『ラボ』の主 四
全てが正しい歴史なのか、それは自分たちにも分からない。
神の世はとは、あまりにも遠いものだと、文都甲は話し始めた。
その昔、陸と海は断絶しており、互いの行き来は閉じていた。
ある日、海の恵みを求めた陸の神が、海の神に互いの子等の婚儀を行い、それをして海と陸の結びとすることを思い立った。
海の神はこれを承諾し、陸の一の子と海の一の子が、結ばれることとなった。
陸の神子と海の神子は互いに想い合い、幸福に過ごした。
しばらくして二人の間に、一つの命が生まれた。
海の神子はその子を産むために、自らのつ連れ合いに産屋を立てることを望み、出産の間自分の姿を覗き見ることを固く禁じた。
出産の日、産屋からは海の神子のもがき苦しむ声が漏れ聞こえていた。
陸の神子はその身を案じ、禁じられていたにもかかわらず、様子を窺おうと産屋を覗き見てしまった。
海の神子はいた。
しかし、その姿は元の美しい姿ではなく、海の性を現した異形の姿であった。
海の神子は嘆いた。
陸で生きるため、出産を最後に捨てようとしていた海の姿を見られてしまった。
もう陸の姿へは戻れない、出産の忌からも逃れられない――――陸で生きることはできない。
海の神子は陸の神子と子を残し、海へと帰ってしまった。
しかし、海と陸の婚儀は果たされなくてはならない。
幸いにも海神の神には、子は二人いた。
陸の神子は弟神子――――乙姫と番い、子を養い育てることとなった。
「二人はそののち、幸福に過ごしたと伝えられています。 しかし、陸を後にした兄神子様――――兄媛様は、陸者へと本来の性から変じ損ねた咎と、産後の忌を二重に背負われ、穢れに塗れて竜宮に戻られました」
「…………海神の神さんは、媛さんを助けようとはせんかったん?」
話を聞き終え、孝介が悲しげな顔で文都甲の袖を引っ張った。
文都甲はそれを儚げな笑みで見下ろすと、そっとその手を取る。
「分かりやすいように古物語のようにお話ししましたけれど、海神様は本来、我々潮守と交流することはありません。 海神様は、言わば海を司る総て。 生物のように意思、意識があるわけではなく、我々を取り巻くものそのものなのです。 我々がその恩恵を授かっても、それはただ、海神様の営みの産物を頂いているに過ぎない。 海神様のご意思で、何かが与えられるものではない」
「神道に似とるな」
尋巳が言えば、文都甲はそれに、陸の理ですねと頷く。
「兄媛さまも半ば、海神様と同じような存在です。 半分だけ我々に似た、神に近い御方です。 今お話ししたのは竜宮に伝わる古物語ですが、全てが偽りではありません。 これは凪――――私の先達の、その内でも特に位のある者にしか伝わっていない言い伝えですが、陸と海の婚姻は確かに昔、なされたのです」
古物語は、全てが真実ではない。
けれど、全てが偽りでもない。
真とは、わずかに隠れていてこそ、語り継がれていくと、文都甲は微笑む。
「患った兄媛様は、それでも陸の若者のことも、産主である海神様のことも、恨みには思いませんでした。 一人、何者にも癒せぬ穢れを背負うことを選ばれたのです」
しかし、穢れは少しずつ周りへ伝播する。
媛は竜宮京を、海を守るため、自らを封じることを決めた。
――――そうして数千年、兄媛は長い苦しみの眠りにつかれた。
「潮守と陸の交流は、だんだんと途絶えてゆきました。 陸は海に求めることはあっても、海にはそれが無かった。 潮守は海で生きることを決めたのです」
そんな中、わずかながら残っていた陸との交流筋から、穢れを内から払うという希少な妙薬の話が伝えられた。
その妙薬こそ、『猿の生き胆』。
「話を伝え聞いた当時の凪は、それさえあれば、兄媛様を目覚めさせることが出来るのではないかと考えました。 そうして皆様の使える社に居られた、御使い殿に出会った」
結果から言えば、肝を手に入れることはできなかった。
神使である猿は、腕っぷしも強いことで有名だったらしい。
肝を奪おうとした先達は返り討ちにされてしまった。
ただ、事情を聴いた神使は、兄媛の境遇にいたく同情し、ある申し出をしたのだという。
「陸には『御霊廻り』という穢れ払いの法がある。 それは、穢れに澱んだ魂を洗い、全ての気を浄化する禊。 海の御霊である兄媛様の穢れが払えるかは分からない、御霊廻り自体も危うい旅だと御使い殿は申され、それでも自分が兄媛を連れて、払いの旅に出ようと仰って下さったのです」
こうして神使は兄媛の“魂”だけを伴い、御霊廻りへ旅立った。
苦しみもがく、兄媛の“魄”だけを置き去りにして。
話の合間に、晴真が手を上げる。
「魂と魄って? タマシイと何が違んですか?」
「魂は、そのまま、私たちが抱く大元のタマシイそのものを言います。 魄は、我々潮守にとって、魂と同様に重要なもの。 現を司るもの。 性を表す体そのものとはまた違う、魂の殻のようなものです」
「ふうん?」
難しいですね、すみませんと、文都甲は晴真の頭を撫ぜた。
文都甲の説明は、かみ砕いて話してくれているのだろうが、所々抽象的で飲み込み難い。
そんな中、尋巳が分からないといった顔つきで、口を挟んだ。
「けど、仮に肝で穢れが払えても、魂は神使さんが持っていてしもうとるんやろ。 それでは媛さんも目覚めんのやないか?」
「いえ。 実は魂魄とは、互いに引き合うものなのです。 健全な魂魄では正しく引き合う力も、穢れていては引き合う力を失い、気が乱れ、それが苦しみとなって現れます。 どちらか一方の穢れを払うことができれば、力が再び復活し、魂も魄に引かれ戻ってくる。 戻った魂も、穢れを浄化されるはずなのです」
「しかし、約束は破られた。 帰り着くべき日取りに、神使様は戻られなかった。 そのため貴方たちは、肝を求めて、陸へ上がった」
文都甲の語りを引き受け、嶋はそう言葉を結ぶ。
嶋のまとめに文都甲も首肯し、直たちを見渡した。
「海に伝えられる史実はこれで全てです。 陸の、皆様の一族の歴史は、私たちも存じ上げません」
孝介が、直の方へそっと寄り添ってくる。
晴真も、追い詰められたような顔をして、じっと固まっていた。
尋巳は何も言わない。
直も、誰も、発するべき言葉を持っていなかった。
ずっと昔の、陸と海の婚儀に端を発する物語。
想い破れ、穢れを負った海の御媛さま。
神の、陸の思惑に翻弄された、哀しい人のお話し。
別に、直接自分たちが悪いわけではない。
けれど、同じ陸に生きる者として、その憐れな生い立ちに引け目を感じてしまうような。
そんな感情が、直たちの胸に押し寄せていた。
「――――陸はいつもそうだ、奪うだけ。 与えることなど、ほとんどしない」
吐き捨てるように、八景が言う。
浮子星が八景を引っ張って窘めるが、その一言が直の心に突き刺さるようだった。
「話してくださって、ありがとうございます。 約束通り、あなた方の秘密は、ちゃんと守ります。 勿論、」
この子たちも。
嶋の言葉に、俯いていた直や晴真たちは顔を上げる。
そこへ、パタパタと足音が部屋へ入って来た。
「さ、お話は終わった?」
「夏ちゃん、」
全て一緒に聞いていただろうに、夏子がいつも通りの様子で、たんと大皿に盛った料理を座卓に置く。
「先生も、文都甲さんも、随分喋って疲れはったでしょう。 沢山作りましたから、遅いけど、ご飯にしましょ」
にっこりと笑う夏子に、直と晴真、孝介は互いに顔を見合わせる。
文都甲と嶋を見れば、二人は優しい面差し浮べ、直たちを見返してくれた。
「――――すみません、話が長引きましたね。 お腹が空いたでしょう」
「そうですね。 いいタイミングですし…… いただきましょうか」
ありがとうございますと二人一緒に礼を言って、夏子に促されるまま箸をとる。
それを皮切りに、それまでの話などなかったかのように、和やかに夕食が始まった。
孝介と晴真もおずおずと箸をとって、食事を始める。
「…………」
部屋が俄かに明るい空気に包まれ始める中、直は一人、置いて行かれたように俯いた。
居間を満たす声が遠くなる。
そうして背を向けている八景をちらりと見て、膝の上に置いた手を固く握りしめるのだった。
***
夕飯を終え、家を辞す嶋を見送ったあと。
風呂に呼ばれるまでの間、直は一人裏の稽古場を訪れた。
いくつかに分かれて設置されている裸電球を一つだけ灯し、肘と膝にストレッチがきくサポーターを付ける。
「…………何を始める気だ」
半眼で直の様子を窺う八景が、バケツの淵から問いただす。
それを振り返らず、直はサポーターをつけながら「練習」とぶっきらぼうに返した。
「あんたらが来て、バタバタしとって、ここ二、三日出来てなかったから」
八景たちが現れて意識から吹っ飛んでいたが、今は明津宮神事の真っ最中だ。
一月後、直は尋巳と一緒に、神使の依代として神楽を披露しなければならない。
その舞は、未だ完成していないのだ。
「…………」
本番では動きやすいよう、和紙で作った半面をつけるが、練習はそれ用の彩色のない和紙そのままの半面を被って行う。
準備を整え、ぐ、ぐ、と体を伸ばした。
最初の位置につき、呼吸を整える。
初めの立ち位置では、正面に陸弥彦である尋巳が立つ。
囃子のリズムを思い出す。
まずは、礼から。
ゆっくりと腰を落とし、大きく前転――――陸弥彦と交錯する。
翻って、立ちの構え、側転。
その場で腕を振るい、優雅に舞う――――倒立、よろめく。
「(……っ)」
乱れている。
それは自分でよくわかっていた。
潮守と竜宮の媛。
そして、この社の神使の約束。
聞いた話が頭の中でこんがらがって、気持ちが悪かった。
神使を生き写したかのように、剛毅に足を踏み鳴らす。
話し終えた、どこか寂しげな文都甲の笑みに、直は胸が痛んだ。
それがなにか、身勝手な思いのような気がして、一人罪悪感のようなものに駆られた。
聞かなければ良かったのかもしれない。
潮守たちが、どうして肝を求めたのか、なぜ、自分たちを襲ったのか。
そうすれば、こんな気持ちにならなかっただろう。
潮守たちが救いたいと願う兄媛。
話を聞いて、彼ら同様、直にも彼女に救われてほしいと願う気持ちが生まれた。
けれどそれには、自分たちのうちの誰か一人の命を捧げなければならない。
そんなことはできない――――できないのに、憐れむ心を抱く自分が、きっと、綺麗でいたいだけの薄汚れた存在のような気がして、後ろめたく思うのだ。
それを振り払いたくてここにやって来たのに、思うように動いてくれない体に、いら立ちは募るばかり。
舞台の対角で、陸弥彦と向かい合う。
腕を払い、腰を落とす――――助走から、前方宙返り――――踏切が足りず、着地に失敗。
骨に響いた痛みを、直は身を固くしてやり過ごす。
「(あとひと月……)」
間に合うのだろうか、不安が更に覆いかぶさるようだった。
それでも続けるしかない。
直はもう一度最初の位置に戻り、落ち着くように大きく息を吸って吐いた。
構えの体勢をとるその背を、バケツの縁から八景が、黙って見つめていた。




