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タコと、少女と、生き肝伝説。  作者: 壺天
四章
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満月の海 三

 この日は朝から薄く雲が空にかかっていた。

 天気予報では午前から雨のマークが並んでおり、久しぶりの雨だとキャスターが画面越しに伝えている。




「夜は晴っぽいけど…… 傘忘れんと行ってな、みんな」



 朝食を口にしながら夏子が全員を見回す。

 分かったと元気よく手を上げる孝介の横で、直はああ、とも、うん、ともつかない生返事をした。

 先ほどから、椀の中身は少しも減っていない。

 夏子が「直ちゃん?」と不思議そうにその顔を覗き込むと、何もない箸先を噛んでいた直は、我に返って苦笑する。



「うん、分かってる、傘やろ? 持ってく、持ってく」


「うん、忘れんようにね?」



 折り畳みでええかなぁ、と再び夏子はテレビに目を向ける。



「そういえば文都甲さんは、…………文都甲さん?」



 何か思いついたように、夏子は自分の相方に顔を向けた。

 すると、その美しい顔がなんだかそわそわと少し青ざめている。



「は、はい?! な、なんでしょう?」


「いや、えと、どうかしたんですか? 顔、青いですけど……」



 まさか調子でも崩したのか。

 心配そうに夏子が身を乗り出すと、向かいで見ていた尋巳がテレビと潮守たちを見比べて、「ああ、」と手を打った。



「そういやこいつ等、真水おえんのやっけか。 まさか雨も無理なんか」



 尋巳に指摘され、おどおどと視線を泳がせた文都甲は、つっかえながら口を開く。



「あ、『あめ』とは、天神(あまつみ)様がお降らせになる、《天水(あまみつ)》の事でしょうか……?」


「『あまみつ』? なんじゃその大層な言い方は」



 尋巳の呆れた声に、横の浮子星が苦笑する。



「ワシ等の内でゆう、天から降る天神さまの流水の事よ。 こちらの世では、『あめ』と言うのかのう」



 浮子星が語ることには、竜宮では。天の神を『天神様』と呼び、彼の方が落とす天の力の宿った雨粒を『天水』と、畏敬の念を込めて呼ぶのだという。

 そして『天水』は山の気をおびた『山水』――――つまり真水と同じく、それぞれの気が強すぎて潮守たちには毒になるらしい。



「直接には我々にとって畏怖すべきものですが、天水は海神(わだつみ)さまの力と均衡を保つほどの天神さまの御力なのです」



 いくら他の気が強いと言っても、いずれ異なる気同士は混ざり合い、海に還る。

 天の水である天水も、長い目で見れば空からの恩恵なのだという。



「俺等にとっての台風や雪みたいなもんか」



 食事を終えて箸を置いた尋巳が、腕を組んで言う。

 一時には災いをもたらしても、いずれは恵みとなり、生の営みを潤すもの。

 潮守である彼らにとっても、陸に住む直たちにとっても、必要不可欠なものなのだ。

 しかし、夏子は心配そうに眉を顰めて文都甲たちに言う。



「でも、直接触れんことには変わりないんのですよね」


「ええ…… 実は今も、今朝から天水の気配がするのか、悪寒がして」



 言いながら、すみません、と美しい顔を(ひそ)めて文都甲は袖で口を覆う。

 直たちには分からないが、『気』とは随分、彼らの体調を左右するものらしい。

 文都甲の傍へ腰を下ろした浮子星がその背を(さす)ってやり、ガラス戸の向こうの曇った空へ目を向けた。



「ワシと八景はそれほど流力が無いからまだマシじゃが、文都甲は凪の中でも一等強い流力の持ち主だからの。 流力の強さは海神様の眷属としての海の気の強さ。 異なる気同士、反発も強いのじゃろう」



 多分降り出せばまた体調を崩すだろうから、気にかけてやってほしい。

 浮子星の言葉に、夏子は勿論と身を乗り出して頷いた。






 雨、か。


 目の前の会話から意識を逸らし、直は空を見つめる。

 雲は今にも泣きだしそうに膨れ上がっていた。

 そう間を置かず、雨脚が近づいてくるのだろう。

 水の気配を遠く感じながら、直は小さく目を細めるのだった。




***




 雨は、三限目から降り始めた。

 空梅雨だった今年の梅雨時期を惜しむように、雨粒はしとしとと降り注ぐ。

 直は授業中の教室から、窓ガラスに当たる水の粒をじいっと眺めていた。

 厚い雨のカーテンの先では遠く海が(かす)み、まるでぼんやりと(もや)のかかる自分の頭の中に似ているような気がする。


 結局放課後まで雨は降りやまず、下校のチャイムが鳴った校庭にはちらほらと傘の花が咲いた。

 花は重なり合って、ぬかるんだ家路をぽつりぽつり帰っていく。 

 直は何となく腰が重く、その光景を教室から、ぼんやりと見下ろしていた。

 早く帰って舞の練習をしよう――――しなければ間に合わない。

 頭の中で自分の声がしていたが、動き出すのはひどく億劫(おっくう)だった。


 部活へ行く者、帰宅する者。

 人が減っていく教室に一人、いつまでも直は居残っていた。





「…………おい、帰らないのか」



 人の気配が無くなったのを感じ取ったか、八景がリュックから顔を出して言った。

 いつもなら注意するところだが、その気力も今の直にはない。

 返事もせず、頬杖をついたまま遠くを見つめている。



「――――おい!」



 今度は幾分大きな声で呼びかけられ、直はゆっくりと振り向いた。



「……うん、帰るから」



 そう言ってだらりと立ち上がり、八景の入ったリュックを肩にかけて教室を出る。

 覇気のない様子に、八景は無い眉を寄せた。

 静かな足取りで廊下を進み、昇降口までやって来て靴を履き替えると、直は不意に足止める。

 そうして玄関の庇の下から、じっと雨の降る空を見上げた。



「…………」


「『じてんしゃ』はどうするんだ?」



 登校は、いつも通り自転車で来た。

 しかしこの雨では乗って帰れそうもない。

 今日は置いて帰ることになる。



「ええんや。 どうせ明日休みやし…… 週明け、バス乗るし」



 直の返事委に、八景は「『ばす』とはなんだ?」と無い首を(ひね)る。

 それに「あれ」と校外に停まっている四角い塊を指し示してやると、八景はちらりと見てから、直に視線をくれた。



「――――行かないのか?」



 帰りの事だろう。

 いかない、歩くと答え、直は傘立てから自分の傘を探す。



「帰って練習しなくていいのか」


「雨ん中帰るから、アンタは中で大人しくしとり。 濡れるで」



 八景の言葉を無視して、直は傘を開く。

 しかし、いつまで経ってもファスナーの閉まる音がしない。

 直はじれったくなって、リュックを下ろした。



「何やってるん、帰るゆうてるやん。 閉めんと、雨、入ってくるやろ」



 ファスナーの合間から覗く金の目を見つめながら言うと、八景は黙ったまま、ちらりと雨天の空を見上げた。

 その仕草に、直は目を(すが)める。




「…………雨、嫌なんやろ?」




 直の問いに答えはない。

 じっと落ちてくる水玉から離さない金の目からは、『怖いのに、見たい』。

 そんな葛藤が(せめ)いでいるのが窺えた。



「…………」



 埒が明かないと諦めた直は、リュックサックに手を突っ込む。



「な、なんだ、」


「いいから捕まり、早よせんと(つか)みあげるで。 さっさと帰らんと、遅うなるんやから」



 ぶっきらぼうな声に、八景は戸惑う。

 突っ込まれた直の腕と顔を交互に見ると、おずおずと腕を絡み付けて手に張り付いてきた。

 直はそれを確認するが早いか、傘に隠して右手を頭の上に乗せた。



「おい……?」


「頭、乗ってええから。 どうせもう帰るだけやし」



 そう促すが、八景は腕に絡みついたまま間誤付(まごつ)いたようすで離れない。

 ため息をついて腕を少し下げると、傘の影で視線を合わせた。



「バックから顔出しとってもええけど、それやったら傘差したら見えんで? 頭の上やったら傘の真下やから濡れんし、人に見られにくいやろ。 その代わり、大声で騒がん事、頭の上で暴れん事、ええな?」

 


 再度手を頭にやると、八景はおずおずと上に乗り移って来た。

 小型とはいえ、蛸一匹の重みは案外首に来る。

 居場所に戸惑う八景の腕を払いながら、広げていた傘を、肩にかけた。



「じゃあ、行くで」



 小声で合図して、雨の中へ踏み出す。

 (ひさし)の陰から抜け出ると、一瞬頭上が緊張した気配がした。

 同時に、薄い傘の皮を雨粒が叩く。

 その音に八景がびくりと固まって傘が跳ね、落ちてきたばかりの雨粒が傘を再び叩いた。



「大丈夫そ?」


「――――問題ない」



 少し硬い声音に直は眉を上下させ、そのまま校庭を抜けた。

 高台にある校舎から坂をしばらく下り、麓の町へと足を踏み入れる。

 雨の中歩く人影は少なく、時折車が横を過ぎ去っていった。

 雨は絶え間なく降り続く。

 八景は熱心に空を見上げていた。

 時折身を乗り出しすぎては、頭の上へ引き戻してやる。

 興味深げにきらめく金の目をちらりと眺め、直はその横顔へ声をかけた。



「雨の日に、空見たりせんの?」



 潮守たちの生活圏など知らない。

 もしかすると、深い海の底に潜ったまま、一生を終えるものなのか。

 だからこんなふうに空を見上げることも、初めての体験なのだろうか。



「俺たちが山水や天水を(いと)う話は、もうしただろう」



 愚問だと、平坦な声が言う。



「元々、我ら潮守は海中深くに暮らしている。 俺のような官職は巡邏の為に海表面近くまで来ることはあるが、そこから顔を出したことはない。 これが降る日など特に、総じて深く潜るのが習わしだ。 天水の混ざる海は、居づらいからな」



 こうして霧のような水気を浴びていることも、本来なら毒になるはずだ。

 だが、今は直と通じているから平気なのだろうと、独り言のように(つぶや)く。



「そもそも俺は、竜宮の守人だ。 生まれたその時から、竜宮に生涯を(ゆだ)ねることを運命(さだめ)られている。 海を出ることも、今まで一度もなかった。 今こうしているのが初めての事だ」


「じゃあ、空見たんも、初めてやろ?」


「ああ」


「なら、雨の事とか、なんで知っとったん?」



 海中に閉じこもり、外の世界を見ることも無い、潮守の生涯。

 そこに身を置く八景の心に、(ここ)はどのように映っているのだろう。

 


「知識としては、知っていた。 竜宮に居る長老たちが、俺が幼子の頃から語って聞かせてくれていた。 この無限とも思える海のその上に、もう一つ、無限の青があるのだと。 その青は天明(てんみょう)という無限に光り輝く存在に照らされて、時に茜や紫紺に色を変え、日の半分は深海のように暗い闇となり、より一層大海と等しくなる」



 天にはクラゲが何十、何百万と群れを成したように白く大きな塊が漂っていて、それらは時に濃く集まり、天神の御力をおびた天水となって幾億と海に陸に降り注ぐ。


 幼子に聴かせる寝物語のように、幾度も聞かされ育ってきたのだと。

 静かな語り口に、直は不意に忍び笑いをもらした。

 ふっと掻き消えそうな笑みに、八景は何が可笑しいと頭上で(うごめ)く。



「いや、なんか、不思議な話やなぁ、思て。 ここを外側から見たら、そんな感じなんや」



 直の言葉に純粋な愉快以上の気配がないのが分かったのか、八景はそのまま黙り込む。




 雨に(とじ)られた傘の中は、世界から切り離されたようにひっそりと静かだった。

 八景は直に話しかけるのに、もう躊躇(ためら)いが無いのか、目についた物の全ての名を問うては興味深げに眺めて言った。



人に見つからない(こうしていられる)なら、『あめ』も悪くないものだ」と。



 とうとう町並みを抜け、いつも通る海沿いの県道へと出る。

 

 遠く見遣れば、海を挟んだ対岸の山並みが雲の切れ間から射し込む日に照らされ、柔らかく光を放ってていた。

 海上は(もや)が浮かび、白く霞んでいる。

 雲は風に流れ、ゆっくりと東へ漂っていた。


 

 それは確かに美しい光景で。

 静かに降り続く雨の中、二人は(しば)(たたず)んでいたのだった。


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