海の京 四
六蓬子・甲兆は、美しく聡明な若亀の潮守だった。
長の紋様を持って生まれた甲兆は、幼い時から水緒ノ杜に仕えていた。
その流力は当時の長をもしのぎ、賢さでは京で右に出るものの無かったほどだという。
日々を杜の仕え事に勤しみ、朋友と切磋琢磨していた甲兆はある日、己の一生を変える出会いを果たす。
「甲兆齢十の頃。 同い年の学友に先んじて、彼の者は辰の君に目通りを果たしたのだ」
数千年の眠りにつく、不起の媛君。
幼い甲兆は、その姿に一瞬で目を奪われた。
なんと美しく、哀しい御姿であろうか。
気高く慈しみ深い甲兆の心は、その時から憐れな媛君に捕らわれ離れられなくなってしまった。
「その日からよ。 それまで多くの水緒ノ杜の学者が果たせなかった辰の君の治癒に、甲兆が挑みだしたのは」
甲兆はありとあらゆる文献・学説を読み漁り、媛君を長きにわたる苦痛から救うための調査と研究に明け暮れた。
それは長い年月を要した。
そうして甲兆が壮年に差し掛かる頃、彼は一つの噂を耳にする。
豊芦原中つ国。
その地の海を臨む社に、神位を賜った元野卑の猿が生まれたと。
「それが、」
「ウチの神社の、神使さん」
瑚亡は頷き、そしてと続ける。
噂はそれだけではなかった。
もと野卑の猿が神位を賜るなどひどく稀な事。
その上、その猿は生まれが変わっており、体には稀有な妙薬を宿していた。
「(生まれが変わってる? まだ何か、神使さんの知らんことがあるん……?)」
疑問を抱く直をよそに、話は進む。
昔、まだ残っていた陸との消息筋からもたらされた話に、甲兆は飛びついた。
稀有な妙薬とは、神すら癒す、奇跡の薬。
そしてそれは、新たに生まれた神猿の生きた肝――――『猿の生き胆』であった。
「長らく研究に明け暮れ、あらゆる手立てを失していた甲兆は、藁にも縋る想いで海を出た。 件の神猿はすぐに見つかった。 見つけた猿は、陽光に雄々しくきらめく白毛に、紫に澄んだ目をした、それはそれは見事な大猿だったという」
相手は元野卑とはいえ、神位の猿。
肝を奪うとなればそれを殺さねばならぬ。
それは神殺しにも等しい忌事であった。
「けれども辰の君の治癒に囚われていた甲兆は、恐れ多くも神猿殿に戦いを挑んだ」
甲兆は流力を用い、猿の神使を捕まえようとした。
しかし、争ったの陸の上。
場の利を得た神使に、甲兆は敗れてしまった。
神使は甲兆に問うた。
『なぜ、己を襲ったのか』と。
本懐を遂げられなかった甲兆は、大粒の涙を流しながら訳を話した。
陸に裏切られ、病に倒れた辰の君。
それを癒さんとする己の目的。
万能だという肝を求めた事。
全てを静かに聞いていた神使は、しばし腕を組んで黙していた。
そうして己の仕える社の神に伺いを立てると、甲兆に向かってこう言った。
『そなたの目的、海に眠られる媛君の事。 全て承知した。 だが、この身はすでにこの山の神に捧げたもの。 肝をくれてやることはできぬ』
だが、自分も媛君のことは気の毒に思うと言い、神猿は提言した。
肝をやることはできないが、自分の知る方法で媛の穢れを払う手助けはしよう、と。
「それが、今に繋がるわけですか」
直の呟きに、瑚亡もうむと小さく応える。
「そうしてまた数百年、話は現在に至る――――わしの知っている話はこれだけだ。 以来、水緒ノ杜は媛様のご回復を宿願としておる。 それも、代々長の位に近い者だけに伝えられる話だがのう」
話し疲れたのか、瑚亡はやれやれと床に組んだ腕の上に顎を乗せた。
「……ありがとうございます、浪師。 この話、聞けて良かった」
八景は、すっきりとした様子で、師に頭を下げる。
それに瑚亡は鷹揚に頷いた。
「役に立ちそうか」
「はい。 知らずにいるよりは、ずっといい」
「では、戻るか。 娘さんも早う帰りたかろう」
「は…………」
出立を促され、八景は一瞬言葉に詰まった。
その間を読んだ直は、横を見て訊ねる。
「どした? なんかまだ、心残りある?」
折角来ているのだから、好きにしろ。
そう暗に含めて言うと、八景はばつが悪げな顔つきをして口籠る。
「何? ええよ、ウチは待っとくし」
「…………嶋と研究の話をしていて、こちらで確認したいことがあるんだ。 完全に私用なんだが、」
「ああ…… 無茶苦茶時間かかる?」
「いや、そんなには、」
「じゃあ待つよ。 気になるんやろ」
ほら、行ってきない。
間誤付く八景の背を押し、瑚亡にいいですかと問う。
休息をとる師は嬉しそうに勿論と首を振って、弟子に一帯の(帰京を催促してきた紙のようなモノと同様な板の)山を目で示した。
気を使うなら、早く取り掛かってくれたほうがいい。
そう言うと、八景は切り替えたのか、ガサゴソと紙の山を漁りだした。
さて、これは外で待っていた方がいいだろうか。
直が辺りを見回して思案していると、休んでいた瑚亡が「娘さん、娘さん」とコソコソと近寄って来た。
「はい」
「急に失敬かもしれんが、娘さんは今、八景と離れれんのだろう? この半月ほど、八景と過ごしてどうじゃった?」
どうとは、と首を傾げると、瑚亡はしんみりとしたように弟子の後姿を見る。
「あれはあの性格だ。 一緒に陸に上がっという幼馴染の二人の他に年頃の友もつくらず、仕事と書を読み耽ることににばかり打ち込んどる。 海を守ろうという思いの強さ故だというのは分かってはいるが、わしはどうもそれが気がかりでの。 娘さんのような年の近い相手と打ち解けてやっていけとるのかと、心配なんじゃよ」
「それは……」
八景を案ずる瑚亡の言葉に、直は一瞬口籠った。
瑚亡の心配する通り、二人のは決して、すんなりと打ち解けたわけではない。
喧嘩ばかりしていたこともあるし、敵意を持っていた時期もあった。
けれど。
「そうですね…… 最初は、流石に仲よくとはいきませんでした。 経緯が経緯ですし。 私も、あいつを敵みたいに思ったりしてましたし」
でも、そればかりではない。
満月の夜、背中を押された言葉たちを思い返す。
「でも、強情っぱりで文句も多い奴ですけど、人の事、ちゃんと見てて気にしてくれたり…… ええとこもあるんですよ、アイツ」
だから、今はもう、上手くやって行けている。
少なくとも直自身はそう思っている。
そう、頬をかきながら答えた。
するとそれを聞いた瑚亡は満足げに頷き、八景に聞こえないよう、声を低めた。
「学問なら、京でもできる。 じゃが八景は海を守るため、そのために自分にできることをと自ら考え、より学びたいと願っておった。 こんな辺境の老いぼれの元を訪ねるまでにな。 あれは優しい子なんじゃ。 …………この歳になって、あんに出来た弟子を持つとは思わなんだよ」
あれは自慢の子だ。
硬い殻を纏った老年の潮守は、慈しむように柔らかく目元を緩めた。
その笑みにつられ、直もひっそりと口元が緩む。
紙の山に埋もれ、一心に学ぼうとする若い潮守の姿を、年の離れた二人は静かに見守るのだった。
***
岩屋の前で見送ってくれる瑚亡に手を振り、二人は戻るために岩の高くなっているところに登った。
勿論、戻った時に目立たないよう、人の姿になってから。
「悪かったな、随分待たせた」
「待てんほどではなかったし、気にせんでええって」
手を振って答えると、青年は「そうか」と巻貝の笛を懐から取り出した。
その横顔をちらりと見て、直はにやりと笑う。
「……なんだ」
「いや? なんか、納得しただけ」
「何に?」
「なんでアンタが陸の人間を毛嫌いしてたんか。 なんで、あんに海を汚されて怒っとったんかゆうことに」
閉口した八景は、一拍して「…………浪師だな」と、後ろを睨む。
それにくくと笑い、直は困ったように眉を下げた。
「ごめんな」
人が、海を大切にしない生き物で。
静かに詫びる言葉に、八景はいやと、首を振る。
「謝るな。 謝罪を求めるような事じゃなかった。 俺も一方的に敵視して…… 料簡が狭かったんだ」
嶋と話をして、海を守ろうと考える陸者もいると知ることが出来たから。
今は、責める気持ちは凪いでいると、八景は真摯な声で言った。
息を吹き込んだ笛から、高い音が海を震わせる。
近づいてくる海ほたるを見つめる横顔に、目が引き寄せられる。
なんとなく手を伸ばしたいのを堪えて、直は心から嬉しげに言った。
「うん、じゃあ、ありがと」
「?」
「守ろうとしてくれてること」
「!」
嶋が言っていた。
『海自体は誰のものでもないよ。 だから、美しく保つ義務なんてものもない』
誰のものでもないものを、それでも大切にしようとしてくれていること。
青い光がどこからともなく巻きあがる。
眩しい光に、八景の表情は分からない。
でもそれは向こうも同じだと思うと、我慢せず頬を緩めることができた。
そして、二人を攫う奔流。
***
ぷはぁ!
浮かび上がって、頭を振るう。
海面を抜けると、辺りは赤い夕日に染まっていた。
見渡せばそこは、行きと同じ家の前の海岸だった。
「あー 帰って来たぁ…………うえ、耳に水入った」
こぽこぽと頭の中で揺れる水を叩き出しながら、砂浜ヘ上がる。
濡れそぼって張り付く服を絞りながら、家の方を見遣った。
夕方ということは、夕飯前の練習がある。
すぐ戻って服を着替え、髪を乾かせば――――なんとか間に合うだろうか?
「…………間に合うかなぁ」
「そう案ずることもないだろう」
独り言に、後ろから答えがある。
振り向くと、海水をかき分けながら、八景が近づいてきた。
「傍目に見ていても、日一日、進歩しているのは明白だ。 だから…… だから今は、余計な心配などせず、舞に打ち込め」
直の言葉を、舞の弱音と受け取ったのだろう。
濡れた髪をかき上げた八景は、ふんぞり返って直を見る。
「大丈夫だ。 なんとかやり切れ」
妙に上からの激励に、直はぱちりと目を瞬かせた。
それからじわじわと込み上げるものに押され、にっと片頬を歪めて、
「どーも」
赤く染まる景色の中、挑戦的に八景を見上げるのだった。




