満月の海 四
雨の中を八景と共に帰ったこの日。
結局夕方の練習に、直は顔を出せなかった。
練習しなければと自分を追い立ててはみたものの、どうしても尋巳の前に立つ気力が起きなかったのだ。
家へ近づくほど雨で濡れた足取りは重くなり、自分の暗い心の内と重なった。
夕食時、練習までに戻らなかったことに、尋巳は何も言わなかった。
その代わり、食事の間一度も目を合わさず、直接声もかけてこなかった。
人を介する程度には話しはしても、神楽のことは、一言も口にしない。
無視されているわけではなかった。
しかしそれは、腫れ物を扱うようなモノだと知れて、直は内心ひどく心苦しかった。
尋巳は逃げ出した直を責めてはいない。
責めてはいないが、期待している訳でもないのだろう。
やめたいならそれでもいいと言われているようで、自分の無責任を思い知らされた様な気がした。
このまま家に居続ければ夕食後の練習の時間がやってくる。
無責任を思い知っても、今稽古場に足を向ける気には、どうしてもなれなかった。
だから夕飯の片づけを手伝った直は、その最中に黙って家を抜け出した。
勿論、持ち出しても気づかれない使わなくなったビーチバックに、蛸にした八景を詰め込んで。
誰もいない廊下に引き込んだ八景は、泡を食って喚こうとした。
それに慌てた直は、急いでその口を塞ぐと、無理矢理勾玉でそ八景を変化させた。
いきなり変身させられた八景は当然声を荒げようとしたが、四の五の言わせずビーチバックに押し込め、急いで玄関を飛び出した。
騒ぐ八景の声が家の者に届かなくなるまで、直は夜の道を駆けた。
街灯の少ない海沿いの道を走り続け、とうとう走れなくなると、荒く息を吐きながらゆっくりと歩き始める。
時折ライトをつけた車が脇を走り去っていく中、直は黙々と暗闇を進んだ。
そうしてしばらく歩いたころ、しびれを切らしたのか、八景が背中で暴れ始めた。
「おい…… おい! 返事しろ! こんな夜更けに一人で、どこに行くつもりだっ」
ぎゅっと入り口を閉じているせいで、八景はバタバタとバックの中で騒ぐ。
直は最初こそ無視を決め込んでいたが、ついに諦めて口を開いた。
「……あんまり騒がんでよ。 それに一人ちゃうし。 アンタ居るやろ」
そんに歩かん、ちょっとそこまでや。
ぶっきらぼうに言い捨てる直の声に、八景はまた大人しくなる。
けれど随分歩いても立ち止まる様子はなく、八景は再び不機嫌そうに口を挟んできた。
「おい、大分家から離れただろ」
「……」
「……」
沈黙する二人の横を、車が通り過ぎる。
「一体どこへ向かってるんだ! 連れて行くなら、行先ぐらい言ったらどうなん「海や」
八景の叫びを遮って、直は先を見遣った。
暗い道の先に、波が打ち寄せている。
「――――もう着くわ」
***
「おい、危ないぞっ」
「何度も来とるからへーき」
県道を降りた直は、もう人の姿が見えないのを確認して、ビーチバックの紐を解いた。
八景はようやく自分のいる場所を確認できるようになって、辺りをぐるりと見回す。
遠くに人家の明かりが見えるそこは、広い砂浜だった。
足跡のない砂の上を、スニーカーの足がサクサクと音を立てて進む。
浜の西端には、岩肌の目立つ山が海に突き出ていた。
海に飛び出たその山裾を、直は岩を乗り越えながら岬へと向かってゆく。
潮が引いているせいで海中の岩肌が水面に顔を出しており、容易に歩くことが出来る。
とうとう山の先端にたどり着いた直は、突先に立つ岩に登りつき、その上へと腰を下ろした。
「こんな所…… 一体何しに来たんだお前は」
バックから這い出した八景は、直の肩でぼやく。
直はそれを掴みあげると、
「月、観にきただけ」
そう言って、横にもう一つある岩へ八景を乗せた。
今日の月は満月。
天の灯は正円を形どり、東の空に静かに浮かんでいる。
「……それだけか?」
「悪い?」
「悪いも何も、それなら家からでも見えただろう。 なんでわざわざこんな夜中にでてきたんだ」
八景の指摘はもっともだが、直は何も答えず勾玉を握った。
煙に包まれた八景は、目を丸くして人の姿で現れる。
家では駄目な事。
一人になりたかったこと。
それを一々説明するのは面倒だった。
「――――尋巳か?」
「野暮い。 一々聞くな」
ぴしゃりと撥ねつけると、八景は「何かお前、態度が違っていないか?」と声を落とす。
まだ昇ったばかりの月は明るく、岩肌に預けた体を煌々と照らす。
浸食された表面に手をつき、直は首を落として揺らめく水面を見つめた。
波は穏やかだった。
ビロードの布がそよ風が揺蕩うように、底の見えない水面はわずかに上下して揺れている。
海に落ちた月光が、波のなめらかな動きに玩ばれながら、真っ直ぐに直へと続く光の道を作っていた。
道を行く車の音も、ここからでは遠い。
とぷりとぷりと岩に砕ける波音だけが、黙り込んだ二人の間にあった。
「なぁ、もういいだろう。 年頃の娘が、こんな夜更けに出歩くもんじゃない。 月の明るいうちに早く帰れ」
「――――足、フナムシ上がっりょるで」
しかつめらしく説教しようとする八景の衣を指さしてやると、そこを這い上ろうとする小さいのが一匹。
八景は「わぁ!」と情けなく叫んで足をバタつかせる。
それを尻目に、直は海を覗き込んだ。
しんとした水底は月夜の明かりを吸い込んで、夜闇よりも濃い。
引き込まれそうな暗い塊に、直はじっと見入った。
そうしていると、なにか胸の内に溜まった澱がその奥へ攫われていくような気がして、ほんの少し、気が楽になる。
昨晩打ち明けられた、夢見の事。
動揺する晴真を宥めすかし、決して他言はしないと約束してその日は別れた。
神使の生まれ変わりだとされる兄弟たちの中で、唯一不思議な力を見せる晴真。
自分が生まれ変わりかもしれないと恐れていたあの子の背を、直は摩ってやることしかできなかった。
兄弟のうち、直にだけ打ち明けてくれたのに。
結局まともな力になってやれずじまいで、自分の無能さが嫌になる。
舞のこともそうだ。
一族の子供のうち、直を選んで任せてくれたのに、その任もまともにこなせない。
それどころか、練習すら放り出してこんな所で蹲っている。
どうしてこんなにも上手くできないのだろう。
どうしてこんなにも中途半端なのだろう。
直には今、まともに人に向けられる顔が無かった。
だから誰もいない場所を求めて、夜更けに家を飛び出したのだ。
こんなふうに自己嫌悪に塗れた自分、誰にも見せられなかった。
直は足を抱き寄せ、小さく丸まる。
もうどうでもいい、そう投げやりに思う。
目指していた目標は変えられてしまう。
これ以上の努力する余地は、無くなってしまった。
自分のせいで取り上げられてしまった。
あとは失敗しないだけの演技を果たすだけ。
直は、天津弥彦を任せられた日から自分にのしかかっていたモノが、うっすらと消えていくような気がしていた。
その重みはいつも一緒に在って、神楽の練習に励む直を急き立ててもいた。
その影に心がざわつくことも、勿論あった。
けれど、こうして身が軽くなってみると、消えてしまった重みの喪失感に途方に暮れてしまう。
今ならよくわかる。
あれは尋巳たち、周囲の者が寄せてくれる期待だった。
直は、それに応えたかった。
それなのに。
「(情けなぁ……)」
降り注ぐ月光が、夜に全身を浮たたせる。
今だけは、暗い夜が恋しかった。
深い闇の中に直を隠して、自分にすら見えなくしてくれればいいと思った。
広げていた手を握りしめ、こくりと首を落とす。
もう、ここからどこに行くのも億劫だ。
立ち上がることも。
家に帰ることさえ――――
「…………言いたいことがあるのなら、好きに言えばいいだろう」
「!」
「こうゆうとき、黙り込んでいて解決するものなぞ、何もないぞ」
声は静かだった。
背中にぶつかってくるそれに、直は肩越しに後ろを振り返える。
いつもなら、きゅうと釣り上げっている赤い眦。
それが今は、真っ直ぐな色を湛えて、直を見ていた。
直はじっと、一本線の目を睨みつけた。
そこに、何かを責める意思は見つけられない。
青年の意図が何なのか知り得ず、直は再び膝を抱えた。
「放っといて。 …………どうせ言うても、どうにもならん」
「そんなのは聞いてから判断すればいい」
「……――――何も話したくない言うたら?」
「それは、その気分を優先するか、迷いを脱することを優先するか。 お前の本心によるな」
「…………」
あくまで直の思いに委ねるらしい口振りに、ぎゅっと体を固くする。
自分の思い?
どうしたいか?
それを口にしてどうなる。
言ってどうにかなるのか? ――――分からない。
しかし、そんな直の葛藤をよそに、八景は言葉を重ねてくる。
「思い悩むな。 どうせ、ここには俺しかいない。 言いたいようにしてみろ」
「…………アンタに言うたって仕方ないわ」
「だが、独り抱え込むよりは、ずっといいはずだ。 別に、聞いて偉そうに講釈垂れるつもりもない。 俺だってそこまで朴念仁なつもりはないからな。 それに、」
お前が先に言ったんだ、『言いたいことがあるんなら、ちゃんと言え』。
最初の調査の日、目的の岩の前で直自身が言い放った言葉だ。
とんだブーメランに、直はうっと押し黙る。
確かに言った、言いはした。
けれど、いざ自分の身に返ってくると、言葉の通り素直になるのはなかなか難しいことだと思い知る。
直は、岩についた手を見下ろす。
だって、もう遅いのに。
どうでもいいとさえ、思うのに。
この胸の中の固まりを吐き出したところで、何も変わらないのに。
それなのに――――
「どう思っていようが、」
思考を止める声に、曇っていた視界が明瞭になる。
頭の中を流れ去っていくだけの言葉が消えて、直はゆっくりと顔を上げた。
白い月光に照らされた八景が、直を見ている。
「次の日は来る。 ならその前に、腹の中にある鬱屈なぞ、全部吐きだしてしまうが良策だろうよ。 別にお前がここで何を言い捨てようが、他の誰にも、何も、言うもんか」
「…………」
「だから…… 気にせず、話せばいい」
慣れないことを言っているみたいに、八景の声はぎこちない。
直は顔を上げて、首を捻った。
これは、慰められているのだろうか。
八景はそれっきり何も言わない。
けれど、他所を向いているくせ、目だけはちらちらとこちらを気にしていて。
直はふっと苦笑を漏らした。
顔を逸らしていた八景は、笑い声を聞いて「なんだ」と怖い顔をしてみせる。
だがそれを気に留めず、ふふっと頬を緩めて直は前に向きなおった。
笑ったら、少し気が晴れたような気がする。
胸元で揺れる勾玉を片手で覆って、すっと息を吸い込んだ。
「……じゃあ遠慮のう、話さしてもらうけど」




