気を取られていた一瞬。
尋巳に数歩遅れた直へ向かって、先頭を走っていた猿が奇声を上げながら襲いかかってきた。
「!」
目前に迫る牙。
咄嗟に黒い塊を、左手で薙ぐ。
接触した時、むき出しになっていた前腕を猿の犬歯と爪が抉った。
皮膚に熱のような痛みが走るが、高ぶった神経の前に呆気なく掻き消える。
八景が何かを叫んだ――――――だめだ、足を止めるな。
前へ前へ、早く、追いつかれる。
「直ッ あっちや!」
前を行く尋巳が、どこかを指さしている。
その先を見遣り、
どくり
直は心臓が大きく脈打ったのを感じた。
その得体の知れない気配に、ざわざわと全身の毛が逆立つ。
その一角は、薄く陰の落ちる森の中で、一際陽光に溢れていた。
木々が開け、優しい水音が響いている。
あそこには、『何か』ある。
耳の奥がさざめく。
あそこだ。
あそこへ、行かなければ。
根拠のない衝動を自覚すると同時に、尋巳と直は、鋭く体を捻っていた。
汗の滲む足で、一心不乱にそこを目指した。
安定しない道を我武者羅に走るせいで、もう足も肺も、限界に近かった。
けれど、『そこ』を自覚した途端、体が疲労を拭われたように軽くなる。
早く、早く、早く。
あそこへ!
木立が途切れる。
「ッ!」
「ぁ…!」
木々を突き破るように光へと飛び込めば、窪地になった地形に体勢を崩し、二人して宙にもがいた。
勢いのついた体はそのまま降り積もった枯葉の上を転がる。
柔らかな地面のおかげで激しい痛みは無かったが、背を打った衝撃で一瞬息が詰まった。
受け身を取った尋巳は、すぐさま上体を起こし、辺りをぐるりと見渡す。
直は熱く疼く腕の痛みを押し殺して、引きずるように頭をもたげた。
視界には、直を庇う尋巳の横顔。
鳴き声は止んでいた。
しかし、
「危機一髪、か、絶体絶命か……」
張りつめた顔で無理矢理に笑いながら、尋巳が呟いた。
開けた土地を囲うように並び立つ背の高い木々。
その枝を覆うように、びっしりとしがみついている猿の大群。
その目は深い憎しみを湛えたまま、じっと獲物を見つめていた。




