変化 二
肩を揺らして息を乱す青年を前にして、直はぼんやりと立ち尽くしていた。
今し方聞いた言葉が、耳の奥で反響する。
それに、じっと耳を澄ませていた。
八景が直たちのせいだと詰った事柄。
その一つ一つを、何とか分かろうと努めていた。
「(船、異なる水――――もしかして、バラスト、のこと?)」
海底に、ゴミ?
そんなことが本当にあるのだろうか、直には分からなかった。
けれど、今朝聞いたばかりの知識を繋ぎ合わせながら、直はなんとか八景の言葉を理解しようとしていた。
同時に、それを教えてくれた嶋の言葉も蘇る。
『海自体は誰のものでもないよ。 だから、美しく保つ義務なんてものもない。 そこが問題を根深くしている理由でもあるのかな』
誰のものでもないものを、大切にする義務はないと言い切った彼の言葉。
けれど問題は無くなるわけではなく、誰の手も加わらないそれは、ただひどくなってゆく。
人の、直の知らない所で、海と関わる陸の問題。
存在も知らなかった、自分たちの側がもたらす影響のこと。
八景が憤った、人の行い。
ぐるぐると、海に接している研究者の言葉がめぐる。
誰が悪と決めつける権利がある存在が、いるのかどうか。
直たちの側にはいないのかもしれない。
けれどもし、糾弾することが許される者がいるとしたら、それはきっと――――
「ごめん」
自然に、口をついて出た。
張り上げた声に、小さく八景は身動ぎする。
形だけの謝罪ではと、火に油を注いだのだろう。
顔を険しくして、きっとねめつけてきた。
「謝ったところで、」
「済む話やない。 それはわかる。 やけん、『ごめん』」
言葉尻を引き取って、それでも詫び言を重ねる。
訝しげな顔をする八景を見て、直は一瞬唇を噛んだ。
どんな風に言えばいいだろう、どう言葉にすれば、正しく伝えられるだろう。
こんがらがった思いを見つめながら、目の前の青年を目に映した。
「今のは、アンタ等の世界に人間が何かしてしもうた事に対して謝ったんちゃう。 アンタの話聴いても、陸のウチ等が何をしてしもうとるんか理解できんことに謝ったんや」
『俺がお前等を嫌う理由も知らず』
八景はそう言った。
その通りだ。
直は八景の怒りの元の事を、何も知らない。
自分には今、知識が足りない。
八景の憤りに向き合うための知性が圧倒的に足りない。
だから、形にできる思いは、こんな風にしかならない。
「申し訳ないけど、今アンタがゆうた事、ほんのちょっとしか分からんかった。 ただウチ等がなんかしでかして、それでアンタらが迷惑しとるって、そんぐらいのことしか、分からんかった」
自分では八景の思いを受け止めてやれない。
それを申し訳なく思うから、だから。
「やから、『ごめん』――――何にも知らずに居ったこと…… そのことを、ごめん」
最後の謝罪と一緒に、直は少しだけ、頭を下げた。
腰を折って大仰に謝るのは、気持ちが見合っていない気がしたから。
そのまま、相手の反応を待つ。
けれど、何時まで経っても八景は動きを見せない。
直は仕方なく、俯けていた顔を僅かに上げた。
「――――」
八景はひどく戸惑った顔をしていた。
まるで思いもよらない方向からぶつかられたみたいな表情だった。
これは、形にするのに失敗しただろうか。
ちゃんと伝わらなかった?
直は焦って口を開いた。
「あ、あんな? 許してほしいと、言うてるわけではないんよ。 その権利があるとも思わんし。 ただ、あんまりこっちが無知すぎてな、」
「待て、待て! 分かった、分かってるっ」
慌ただしく言い継ぐ直を、八景は大声で遮った。
出鼻をくじかれた直は、間誤付いて口を閉じる。
分かったということは、ちゃんと意図が通じたのだろうか。
心配になって直は眉を下げた。
すると急に八景は難しい顔をして手を振り回した。
「~~~っ 分かったから、もういいっ もう、いい!」
「もういいって……」
いきなり話を切り上げられて、今度は直の方が戸惑う番だった。
もういいということは、直の無知に呆れ果ててしまったということか。
今一度、愚かな陸者を糾弾する姿勢は崩さないと、心に決めたということだろうか。
それも仕方がない事なのかもしれない、しかし、
「なぁ、あんな? その…… そっちは許せんかもしれんけど、まだ術が切れるまで時間、あるやろ?」
自分たちは、まだ離れて過ごすことができない。
どうしても顔を突き合わせていないといけない距離感で、この気まずい関係を続けるのは、直にも苦しい。
「あと一か月、無理にとはいわんけど、許せんなりに最低限いがみ合わずにやっていけんやろか……? こっちもせめてアンタの気に障らんように、気を付けるから、」
今日のことが切欠で、今後お互い気まずく過ごすのはつらい。
仲よくしてくれとは言わない。
ただ、せめて今まで通り、当り障りなく過ごせればと思う。
そんな願いもおこがましいだろうか、直は困り切った様子で、八景に問いかけた。
「ぅ……」
それも嫌……? と覗き込むように窺うと、八景はぎっと体を強張らせて仰け反る。
そうしてきょろきょろと視線を彷徨わせるた、観念したように息を吐いた。
「…………お前、俺のことを嫌っていただろう」
「――――はい?」
え? 嫌う?
突然の指摘に、直は目を瞬かせる。
思いもよらない話題を振られて、一瞬訳が分からなくなった。
嫌うとは、自分が八景をということか。
「え、突然なにを……」
「異形の姿を、厭うていたのではないか」
「はぁ?」
「俺が近くに来るのを嫌がっだろうっ」
むきになる八景に、直は過去の言動を回想する。
近よるのを嫌がった、そんな態度を八景の前でとったことなど……
「も、しかして、最初の?」
不意に思い当たって、声を上げた。
最初も最初。
初めて潮守たちに出会った日の晩、互いに離れられないと教えられ、そして――――ペアになるのを嫌がったこと?
言葉にしない部分を察したのか、八景は黙りこくって視線を外す。
当たりのようである。
「えー……」
今度は直が難しい顔をして、言葉をなくした。
確かにあの時は、正体の分からない存在への警戒と襲われた恐怖で潮守たちへの忌避感があった。
しかしそれは、随分前の話である。
あれから蛸姿のこの青年の世話を何くれと焼いているうち、そんな感情もどこかへ行ってしまっていた。
こうして指摘されるまで、すっかり忘れていたくらいである。
そもそもこの青年が何かにつけて口を荒らす度に応戦していると、恐怖より勝気な自分が勝ってしまうのだ。
今はもう自分の中で、喧嘩相手みたいなものだと思っているのに……
「そんなモノと、一緒にいるなぞ、気味が悪いのではないか」
ずっと難しい表情を浮かべたまま、八景は小さく言った。
もしかしてこれは、直への戸惑いなのだろうか。
自分と同じようにこの潮守も、互いの距離を測りかねているのだろうか。
直は目を逸らしたまま言う八景の横顔を、じっと見た。
青年に嫌悪感など抱かないことを改めて確かめる。
そうして呆れたように言った。
「気味が悪いとか、ないわ。 一体いつの話や、それ」
今ハッキリと分かった。
自分たちはきっと、いろんな認識が遅れている。
それを取り戻す必要があるのだ、すぐにでも。
「だが、」
「待って、全部言わせて。――――確かになぁ、最初は、アンタがちょっと怖かった。 だって暗闇ん中、いきなり襲われたんやで? そうなるやろ」
最初の日の晩、真っ暗闇に浮き上がったぬたつく肌、金に光る一本線の目。
思い出しても、もう恐れはない。
あの蛸の中身が、ただの利かん坊の強情っ張りだと知ってしまったからだ。
「でも、今は、別にどうってことないわ。 チビなアンタの世話、むっちゃ焼いたし」
怖くもない、嫌ってもいない。
大分居丈高なのが鬱陶しくて、慣れない陸の生活に戸惑っているのに――――ほんの少し、可愛げを感じるくらいだ。
「それにさっき、蛸の姿で助けてくれたやろ。 やからもう、へーき」
言い終えた直は、真っ直ぐに八景を見遣った。
自分の言いたいことはちゃんと言えた。
あとは八景がどう受け取るかだ。
沈黙は、数秒だったと思う。
「俺は、」
何か逡巡するように、八景は言い淀む。
そうして決心したかのようにぐっと口元を引き締めた。
「まだ、陸を許すわけじゃない。 ――――だが、」
悪かった。
そう言って、八景は目を逸らす。
「俺も、言いすぎた。 あんな風に声を荒げて…… お前の言う通り、子供じみてた」
八景の言葉に、直は目を見開く。
彼がこんなふうに素直な態度を見せたのが、初めての事だったから。
「…………ええよ、きっと本当の事なんやろ、ウチ等が海にしてるゆう事。 アンタ、嘘ついてるように見えんもん」
だから、気にしない、詰られたことは。
直の呟きに、八景は視線を落とした。
直が自分の糾弾を受け止めたことに、ばつが悪い思いでもしているのだろう。
けれど、このまま黙っていても仕方がない。
どう声をかけようかと直が逡巡していると、不意に八景がすっと息をすった。
「俺は……」
「ん?」
小さな呟きに、直は首を捻って耳を近づける。
白い肌をほんの少し赤らめた八景は、ぐっと詰まってから声を上げた。
「俺は…… こちらの生活には不自由する。 お前たちの手を借りなくては儘ならない。 だから、今後とも、迷惑をかけると思う」
悪いが、世話になる。
末尾をごにょごにょと言い淀んで、八景は俯いた。
直はそれを見て、目を見開く。
そうしてへらっと相好を崩し、
「――――分かった、任しとき」
と、屈託なく応えた。
彼の里を汚す償いには、足りないだろうけれど。
縁ができた以上、最後まで面倒くらいみてやろうじゃないか。
そう改めて心に決めて、強く言った。




