夏の始まり 一
襖で閉じられた六畳間。
夜の余韻を引き摺るようにしんとした静けさが落ちる、タンスや机などの家具たち。
それらに囲まれ、畳の上には一式の敷布団。
窓からの小鳥の囀りが降り注ぐその上で、緩やかなタオルケットの曲線が上下している。
薄いカーテンから射し込む日の光は、柔らかく心地よい。
何とも清々しい夏の日の朝。
ガタガタ、ガッショーンッ ――――ビシャアアアアア!
しかし、目覚めは最悪であった。
「……」
安らかな眠りを妨げる騒音と、液体のぶちまける音。
漂ってくる、潮のかほり。
鼻孔に纏わりつく生臭さへ一瞬渋面を作った直は、すわ何事かと布団から跳ね起きた。
そうして飛び込んできた光景に目を剥き、『あああ~~~~』と髪をかき乱す。
「何やらかしてくれとんや、アンタは――――!!」
乗っている夏布団の足元。
そこにはひっくり返った金バケツと、ぶちまけられた海水。
眠気も吹っ飛ぶ惨状に、直は被っていたタオルケットを引っ掴んで叫んだ。
じわじわと広がる水をふき取ろうとすれば、転がっていたバケツからにゅるりと軟体生物が這い出てくる。
「うるさい小猿! そもそも、やらかしてくれたのはどちらだっ この俺を一晩中こんな狭い場所に閉じ込めよって」
腹立たしいと濡れた床を叩く八景を、直は遠慮もなく掴みあげる。
「ふざっけんな、この蛸! 閉じ込めるも何も、大体アンタが悪いんやろ。 人が寝るゆうのにギャースカ喚いてうるさいから!」
余計濡れるわ! と、絡みついてこようとする八景をバケツに放り込むと、ガシガシと床を拭きまくる。
しかし、何とか水気は吸い取ったが、日に焼けた畳は濡れて黒っぽく変色してしまった。
ほのかに潮の匂いも残ってしまい、がくりと項垂れる。
ジト目になって、直は八景を睨んだ。
「朝からホンマにぃ…………あーもう、辞書も全部びっちゃびちゃやん」
なけなしの温情と思い、汲んできた海水を一緒に入れてやったのが徒となった。
騒音防止にバケツの上へ重ねていた辞書も数冊、水浸しである。
水を吸って重くなった紙の束を振りながら、直は威嚇してくる蛸を睨みつけた。
「そんにぎゃんぎゃん噛みついて、アンタもう少し立場考えたら? 勾玉がこっちのもんになっとる間は、アンタをずぅっと、その姿のままにしとくこともできるんやで」
寝巻のポケットから取り出したのは、昨夜の玉。
握って念じれば、繋がった相手を苦しめることもできる代物だ。
その石をちらつかせて脅しをかけるが、八景は小器用に吸盤付きの腕を組んだかと思うと、それをハンと鼻でせせら笑う。
「それがどうした、俺がそんな言葉を恐れるとでも? 貴様のような子供に、命を奪う覚悟があるとは思えんな。 この貞仁坊・八景、覚悟も無い輩の脅しになど、一族の名にかけて屈しはせんわ」
「うっわ、可っ愛げない……」
慎重になって多少なりとも口を噤めばいいものを。
こちらの温さを見抜いて居丈高になる軟体生物に、直は渋面で頬をひくつかせた。
子供と子供と言ってくれるが、人の姿の時は直とさして年が変わらない外見だったくせに。
可愛げがない。
姿も相まって、どうしようもない。
確かに今、異形の者とはいえその命を奪うほどの覚悟など、直にはない。
だが、曲がりなりにも命を握られている状態なのだ。
少しは慎重になって大人しくしていればいいものを、この蛸は昨晩から『術を解け』、『玉を返せ』とまくし立てるのをやめようとしない。
おかげで夜更けまで騒ぐ声に安眠妨害され、今朝はひどい寝不足である。
まぁ、完全になめられている訳だ。
直の方が優位であるのは確かだが、これではどちらが上だか分かったものではない。
直ははぁ、と投げやりに溜息をつきながら、胸の前で腕を組んだ。
「確かに、命まで取ろうゆう気概、今のウチにはない。 けどな、ちょっとでもウチ等の誰かに変な事してみない。 そん時は、容赦せんけんな」
蛸の姿になっても、直たち誰かの内臓を狙う、危険な相手である。
いざとなれば、こちらにも相応の覚悟はあるのだ。
そこを勘違いするなと、直は声を低めて言い放つ。
それに八景もきっと目尻を吊り上げ、早朝から一触即発の睨み合いに縺れ込んだ。
じりじりと火花を散らせること数十秒。
先に八景のほうが時間の無駄とばかりに視線を外し、倒れたバケツの中に戻って行った。
直はどっと疲れを感じて、傍らの濡れたタオルケットを広げてみる。
濡れそぼってまだらのそれを見るふりをして、ちらり。
向けられた背中を盗み見た。
出会って数時間、やはりこの蛸とはやって行けそうにない。
この険悪さで始終共にいなければならないのかと思うと、腹立たしいやら、しんどいやら。
先を思い遣られ、直は額を手で覆って、肩を落とすのだった。
***
迎山の朝日の方向には直や尋巳、晴真の家が建っていて、その反対側には直たちの祖父母の家がある。
そして昨晩尋巳が指定した《稽古場》は、その裏手にあった。
稽古場は文字通り、神社の座に任じられた者たちが、神楽の稽古をする場所である。
昨夜の別れ際、尋巳が朝稽古は無しと言ったので、体操着に着替える必要はない。
直は着慣れたTシャツと半ズボンの私服姿にスニーカーを引っかけ、八景入りのバケツを持って家を出た。
家の裏手の神社へ登る表階段を駆け上がり、境内を抜けて反対側へ。
階段を下る視界に瀬戸の海が光り、一瞬目を細めて息を吸い込んだ。
「おい、 ……おい! あまり揺らすな! ガシャガシャ煩すぎるッ もう少し丁寧に運べんのか貴様!」
段飛ばしで駆け降りる直に、バケツの中から八景の文句が飛ぶ。
「金バケツなんやから仕方ないやん、ち(ょ)っとくらい辛抱してよ。 これでも極力揺らさんように走っとるってぇのッ ――――てゆうか、人に運んでもらっといて何やその言い草は!? 文句あるんやったら、自分で走れ!」
「どの口が抜かす、この野猿! バケツに放り込んでおいて、どうやって身動きを取れと言うんだ。 そもそも走れと言うなら、俺を元の姿に戻せッ せめて陸者の姿にしろ!」
「却ッ下。 命狙ってきとる相手になんで塩送るような真似せんとかんのよ。 そんな危ない橋渡るくらいやったら、バケツ持って走るほうが賢いわ」
「自分で走れとのたまっておいて、何だその言い種はッ!?」
ぎゃいぎゃいと言い争いながら、二人は山中を抜けていく。
あと数日で七月という頃になると、朝でも少し走れば暑さを覚える。
昨晩の一悶着があった裏の倉庫の前を過り、石段を一気に下まで行くと、山の外周を左手に海を見ながら真っ直ぐ。
朝の車が少ない道路を、護岸に打ち寄せる波の砕ける音を聞きながらしばらく行けば、道路沿いから少し奥まったところに古い二階建ての日本家屋があった。
未整備の敷地に自然とできた通り路を通って家の裏手へ回ると、焼き板壁の建屋が一軒、母屋と独立して建っている。
中から漏れてくる声を聴きながら、直はあがった息を整えた。