変化 三
そのあとすぐ、二人は山を下った。
車に戻るまでの間、二人は何となく黙っていた。
歩きづらい山道も、西日に光る道路も、無言で歩き続ける。
足音だけの沈黙は長かったが、それも嫌なものではなかった。
来る時までの居心地の悪い空気は欠片も無く、どこか晴れ晴れとした距離感であったと思う。
まるで互いに傍に居ることを許し合ったような、そんな空気。
なんだか胸のつっかえが取れたような気がして、直はただ黙々と車を目指し歩き続けた。
最初の駐車場にたどり着くと、既に尋巳たちがそこで待っていた。
撮って来た写真を全員で確認し、確かに見覚えのある紋様だと結論づける。
これで目的は達したという嶋の合図を締めに、一行は目的地を後にするのだった。
***
「おかえり! あった? 紋様見つかった?」
家にたどり着くと、車の音を聞きつけたのか、玄関から孝介が飛びだしてきた。
はしゃぐ体を抱きとめて、「あったよ」と答えると、ぱっと顔を輝かせた孝介に手を引かれる。
「あんな、僕も見せたいもんがあるん! こっち!」
小走りで家へと戻る後に続くと、居間には文都甲が座っていた。
その目の前には、座卓に置かれたバケツがある。
バケツの中には、水が張られているようだった。
「見ててな?」
文都甲と示し合わせるように笑い合った孝介は、バケツの前に膝をつき、直を見た。
何だろう?
向かいに同じく膝をついた直は、水面を覗き込む。
水からは磯の香りがした。
海水らしい。
孝介は勿体ぶるように拳を握ると、ゆっくりと指を広げて海水に掌を付けた。
「?」
小さな手の下で、水面がわずかに揺れる。
しかし、いつまで経っても揺れは収まらない。
直が訝しんで身を乗り出すと、同時に波紋がぼこぼこと沸騰するように変わった。
その波が一層激しくなったかと思うと、突然何かが水面から飛び出してきた。
「わっ」
飛び散る水飛沫に顔を庇う。
すがめた目が一瞬、持ち上げた腕の向こうのきらめきを捉えた。
水面から飛びだしたもの。
それは水で形作られた、一匹の魚だった。
空中でゆったりと身をくねらせた魚は、そのままぽちゃんとバケツの中飛び込んで消えた。
いや。
見えづらいだけで、不可思議に光を反射する鱗が、水の中で揺らめいている。
直は呆気にとれて、孝介を見た。
孝介は嬉しくってたまらないというふうに、にんまりと笑う。
「文都甲さんがかけてくれた術! ちょこっとだけやけど、海の水、好きなふうにできるんやで!」
確か最初の紋様を見つけた日。
勾玉を欲しがった孝介の為に、文都甲は術を使った。
どうやらあれは、小規模ながら、海水を操れる力を発生させるものらしい。
「最初は上手く操れませんでしたから、あれから練習したんですよ、孝介君」
一部始終を見守っていた文都甲は、優しく笑って言った。
「どう? 凄ない? びっくりやろ?」
はしゃぐように身を乗り出した孝介は、反応を強請るように言い重ねる。
直はその勢いに押されつつも、うんうんと頷いてやった。
「うん、すごい。 なんてゆうか、綺麗な魚さんやな」
直が褒めると、孝介はまたにんまりと笑う。
そこへ尋巳たちが戻ってきて、二人の様子におやっと眉を上下させた。
「なんや、もうできるようになったんか、魚のヤツ」
尋巳の孝介の力を知っているらしい口振りに、今度は直が首を傾げた。
「尋兄ぃ、知ってたん? 文都甲さんの術の事」
「そりゃ、確認くらいするわ。 物騒なもんやったら、すぐ消させなおえんやろうが」
まあ、害のなさそうなもんだったがな。
そう言い置いて台所の方へ消える背中を見送り、直は目を瞬かせた。
確かに年長者として、弟たちの身の安全を確認するのは重要なことかもしれない。
尋巳はちゃんと、そのことを考えて実行しているのだ。
そんなことまで考えの及ばなかった自分を唐突に自覚して、直はしばし呆然とした。
自分の弟の事なのに、考えもしなかったなんて。
紋様の調査で頭がいっぱいになっていたとはいえ――――。
直は眉を顰めて俯いた。
もし孝介に扱いかねる力だったら、どうした。
文都甲を信用していないわけではないが、弟の身に危険が及んだら。
ぐるぐると回る思考の合間に、完成していない神楽舞のことまで思い返され、直は心中で自分を責める。
至らない。
まだまだ自分は、あの従兄に劣ることばかりだ。
さっきまでの晴れやかな気持ちが萎んでゆくようで、直はぎゅっと服の裾を握る。
それを不思議そうに見ていた孝介が「直ちゃん」と呼びかけるのに、直はぱっと顔を上げた。
不思議そうな顔つきにはっとして、あははと咄嗟に笑う。
「ごめん、ごめん、何でもない。 さ、もう夕飯の時間やけん、準備せんと。 他にできたら、また見せてな」
満足げな孝介の頭を撫でると、直は尋巳を追って台所へ入ろうとした。
その時、玄関の扉が開く音がして、祖父の尋ノ介が人を呼ぶ声が聞こえてくる。
「はーい、――――あ、直ちゃん、お帰り~ よかったら、ちょっとおじいちゃんの方、見てきてくれん?」
手を拭きながら暖簾をくぐってて来た夏子に言われ、直は分かったと玄関に向かう。
廊下に出ると、上がり框で長靴を脱ぐ、祖父の背中が見えた。
「爺ちゃん、なに? なんか要るん?」
直がそう言って近づくと、尋ノ介は「ん」と短く答えて、発泡スチロールのトレーを差し出してきた。
咄嗟に、ぱっと受け取る。
何だろうか。
受けとって、かけられていたアルミホイルを開けてみる。
蓋の下からは、ぷうんと生ものの匂い。
「げっ」
中身を見て、仰け反った。
トレーに無造作に並べられていたもの。
それは、開いたマダコの刺身だった。
直は顔を引き攣らせる。
一瞬、頭の中をいろんな考えがめぐった。
多分、これは今日の祖父の釣果で、直たち孫連中への祖父の土産だ。
夕飯のおかずを減らせる分、ありがたいことはありがたいのだが。
八景と、目の前の刺身が、交互に脳裏に過る――――どうしよう。
「なんなら。 好かなんだか」
ぶっきらぼうに聞く尋ノ介に、直はあわてて首を横に振った。
嫌いなわけない、ちゃんと、もちろん、好物だ。
孫の反応に満足したのか、尋ノ介はヤッケを脱ぎながら廊下へと上がって来た。
「あ、これ、爺ちゃんも食べるん?」
横を通り抜けていく祖父に問うと、自分はもう食うたと答えられた。
風呂の方へ消える尋ノ介を見送って、直は玄関先で立ち尽くす。
「えー…… どうしよ…… これ」
トレーの蛸を見て、ぽつりとこぼす。
今までだって、潮守たちは魚介類の総菜を口にはしてきた。
けれど、これほどまでにあからさまなモノを、出したことは無い。
これを夕飯の机に上げて良いものか、悩ましく唸っていると、
「どうした?」
「わっ!」
背後からの声に、直は飛び上がって驚いた。
危うくトレーを取り落としそうになる。
わたわたとホイルの蓋を被せ直し顔を上げると、目の前には八景の顔があった。
「び、くったぁ~ どうしたん?」
「それはこっちの言い分だ。 こんな所で突っ立って、何をしている」
尋巳の服のまま、いつもの癖で腕を組む八景に、直は口ごもりながらトレーを体の影に庇う。
それを訝しげに見ると、八景は首を伸ばしてトレーを目で追ってきた。
「なんだ? 何を隠してる」
「い、いや? なんでもない、なんでも」
「その様でか。 隠してないで見せてみろ」
「い、いや、これは……「直ちゃん~ おじいちゃんがさっき、タコ持って帰ってくれたってゆうてたんや、け、ど……」
…………
誤魔化そうとする言葉が、虚しく消える。
風呂に行った尋ノ介の洗濯物を受けっとって出てきたのだろう。
廊下に顔を見せた夏子の伸びのいい声が、尻すぼみに小さくなってゆく。
「「「…………」」」
暫し三人の間に沈黙が降り、直は冷汗をたらりと垂らした。
何とも気まずい沈黙である。
何か言わなければ、そう、直が思い詰めた途端、
「――――なんだ、夕餉か。 何を思い悩んでいるのかと思えば」
案じて損をした。
最初に沈黙を破った八景が、呆れたようにトレーと直を見下ろした。
アルミホイルは取れかけて、中の刺身は見えてしまっている。
けれど、それを見ても気にした様子もない口振りに、直はしどろもどろになりながら言った。
「いや、ほら、だって、な?」
自分でもどう弁明すればよいのやら。
以前から魚介類を食べる潮守たちを見てきていたとはいえ、これを目の前にして潮守たちが、八景が、どう思うのか。
その心の内を案じずにはいられなかったのだ。
しかし、そんな直の心配をつまらなそうにして八景は一笑に付した。
「何度も言うが、そやつと俺とでは、成り立ちが違う。 俺たちも里で海の幸を口にするし、感謝はすれど、罪悪にかられることはない」
「でも、」
なおも言い継ごうとする直を、八景は目線で止めた。
「そんなことで一々悩まなくていい。 俺は気にしない」
「……そう」
当人が言うのなら、気にしすぎるのも野暮というものだろう。
直は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
そんな二人をじっと見ていた夏子が、ふと首を傾げる。
「ねぇ…… なんか二人、雰囲気変わった?」
唇に指先を当てながら、夏子が直と八景を交互に見る。
その探るような視線に、二人は顔を見合わせた。
「「…………」」
変わった? そうだろうか。
変わったこと、そんなものは、よく分からない。
けれど、
「そんなことないよ。 いっつも通りやで」
自然に視線を外し合い、直は夏子に向かってあどけなく答えた。
そんな二人を、夏子はおやっと見つめる。
「そう?」
「うん、そう」
なお不思議そうな視線を寄こす夏子に、直はその肩をとって、台所へと背中を押していった。
「ほら、もう夕飯の準備せな。 遅ぉなってしまうで」
肩越しに、八景を見る。
人外の青年はそれに目で答えた。
それが少し、楽しくて。
直は小さく微笑みながら、台所へと向かうのだった。




