明津宮神事 二
直の生家は、とある神社に縁のある家系である。
とはいえ、堅苦しい縛り事があるわけでもなく、家自体はそこいらの一般的な家庭と大差ない。
ただ一点。
とある《祭》において、各代ごとに二人。
一族の内から年相応の者が巫の職に就く、というお役目があることを除けば。
「母さーん、帯、どう? 結べとる? これ」
町のはずれに、海へと鼻を出す一つの山。
その山頂には開けた土地があり、古びた神社が木々の合間から屋根を覗かせている。
直の一族が受け継ぐ、『迎山神社』。
そこで十二年に一度行われる『祭』は、空が朱に染まり切らない夕暮れ前に始まる。
境内には提灯が連なり、中心となる舞台には白の幕が張られ、続々と神社の親類たちが集まって来ていた。
旧暦の水無月の朔日、現行暦でいうところの、六月の終わり頃。
その日こそが、これからひと月のあいだ続く、『明津宮神事』の最初の夜である。
「直ちゃん、後ろちょっと捩じれてる。 こっち向いて」
明津宮神事――――直たちの言う『祭』は、旧水無月の初めと終わりに執り行われる、この神社の神使を主とする神事だ。
最初の夜、選ばれた二人の巫は、その身に神使の御霊を下ろされる。
現に呼ばれた神使は、その後一か月の間此岸でもてなしを受け、 その魂を慰められることとなる。
そうして最後の夜に神使の舞――――つまり、巫の神楽をもって神の世に戻るのを見送られるのだ。
最初の夜は神使の迎えであるため大事にはせず、神社の親族だけで執り行なわれる。
「はい、いいよ。 綺麗にできた」
神使の御霊を下ろす巫――――この迎山神社では、使える巫を『座』と呼ぶ。
右座を天津弥彦。
左座を陸弥彦と称し、この二人一組を、この神社の神使代役として見立てるのだ。
座の最初の務めは、神使を呼ぶための場を清める、しめやかな『榊舞』。
そしてもう一つは最終日の夜、神使を身に下ろして舞う『曲舞』である。
こちらは神使を体現するように勇猛で、新体操のような技を組み込んだ神楽だ。
この迎山に仕える神使は、『猿』。
座を演ずるものは、神猿として神楽を奉納するのである。
「ごめん夏っちゃん、ありがとう。 鏡ないけん、見えんのよね」
陽が落ちかけているとはいえ、七月目前の夕暮れに、重ねた衣装は少し蒸せる。
顔に施された化粧を気にしながら汗を払えば、夏子が手ぬぐいを差し出してくれた。
それをありがたく受け取って汗を拭うと、直ははっと思いついたように辺りを見回した。
「そういえば、『扇と鈴』、もう準備できてるんかな。 帰った時に練習で使ってから、ウチ持ってきてないんやけど……」
座の舞は、天津弥彦が扇、陸弥彦が鈴を持って舞う。
普段の練習では似せた仮物を使うが、学校帰りの最後の打ち合わせで使ってから行方を知らない。
舞具自体は神事の最中、祝詞を詠みあげた宮司に手渡される手順なのだが。
「心配せんでも、二つとも僕が持って出てきたよ」
背後からの声に、直は首を巡らせた。
幼びて少し高いに、落ち着いた物言い。
振り向いたそこには、まだ学生服を着たままの、小さな姿があった。
「晴!」
まだ幼い少年だ。
直が名前を呼ぶと、後ろに手を組んだまま近づいてくる。
直の後ろから顔を出した夏子が、おっとりと笑いかけた。
「晴君、帰っとったんや。 姿が見えんから、どこ行っとんかと思っとたわ」
「ちょっと用で出てたんや。 ――――探さんでも、もう二つとも父さんに渡してあるから」
少しばかりぶっきらぼうなのはいつもの事。
本家、つまり神社神主の一人息子である柾 晴真は、直の二従弟にあたる。
直の弟と同い年の小学六年で、今は県内の有名私立に通う、いわゆる『できた子』だ。
「晴君、表の方に出るん? その恰好。 私暑いから、裏で居るつもりやけど」
神事に参列するとなると、特に本家の子などは正装でいるものだ。
学生であれば、あるなら、制服である。
未だ私服に着替えていない晴真の姿を指して夏子が聞くと、晴真は首を振って舞台裏に目を遣った。
「制服は、単に着替えるんが面倒やったから。 表出たところで小父ちゃん等ぁに捕まるんが関の山やし。 俺も裏に居る」
親戚中が集まる夜だ。
神事が終われば、直たち子供だって挨拶回りがある。
それを見越して、余計な顔出しはしないと言う事だろう。
年の割に大人びて晴真がそう言ったところで、その背後からにゅっと手が伸びてきた。
「あ、」
直が声をかける前に手は小さな頭をがしっと掴んで、無造作にかき混ぜだした。
首が居れるくらい抑え込まれた晴真は、「ぐっ」と呻き声を上げて手をバタつかせる。
「なぁに、ぶつくされた面で偉そうに(言い)よんじゃ。 お前はホンっマ、愛想が足らんやっちゃな」
「あら、尋ちゃん。 もう準備できたん」
晴真の頭をぐわんぐわんと揺らし始めたのは、巫姿の尋巳だった。
直のと瓜二つである衣装は、袴と上掛けの刺繍の色で見分けられる。
天津弥彦である直は、空色。
陸弥彦の勝色を身に纏った尋巳は、思うさま晴真をもみくちゃに撫でくりまわすと、満足したのか納得顔でぽいっと放り出した。
「その年で可愛げ無くしてどうするんや、もうちょい年相応にしてみぃ。 本家の長男がそれやったら、爺連中に可愛がってもらえんやろうがよ」
「……うッッッ、さい! ほっとけバカ尋巳! お前ん方こそ、年相応に落ちついてろッ」
この馬鹿力!
先ほどまでの澄まし顔もどこへやら。
解放された晴真は、顔を真っ赤にして尋巳から跳び退る。
傍若無人ないとこから距離を取る晴真を、直は袖の裏に隠してやった。
いつものことながら、はねっ返りな晴真と、それを玩具にして遊ぶ尋巳は相性が悪い。
懐かない子猫のような晴真を揶揄うのは楽しかろうが、尋巳の方が大人げないのも確かだ。
おかげで晴真の尋巳嫌いは年を追うごとに悪化しているようで、どうしようもない。
「ほらもー、お兄ちゃんもいい加減にして。 そんに晴君、いじめんのんよ」
もうそろそろ始まるでしょうと夏子が言いかけたところで、尋巳の向こうからもう一つ、小さい影が駆けてくるのが見えた。
「直ちゃん、尋兄ちゃん、もう準備できた?」
「孝介」
いとこの中では特に生白い肌が、落ち始めた夕影にぼんやり浮かぶ。
小づくりの鼻の上にちょんと眼鏡を乗せ、頬を上気させながらやってきたのは、直の弟の桧原孝介である。
こちらは晴真と違って涼しげな私服姿で、早く早くと言うように、尋巳の袖を引いて舞台の方を指さした。
「柾の伯父さんが呼んどるよ。 もうそろそろ始めるからって」
本家・柾の当主は、この神社の宮司だ。
祭舞台の周囲は幕がめぐらせてあり、表側の様子はこちらからは窺えない。
一月後の『本宮』は屋台などが出て近隣の住民も参加の中行われるが、今日の『初めの宮』は神社と縁故のある人間ばかりで奉納される。
話し込んでいて気が付かなかったが、いつの間にか表側の参列者の声も鳴りを潜め始めていた。
「ああ、もう時間やったか。 直、行くぞ」
「うん」
急いで駆けていく尋巳の後に、直も続く。
しかし足を踏み出しかけて、何かに上掛けをくいっと取られた。
はてと首を回して後ろを見れば、晴真が顔を落としたまま裾を握っている。
「? 晴? どしたん」
訝しんで問うも、晴真は何事かを言いあぐねるように顔を顰めて俯いたまま。
逡巡したかと思うと、ゆっくり裾を放して首を振った。
「ごめん、何でもない。 行って、直姉。 もう始まるし」
そう言って晴真は舞台裏でなく、本家の方へ帰っていく。
直はその姿を見送ったが、促す孝介に背を押され、最後まで追うことはできなかった。
何か言いたいことがあったのか、気になる所だが、今は時間がない。
いそいそと舞台の入口へ辿りつけば、木箱入りの猿の面を差し出される。
今から演じる天津弥彦の顔だ。
彩色が剥がれないよう、夏子と二人ががり、慎重に面をつけた。
急に狭くなった視界の先で、準備はいいかというように、陸弥彦の面の向こうから尋巳が頷く。
肩にかかった紐を払って、直も頷き返した。
いよいよだ。
祝詞が終わり、囃子が始まる。
いよいよ、ひと月に及ぶ祭の、幕が開くのだ。