満月の海 三
この日は朝から薄く雲が空にかかっていた。
天気予報では午前から雨のマークが並んでおり、久しぶりの雨だとキャスターが画面越しに伝えている。
「夜は晴っぽいけど…… 傘忘れんと行ってな、みんな」
朝食を口にしながら夏子が全員を見回す。
分かったと元気よく手を上げる孝介の横で、直はああ、とも、うん、ともつかない生返事をした。
先ほどから、椀の中身は少しも減っていない。
夏子が「直ちゃん?」と不思議そうにその顔を覗き込むと、何もない箸先を噛んでいた直は、我に返って苦笑する。
「うん、分かってる、傘やろ? 持ってく、持ってく」
「うん、忘れんようにね?」
折り畳みでええかなぁ、と再び夏子はテレビに目を向ける。
「そういえば文都甲さんは、…………文都甲さん?」
何か思いついたように、夏子は自分の相方に顔を向けた。
すると、その美しい顔がなんだかそわそわと少し青ざめている。
「は、はい?! な、なんでしょう?」
「いや、えと、どうかしたんですか? 顔、青いですけど……」
まさか調子でも崩したのか。
心配そうに夏子が身を乗り出すと、向かいで見ていた尋巳がテレビと潮守たちを見比べて、「ああ、」と手を打った。
「そういやこいつ等、真水おえんのやっけか。 まさか雨も無理なんか」
尋巳に指摘され、おどおどと視線を泳がせた文都甲は、つっかえながら口を開く。
「あ、『あめ』とは、天神様がお降らせになる、《天水》の事でしょうか……?」
「『あまみつ』? なんじゃその大層な言い方は」
尋巳の呆れた声に、横の浮子星が苦笑する。
「ワシ等の内でゆう、天から降る天神さまの流水の事よ。 こちらの世では、『あめ』と言うのかのう」
浮子星が語ることには、竜宮では。天の神を『天神様』と呼び、彼の方が落とす天の力の宿った雨粒を『天水』と、畏敬の念を込めて呼ぶのだという。
そして『天水』は山の気をおびた『山水』――――つまり真水と同じく、それぞれの気が強すぎて潮守たちには毒になるらしい。
「直接には我々にとって畏怖すべきものですが、天水は海神さまの力と均衡を保つほどの天神さまの御力なのです」
いくら他の気が強いと言っても、いずれ異なる気同士は混ざり合い、海に還る。
天の水である天水も、長い目で見れば空からの恩恵なのだという。
「俺等にとっての台風や雪みたいなもんか」
食事を終えて箸を置いた尋巳が、腕を組んで言う。
一時には災いをもたらしても、いずれは恵みとなり、生の営みを潤すもの。
潮守である彼らにとっても、陸に住む直たちにとっても、必要不可欠なものなのだ。
しかし、夏子は心配そうに眉を顰めて文都甲たちに言う。
「でも、直接触れんことには変わりないんのですよね」
「ええ…… 実は今も、今朝から天水の気配がするのか、悪寒がして」
言いながら、すみません、と美しい顔を顰めて文都甲は袖で口を覆う。
直たちには分からないが、『気』とは随分、彼らの体調を左右するものらしい。
文都甲の傍へ腰を下ろした浮子星がその背を摩ってやり、ガラス戸の向こうの曇った空へ目を向けた。
「ワシと八景はそれほど流力が無いからまだマシじゃが、文都甲は凪の中でも一等強い流力の持ち主だからの。 流力の強さは海神様の眷属としての海の気の強さ。 異なる気同士、反発も強いのじゃろう」
多分降り出せばまた体調を崩すだろうから、気にかけてやってほしい。
浮子星の言葉に、夏子は勿論と身を乗り出して頷いた。
雨、か。
目の前の会話から意識を逸らし、直は空を見つめる。
雲は今にも泣きだしそうに膨れ上がっていた。
そう間を置かず、雨脚が近づいてくるのだろう。
水の気配を遠く感じながら、直は小さく目を細めるのだった。
***
雨は、三限目から降り始めた。
空梅雨だった今年の梅雨時期を惜しむように、雨粒はしとしとと降り注ぐ。
直は授業中の教室から、窓ガラスに当たる水の粒をじいっと眺めていた。
厚い雨のカーテンの先では遠く海が霞み、まるでぼんやりと靄のかかる自分の頭の中に似ているような気がする。
結局放課後まで雨は降りやまず、下校のチャイムが鳴った校庭にはちらほらと傘の花が咲いた。
花は重なり合って、ぬかるんだ家路をぽつりぽつり帰っていく。
直は何となく腰が重く、その光景を教室から、ぼんやりと見下ろしていた。
早く帰って舞の練習をしよう――――しなければ間に合わない。
頭の中で自分の声がしていたが、動き出すのはひどく億劫だった。
部活へ行く者、帰宅する者。
人が減っていく教室に一人、いつまでも直は居残っていた。
「…………おい、帰らないのか」
人の気配が無くなったのを感じ取ったか、八景がリュックから顔を出して言った。
いつもなら注意するところだが、その気力も今の直にはない。
返事もせず、頬杖をついたまま遠くを見つめている。
「――――おい!」
今度は幾分大きな声で呼びかけられ、直はゆっくりと振り向いた。
「……うん、帰るから」
そう言ってだらりと立ち上がり、八景の入ったリュックを肩にかけて教室を出る。
覇気のない様子に、八景は無い眉を寄せた。
静かな足取りで廊下を進み、昇降口までやって来て靴を履き替えると、直は不意に足止める。
そうして玄関の庇の下から、じっと雨の降る空を見上げた。
「…………」
「『じてんしゃ』はどうするんだ?」
登校は、いつも通り自転車で来た。
しかしこの雨では乗って帰れそうもない。
今日は置いて帰ることになる。
「ええんや。 どうせ明日休みやし…… 週明け、バス乗るし」
直の返事委に、八景は「『ばす』とはなんだ?」と無い首を捻る。
それに「あれ」と校外に停まっている四角い塊を指し示してやると、八景はちらりと見てから、直に視線をくれた。
「――――行かないのか?」
帰りの事だろう。
いかない、歩くと答え、直は傘立てから自分の傘を探す。
「帰って練習しなくていいのか」
「雨ん中帰るから、アンタは中で大人しくしとり。 濡れるで」
八景の言葉を無視して、直は傘を開く。
しかし、いつまで経ってもファスナーの閉まる音がしない。
直はじれったくなって、リュックを下ろした。
「何やってるん、帰るゆうてるやん。 閉めんと、雨、入ってくるやろ」
ファスナーの合間から覗く金の目を見つめながら言うと、八景は黙ったまま、ちらりと雨天の空を見上げた。
その仕草に、直は目を眇める。
「…………雨、嫌なんやろ?」
直の問いに答えはない。
じっと落ちてくる水玉から離さない金の目からは、『怖いのに、見たい』。
そんな葛藤が鬩いでいるのが窺えた。
「…………」
埒が明かないと諦めた直は、リュックサックに手を突っ込む。
「な、なんだ、」
「いいから捕まり、早よせんと掴みあげるで。 さっさと帰らんと、遅うなるんやから」
ぶっきらぼうな声に、八景は戸惑う。
突っ込まれた直の腕と顔を交互に見ると、おずおずと腕を絡み付けて手に張り付いてきた。
直はそれを確認するが早いか、傘に隠して右手を頭の上に乗せた。
「おい……?」
「頭、乗ってええから。 どうせもう帰るだけやし」
そう促すが、八景は腕に絡みついたまま間誤付いたようすで離れない。
ため息をついて腕を少し下げると、傘の影で視線を合わせた。
「バックから顔出しとってもええけど、それやったら傘差したら見えんで? 頭の上やったら傘の真下やから濡れんし、人に見られにくいやろ。 その代わり、大声で騒がん事、頭の上で暴れん事、ええな?」
再度手を頭にやると、八景はおずおずと上に乗り移って来た。
小型とはいえ、蛸一匹の重みは案外首に来る。
居場所に戸惑う八景の腕を払いながら、広げていた傘を、肩にかけた。
「じゃあ、行くで」
小声で合図して、雨の中へ踏み出す。
庇の陰から抜け出ると、一瞬頭上が緊張した気配がした。
同時に、薄い傘の皮を雨粒が叩く。
その音に八景がびくりと固まって傘が跳ね、落ちてきたばかりの雨粒が傘を再び叩いた。
「大丈夫そ?」
「――――問題ない」
少し硬い声音に直は眉を上下させ、そのまま校庭を抜けた。
高台にある校舎から坂をしばらく下り、麓の町へと足を踏み入れる。
雨の中歩く人影は少なく、時折車が横を過ぎ去っていった。
雨は絶え間なく降り続く。
八景は熱心に空を見上げていた。
時折身を乗り出しすぎては、頭の上へ引き戻してやる。
興味深げにきらめく金の目をちらりと眺め、直はその横顔へ声をかけた。
「雨の日に、空見たりせんの?」
潮守たちの生活圏など知らない。
もしかすると、深い海の底に潜ったまま、一生を終えるものなのか。
だからこんなふうに空を見上げることも、初めての体験なのだろうか。
「俺たちが山水や天水を厭う話は、もうしただろう」
愚問だと、平坦な声が言う。
「元々、我ら潮守は海中深くに暮らしている。 俺のような官職は巡邏の為に海表面近くまで来ることはあるが、そこから顔を出したことはない。 これが降る日など特に、総じて深く潜るのが習わしだ。 天水の混ざる海は、居づらいからな」
こうして霧のような水気を浴びていることも、本来なら毒になるはずだ。
だが、今は直と通じているから平気なのだろうと、独り言のように呟く。
「そもそも俺は、竜宮の守人だ。 生まれたその時から、竜宮に生涯を委ねることを運命られている。 海を出ることも、今まで一度もなかった。 今こうしているのが初めての事だ」
「じゃあ、空見たんも、初めてやろ?」
「ああ」
「なら、雨の事とか、なんで知っとったん?」
海中に閉じこもり、外の世界を見ることも無い、潮守の生涯。
そこに身を置く八景の心に、陸はどのように映っているのだろう。
「知識としては、知っていた。 竜宮に居る長老たちが、俺が幼子の頃から語って聞かせてくれていた。 この無限とも思える海のその上に、もう一つ、無限の青があるのだと。 その青は天明という無限に光り輝く存在に照らされて、時に茜や紫紺に色を変え、日の半分は深海のように暗い闇となり、より一層大海と等しくなる」
天にはクラゲが何十、何百万と群れを成したように白く大きな塊が漂っていて、それらは時に濃く集まり、天神の御力をおびた天水となって幾億と海に陸に降り注ぐ。
幼子に聴かせる寝物語のように、幾度も聞かされ育ってきたのだと。
静かな語り口に、直は不意に忍び笑いをもらした。
ふっと掻き消えそうな笑みに、八景は何が可笑しいと頭上で蠢く。
「いや、なんか、不思議な話やなぁ、思て。 陸を外側から見たら、そんな感じなんや」
直の言葉に純粋な愉快以上の気配がないのが分かったのか、八景はそのまま黙り込む。
雨に閉られた傘の中は、世界から切り離されたようにひっそりと静かだった。
八景は直に話しかけるのに、もう躊躇いが無いのか、目についた物の全ての名を問うては興味深げに眺めて言った。
「人に見つからないなら、『あめ』も悪くないものだ」と。
とうとう町並みを抜け、いつも通る海沿いの県道へと出る。
遠く見遣れば、海を挟んだ対岸の山並みが雲の切れ間から射し込む日に照らされ、柔らかく光を放ってていた。
海上は靄が浮かび、白く霞んでいる。
雲は風に流れ、ゆっくりと東へ漂っていた。
それは確かに美しい光景で。
静かに降り続く雨の中、二人は暫し佇んでいたのだった。




