海の京 一
週明け、直たちには重大な行事があった。
それは、夏休みの自由を手にするための試練。
――――期末テストである。
***
「終わったぁ?」
「まだやー ――――いやお前、前、俺の服着たやろうが」
なんでそうなる?
ラボのアルミ戸越しに、尋巳の呆れた声が聞こえる。
テスト最終日の今日。
昼前には放課となった生徒たちは、運動場を三々五々、家路についていく。
それを眺めながら、直は部室棟の前でぼんやりと待ちぼうけていた。
というのも、
「よっしゃ、ええぞー」
アルミ戸を開けて、尋巳が出てくる。
直はその後ろを、ひょいと覗き込んだ。
「頭のこれは本当に必要なのか……?」
「触るなよ、その髪で出歩いたら一発で指導室やけんな」
尋巳とまんま同じの、半袖シャツと黒の学生ズボン。
それに加えて頭髪をタオルで隠した、白い肌の青年。
――――目元には、朱色の紋。
人化した八景が、直の高校の制服に身を包んで立っていた。
「言うことは素直に聞いといてよ。 他の誰かにバレたら、面倒なんやけん」
直はポケットから取り出したコンパクトを開き、八景の目元の朱をファンデーションで隠していく。
目立たなくなる程度まで塗りつぶせば、立派な男子学生の完成である。
直と尋巳は、そろって頷く。
「おし、ええやろ。 行ってこい」
尋巳に背を押され、制服姿の二人は、校舎へと歩きだすのだった。
***
なぜ、八景が高校の制服を着ているのかというと。
調査について話しているとき、夏の長期休暇の話題を横で聞いていた八景が、ぽつりと零したのである。
『高校をちゃんと見て回りたい』と。
明日は終業式。
それからは夏休みに入り、直は学校に来る用がない。
見学するなら、この二日が最後のチャンスだったのだ。
見て回るくらいなら、蛸の姿でも可能だ。
それくらいならと直が了承しかけたところ、八景の方から、人型で回りたいのだと念押しがあった。
人型となると、また面倒である。
難しい顔で腕を組む直と尋巳を見据え、八景はじっと返答を待っていた。
結局、直が面倒みるからということで、見学は実行されることとなった。
服は尋巳の持っている予備の制服を出してきて、頭髪は染めるのも手間なので、タオルを縛って隠し、目元の紋は祖母のファンデーションで誤魔化すことにした。
肌がファンデーションより少しばかり白いのは御愛嬌である。
二人は人気の少ない校舎へ入り、八景の望むように色々なところを見て回った。
生物教室では人体模型を見、教室に戻っては机に座ってみたりして。
美術室では絵画や像を観賞し、音楽教室から流れ出る吹奏楽の音色に聞き耳をたて、図書室を訪れては嬉々として本を読み漁った。
廊下を、教室を、流し見ながら歩き、職員室をドアの隙間から覗いて。
屋上に上がって帰っていく生徒たちを見下ろしてから、遠く広がる海を眺めた。
途中、同級生に見つかりかけるのを躱し、人のままの八景を連れて校庭を出る頃には、昼時を過ぎていた。
帰りはぎこちなく自転車のペダルを踏む八景を、荷台を持って支えてやったり、二人の小腹が鳴るのに笑って、近くの駄菓子屋で好きなだけ菓子を買い食いしたりして。
暑さに流れる汗が鬱陶しいという八景にタオルを投げてやりながら、ゆったりと並んで帰り道を歩いた。
***
「あああ~~~ 終わったぁ」
大きく伸びをして、テスト後の開放感を味わう。
直たちは町を抜け、港の防波堤へとやってきていた。
自転車を置き、沿岸からL字型に突き出たコンクリートの上を前後になって歩く。
日に日に強まる夏の日差しが海面に照り返し、少し眩しい。
巻き上がる潮風がスカートを揺らすのは、スパッツがあるので良しとした。
「どう? 色々回って。 満足した?」
「まあな。 掠めるように見ているだけとは、やはり違う」
「左様で」
直は台形に高くなっている方へ登りつき、一瞬風に煽られつつ、手を少し広げて沖の方へ進む。
「危ないぞ」
「これくらい慣れたもんや。 大丈夫」
先端の赤色灯まで来ると、湾の外へ向かって腰を下ろした。
八景は、内湾に向かってコンクリートに背を預ける。
「もう結構海から上がって過ごしとるけど、大分こっちにも慣れた?」
「それなりにはな。 まだまだ初めて目にするものばかりで、驚くことも多いが…… 山水を頭から被らされるよりは何事もマシだ」
「それはそうやろうな」
くっくっくと直が肩を揺らすと、八景は拗ねたようにそっぽを向く。
これくらいで臍を曲げずともよかろうに。
ますます可笑しげにして直は目元を拭う。
最近の八景は、陸の生活を見て回るのに熱心だ。
直の高校の様子に興味を示したのも、その延長だろう。
最初の調査地で和解してからというもの、自発的に人間の事を知ろうとしているらしい。
果ては嶋の研究にも関心を寄せて、夜、夕食後になると二人して難しい話に耽っている。
話題は全て海の環境にまつわる事ばかりで、直は傍で聞きながら、のめり込む八景の横顔に内心感心していた。
高校を見て回るのを最初から却下しなかったのも、八景の懸命さを認めていたから。
その向学心の望むまま、頑張ってほしいと思ったから。
満月の日に、八景が自分の背を押してくれたのと同じように。
対する直も、最近は八景に倣って嶋の話を聞き、海について自分の知らないことを知ろうと努めている。
それは一回目の調査の時、八景と話して自分の無知を思い知ったからだ。
嶋は本業のカイアシ類の話ではないが、直の求めに応じて、海の環境問題などの話を何くれとしてくれている。
話は海の傍に住んでいる直でも知らないことばかりで、毎日新しい発見に、八景と一緒に目を輝かせていた。
調査を始めてから能動的に何かを知りたいと思うようになって、自分の中身が段々と広がっていくような。
そんな感覚がずっと続いている。
以前、知らないことを知るのが楽しいと言った時、嶋が『とても良い経験なんだろうね』と笑ってくれたのを思い出す。
潮守たちに出会って、調査を始めて、壁にぶつかっていた神楽も一つ乗り越えることが出来て。
きっと今、自分はとてもよい流れの中に身を置いているのだろうと、なんとなく直感していた。
自分たちと、潮守との出会いは、悪いモノばかりではないのかもしれない。
そう、直は素直に思えるようになっていた。
海風が頬を撫でてすり抜けていく。
そろそろ日向にいるのも暑くなってきた。
直は背後を振り返って見る。
腕を組んで明後日を向いたまま、八景はむっつりと黙っている。
さて、このままでは帰り中、不機嫌が続くだろうと苦笑した直が、機嫌を取ろうと口を開きかけた時。
ぱっと瞠目した八景が、きょろきょろと辺りを見回しだした。
「八景?」
直が不思議そうに声をかけると、八景は「呼ばれている……」とぽつりと呟いた。
呼ばれる?
戸惑って首を捻っていると、八景がばっと直を振り仰ぎ、切羽詰った様子で言った。
「使者がくる、竜宮のだ」
「ししゃ? え?」
「お前はそこに居ろ、動くなよ!」
「?! 八景っ」
呼び止める前に、八景は防波堤の先から海に飛び込んでゆく。
以前からまた距離は伸びて、今二人の離れられる距離は二十三m。
ここから海底まで何メートルか分からないが、下手に動けば悪戯に距離が開いてしまうだろう。
直はコンクリートの縁から動くこともできず、八景の消えた海面の水紋を覗き続けた。
***
心太のような薄い板状のものを座卓に置いて、直たちは押し黙っていた。
板は用紙のようなものらしく、表面に見たことのない形の文字が書き連ねられている。
潮守の文字らしいそれを睨みつけ、浮子星が低く呻いた。
「まぁ、半月以上も連絡なしでは、催促があるのも仕方がないわのう」
板は竜宮からの督促状だった。
術によって陸に上がった浮子星たちは、その日から一切自分たちの祖国と連絡を取っていない。
何の音沙汰もない三人に痺れを切らした同胞たちは、ついに向こうからコンタクトを取ってきたのだ。
「明後日までに仔細な報告をとあった」
「期限付きですか。 それは避けて通れませんね……」
文都甲も難しい顔で文字を追っている。
尋巳は潮守たちの動向を見定めようと、黙って腕を組んでいた。
そんな中、何事か思案して視線を落としていた八景が、意を決したように顔を上げて言った。
「一度、竜宮に戻る。 そうするしかない」
「……戻るって、嬢ちゃんはどうするんじゃ。 離れては行けんじゃろう」
八景の言葉に、浮子星が困り顔で異を唱える。
しかし八景は胡坐を組んだ足の膝を握りしめて続けた。
「報告に戻らねば、宮の諸兄が疑念を抱く。 術の効力が切れる刻限まで怪しまれず過ごすためにも、一旦帰るのが得策だ」
そうしてくるりと体を捻り、直の方を向いて言った。
「話した通りだ。 手数をかけるが、一緒に竜宮まで来てくれ。 頼む」
「――――ええよ、分かった。 一緒に行くわ」
直は一二もなく頷いた。
この状況では、八景の言い分が正しいと思ったから。
八景はよしというふうに、小さく首を振った。
「待て、それやったら俺も行く」
意思を固める二人に割って入るように尋巳が声を上げた。
直はそれを、「尋兄は、休み入っても授業あるやん」と遮る。
「そんなもん、休んだらええんや」
「駄目やろ、受験生。 ……大丈夫や、」
一拍置いて、八景と目を合わせる。
一本線の目は、力強く見返してきた。
「一人ではないんやけん」
***
終業式の終わったあと、日没を待って、直と八景の二人は家の前の浜に出た。
近くで尋巳たちが見守る中、ざぶざぶと海へ入っていく。
「で、どうやって竜宮まで行くん? まさか泳いでなんて言わんやろ?」
「《白精霊》を呼ぶ」
「『はくしょうりょう』?」
首を傾げる直に向きなおり、八景は片手を上げる。
「道を照らすものだ。 竜宮まで案内してもらう――――玉を」
差し出された手が、胸元を指す。
直は襟首から勾玉を取りだし、その手に触れさせた。
ぼひゅんっ
白煙と供に、青年が変化する。
太い幾本の腕に、蠢く吸盤、濃い砂色の肌。
一本線の大きな目が、直を見下ろす。
濃い色の衣装を纏った大蛸が、そこに現れていた。
八景は懐から巻貝を取りだし、海の深いところまで進んで全身を海中に沈めた。
あとを追って潜った直の目の前で、八景は項あたりにある口へ巻貝を押し当て、空気を吹き込むような仕草をする。
ふおおお――――ん
「!」
法螺貝よりも高い音が、海水を震わせる。
「来い」
声と共に差し出された腕へ、直は手を伸ばした。
「わっ」
ぐっと引き寄せられ、全身が密着する。
その時、沖の海底から青白く発光する粒子がざああっと舞い上がって来た。
暗い夜を照らす光は、二人の足元を旋回しながら、だんだん全身を飲み込んでいく。
夜光虫?
――――違う、海ほたるだ!
直は青白い光にじいっと見入っていた。
蛍は渦を巻き、直たちの体を覆い隠してゆく。
美しい光に手を伸ばしかけると、吸盤の腕がそれを遮って引き戻された。
回転は尚一層速くなり、一瞬、鮮烈な光が走る。
それに目を眩ませた直はぎゅっと瞼を閉じ、同時に激しい水のうねりに体が攫われるのを感じたのだった。




