海の京 二
移動は、突然終わった。
「――――着いたぞ」
八景の声に目を少しずつ見開き、衣に寄せていた頬を離す。
直たちは海中に浮いていた。
辺りは濃く暗く、生き物の気配はない。
そんな中、ほんのりと明るい一点を視界の端に捉え、直はゆっくりと振り向いた。
「!」
「あれが竜宮京だ」
それは、うねる海流の中にあった。
水底の闇に唯一浮かび上がる光。
輪のように連なった家々が渦巻くように幾重にも折り重なり、遠めには巨大な砂時計のように見える構造物群。
その中心は珊瑚が群成したような複雑な編み目が広がり、くびれを廻るように仄かな光が二つ、発光していた。
遠目に動く、小さいゴマ粒のように見えるのは、きっとここの住民たち。
あれこそが竜宮。
海底にあるのではない。
海流に漂う、一隻の船のような京。
「すごい……」
呆気にとられ感嘆する直に、八景はふふんと鼻を鳴らす。
自分の故郷を褒められ、嬉しいらしい。
もっとよく見ようと直が竜宮へ近づこうとすると、
「待て、そのままではまずい。 中に入るには、お前も変化してもらう必要がある」
と、八景が勾玉を示した。
なるほど、確かにその通りだ。
直は頷き、石を握る。
八景と同じ潮守の姿へ ――――いや、連れがいては怪しい。
目立たぬよう小さいの姿に。
勾玉を握り込み、ぎゅっと目を瞑る。
ポンっ
音を立てて、白煙に包まれる。
視界が白に覆われ、ぐにゃりと体が揺れる感覚。
眩暈のような違和感のあるそれに、内心うえっと舌を出す。
八景たちは毎回こんなふうに感じていたのか。
少々気の毒になりながら目を開けた。
目の前には、大蛸の八景の姿。
「……どう? これ。 ちゃんと変われてる?」
「あ……ああ、いいんじゃないか?」
手で体を触ろうと思うと、吸盤のついた腕が目に入る。
八景のいう通り、変化はできているようだった。
それならば、と気合を入れる。
「ほら、服ん中隠して。 早よ行こう」
衣の襟元へ身を隠し、流れ去ろうとする竜宮を腕で指し示す。
さあ、正念場だ。
直は海中の都を見つめ、腹をくくった。
***
外から竜宮へ入るには、砂時計の片方の膨らみの丁度中央付近にある、円形の門を通る必要があった。
巡邏するカレイの潮守に通行書を見せて京に入った二人は、まず八景の実家へと向かった。
禁裏に入り、もしそこで何かあった場合のために、竜宮の衣装があったほうがいいと八景が提言したからだ。
直は八景の懐から外をそっと覗き見た。
竜宮には土の道という概念がないらしい。
住人たちは海中を浮遊しているため必要性がないのだろう。
ただ、並列に並ぶ家々が『通り』を演出しているらしく、竜宮の住人たちはその『通り』に多く屯している。
そんな螺旋に浮かぶ家々を縦横無尽に泳ぎ去り、とうとうたどり着いた八景の実家を見上げ、直はあんぐりと口を開けて言った。
「……なぁ。 アンタってもしかして、ええとこの坊ちゃん?」
見上げるほどの円形の門構えと、延々続く敷地を表すらしい囲い。
咲き乱れる見たこともない海藻・珊瑚の類は美しく、とても上等な家に思えた。
そんな家に忍び込むため(家人に見つかっては面倒だと八景が言った)、明り取りの『水壁』というらしい透明な壁の抜け穴を通り、中に忍び込んだ。
家中には奉公人らしい潮守たちも多く、直は半眼で八景を見上げる。
彼らの目を掻い潜って使用人の部屋らしきところに忍び込むと、女中衣装だという服を拝借して、八景の部屋に向かった。
「とりあえず、ここで着替えておけ。 玉の変化のこともあるしな」
変身に関わる問題で未だに謎なのが、変化するときに変わる服のことだ。
最初の調査地の時、尋巳の私服から家に置いてきたはずの元々の衣装になって表れた八景に疑問を持ち、戻ってから色々調べてみた。
どうも変化するときに変えられる衣装は、最初術にかかった時に着ていた服だけらしく、他は変化の時に着ている服に戻るくらいらしい。
そして服の変化は、勾玉を握った時のイメージに左右される、というのが直たちの予測だ。
なので潮守になったときに着ているためには、一度服を着て蛸に戻る必要があるのである。
「じゃあ、潮守姿になればええんやね。 よし、」
床に舞い降りた直は、蛸の腕で勾玉を握る。
それを見て、八景は「おいっ?!」と慌てて近寄って来た。
しかし間に合わず、音を立てて白煙が舞う。
水の中なのに不思議な煙だと思いながら直が目を見開くと、目の前に驚愕した八景の姿があった。
『あ、あ、あ…… 阿呆かお前は――――――!?(小声)』
勢いに顔を背けて、耳を押さえる。
八景に声を落とすだけの分別が残っていてよかったなぁと思いつつ、彼がフルフルと指し示す自分の体を見た。
「――――あ」
直の全身は、八景の砂色より薄い赤に近い表皮をした体に代わっていた。
のびる腕は八本。
それぞれに、綺麗に並列に並んだ吸盤がついてる。
不思議と人型に近い体型は、確かに潮守の姿になっているらしい。
ただ、それが分かるということは、直が一糸纏わぬ全裸だということである。
「着ろっ 早く! 服を! き・ろ!!」
のたくたと腕で目を隠しながら、八景が衣装を突き付けてくる。
直はというと、全く恥ずかしげもなく突っ立ったまま、おずおずと服を受け取った。
どうやら自分の潮守の姿に慣れないせいで、裸だと頭では分かっていても、羞恥心が湧いてこない。
八景がばっと後ろを向いてくれるが、どうもと無味乾燥に思う始末だ。
とにかく服は着なければなるまい。
直は初めての体に悪戦苦闘しながら、何とか衣装に着替えた。
着方が合っているか確認してもらうため八景を呼ぶと、
「…………」
振り向いた大蛸は直を一目見ると、ぴたっと固まってしまった。
「どう? これ着方合ってる?」
その場でくるりと回りながら伺いを立てるが、固まった蛸はうんともすんとも反応しない。
ちょっと、と反応を窺って顔を覗き込むと、いきなり跳ね上がった八景はわたわたと腕を振り回しだした。
「あ?! あ、ああ… ああ! そ、そそそ、そうだな! い、いい、いいんじゃないか?!」
砂色の肌を変色させて引き攣ったように言う八景に、直は訝しげな視線を送る。
何なんだその挙動不審は。
どうも信用できない。
確認の為に姿見でも欲しいところだが、生憎八景の部屋にはそれらしいものは見当たらない。
諦めて八景に向きなおり、腰に手を当てた。
「とりあえず着れてはいるんやな? じゃあええわ」
勾玉を握り、蛸の姿になる。
何故か動揺したままの八景の懐に潜り込んで胴にあたりに一発、拳をくれてやった。
「しっかりしてや。 ほれ、出発出発!」
***
入った時と同じく、見つからないように八景の家を抜け出し、二人は砂時計の中心へ向かって進んでいった。
隠れて眺める外はどこを見ても珍しく、見ていて飽きない。
しかし、これから向かう先で待ち構えるものを思い出し、直はぐっと好奇心を抑え込んで八景を見上げた。
「これからどこに行くん?」
「『臣海磐座』、政の総本山だ。 そこで俺の上官に面会する。 通交証を出したから、もう俺が戻っているのは伝わっているはずだ」
螺旋の家々を流し見、幾人の潮守の横を過ぎ去って、二人は大きな円形の門の前にやって来た。
門は深紅の縁に墨色の両開き戸で、砂時計の蜂の腰を塞ぐように鎮座している。
あれが磐座への入口だと、八景が声を潜めて言った。
門に近づくと門番らしき潮守が二人、警棒を持って泳いで来る。
「手形を拝見」
「磐座、吏使庁・久東貞仁坊、参内の許可を願いたい」
袖を捲った八景は、腕にある黒いバンドのようなモノを見せる。
バンドには赤で紋様が描かれていた。
門番はそれを確認すると、どうぞと門の中心へ導く。
どうやら門は何重かに分けられていて、用途に合わせて開閉する大きさが変えられるらしい。
最も小さい門扉が重々しく回転してガチャリと音がする。
大きな門の中に消えるように戸が開き、門番に促されて中に入った。
「これが磐座……?」
「あまり顔を出すなよ。 ――――あれが本殿だ」
内部にあったのはまるで古い宮廷のような、広大な上下左右対称の建物だった。
薄紅色の珊瑚の森に包まれた紅い石柱の群れを行き交うのは、八景のような濃い色の官服を纏った潮守たち。
月に似た発光物に照らされたそこは、海底の闇に浮き立ち、不夜城のように佇んでいた。
「すご…… ほんとファンタジー」
回廊を彩る燈籠の明かりに目を奪われながら、直は呟いた。
無意識に身を乗り出そうとしたのを押し止められ、八景の懐で潜められた声を聴く。
「もし俺に何かあっても、絶対に顔は出すなよ。 離れられはしないが、バレずにいたほうがお前の身のためだ」
前を向いたままの横顔にそっと頷き、直はそっと服の影へ隠れた。
二人は守人たちに紛れるよう殿中に入る。
その姿を昇った月のような光が、静かに見下ろしていた。
***
『で、これから誰に会うことになるんよ?』
こそこそと懐から小声で伺うと、八景は進みながら同様に返してきた。
『言っただろ、俺の上官だ。 正確には、吏使庁長官様――――俺の父でもある』
え、父さん?
驚いて聞き返すと、しっと懐を押さえられる。
「久東貞仁坊、お戻りですか。 長官がお待ちです、こちらへ」
近寄って来たのは八景と同じ、蛸の潮守二人だった。
衣装の袖にある紋様が八景のものと酷似している。
辺りの潮守たちが何種類かの異なった文様の衣装を着ているのを見ると、同じものということは同僚だろうかと見当つける。
彼らに先導される形で長い廊下を進み、ついに行き当たったのは、臙脂色の両開き戸だった。
お辞儀して退く二人を見送り、八景は扉を見つめた。
『この中にいる。 いいか、部屋を出るまでは何があっても顔を出すな。 気配を気取られるのも駄目だ』
『分かってるって。 アンタこそ、上手いことやってよ』
言われるまでもない。
顎を引く様な仕草をすると、八景はぐっと取っ手に手をかけた。
扉が開く。
その気配を感じて、直は一瞬体を固くした。
布越しに廊下よりも明るい光に照らされるのが分かり、じっと耳をそばだてる。
「失礼いたします。 吏使庁士官、久東貞仁坊・八景。 報を受け、只今帰庁致しました」
聞いたことのない固い声で、八景が入室を告げる。
直は部屋の気配を探るが、動くものは感じ取れない。
しかし、室内はなにかぴんと張りつめた空気があり、容易に息ができないような気持にさせられた。
「――――久東貞仁坊、よう戻った。 早速だが、半月を超して報告を怠った由、申し開いてもらおうか」
深く、他者に有無を言わせぬような声だった。
声は前方からする。
これが、八景の父親?
直は緊張して動向を窺った。
「久東上席。 此度は連絡の義務怠りましたこと、誠に申し訳ありません。 我ら件の一件を任じられました一同、陸に上がり、任の遂行の為に動いてまいりました。 しかし、」
八景は自分たちが陸の動向を探っていること、神猿と縁のある社までは特定したこと、その神社に連らなる陸者の一族について調べていること、などを滔々と語ってみせた。
しかし、目的の生まれ変わりの特定まではできず調査を続けている最中だと、一部虚偽を交えて報告を終える。
それを八景の父はじっと聞いているらしく、報告が終わっても重苦しい沈黙が続く。
やがて、前方で何かが動く様な気配がして、固い声が答えた。
「調査に出て二月以上、未だ見定めに時間がかかると申すか」
「は。 生まれ変わりを輩出するであろう一族の特定は済んでおりますが、当の生まれ変わりであろう陸者の子供は発見出来ておらず、もう暫し猶予を頂きたく存じます」
見定めているのだろうか、また沈黙が始まる。
直はじっと動かぬまま、たらりと冷汗が垂れるような心地を味わう。
八景の父親は二月と言った。
出会ってからの期間を含めても、そんなに前から直たちを調べようとしていたのかと思うのと同時に、そんなに期間を設けておいてまだ見つかりませんは苦しいかと焦りを感じる。
「なれば、その一族の年頃の子等をまとめて攫ってくれば良いのではないか?」
「その様な案も出ましましたが、落明子殿が異を唱えられ、」
水映しの術を使えば、陸者の子も海で生きられる。
しかし、そうではなく海に引きずりこめば、その子等は全て死んでしまう。
『生き肝』というだけあって、死者の体から取り出したのでは薬としての効力を無くしてしまうかもしれない。
しかも、そのように目立つ行いを陸でするのは潮守である自分たちでは難しいし、極力陸者の間で騒ぎになることは避けるべきだ。
文都甲の意見だといってすらすらと申し開く八景の弁を、上役はじっと聞いている。
長考しているいるのか、また長く間が開く。
「では、全ては『月若』殿の意思か」
探るような問いに、八景は「はっ」と短く答えた。
『月若』とは誰の事だろうと、直は眉を顰める。
話の流れからして、文都甲のことだろうか。
考えながら、どうかうまく事が運ぶよう、直は目を瞑って祈った。
すると、
「……良かろう。 一報、確かに聞き遂げた。 こちらはこの一件、急ぐつもりはない。 杜の君の補佐をし、以後然るべく任に当たれ」
どっと緊張が緩む。
なんとか切り抜けたかと思った時、「ただし、」と低い声は言った。
「定期の連絡は怠らぬよう、それだけは肝に銘じておけ」
厳しい物言いに、八景がはいと固い動きで腰を折る。
そして声は一層低く声を落とし、分かっているなと続けた。
「引き続き『月若』君の動向から目を離さぬこと、努々忘れるな」




