潮守 四
「よし、帰るか」
「は?」
唐突に思い立ったらしき尋巳に、その場の全員が停止する。
帰る? 帰るって、何? ――――この状況で?
そんな周囲の戸惑いなど気にも留めず、当の尋巳は棒立ちになっている夏子の手から懐中電灯をひょいと取りあげると、孝介と晴真の背を押して社への階段を上がろうとする。
その視界に、潮守と名乗った男たちの姿は一切映っていない。
「ちょ、ちょ――――と、待って!? 待って下さい! 帰らんで! ワシ等を残して帰らんといて!!」
「そうだぞっ 帰るか? 普通、この状況で! 人の話は最後まで聞いてゆけっ」
「そうです! ま、まだ、まだ、肝心なことを申しておりませんッ お待ちになって下さいっ」
一切に無関心を決め込んだらしき尋巳の後姿に、異形たちの声が縋りつく。
必死なそれを、尋巳は煩わしげに振り返ると、
「もう十分、話は聞いた。 お前らが俺等にとって害があるモンやゆうことが分かった以上、話に付き合ってやる道理はこれっぽっちもない。 即ッ刻撤収や、撤収!」
と、立てた親指を振る。
お前等も早よ来いと急き立てられ、直と夏子は顔を見合わせる。
「お嬢ちゃんッ 後生、後生じゃから、お兄さん止めて! ワシ等にもう少し、ご猶予を!」
なぜか必死の形相を向けて浮子星が懇願してくるものだから、直はうっと仰け反った。
だが、後生と言われても。
懇願する目から気まずい思いでちらりと視線を逸らせば、視界の端で尋巳が睨みをきかしている。
さっさと来いと、顎で示される。
「……あ-、その、多少強引かなぁとは思うんです、けど、」
頬をかいて、浮子星から視線を逸らす。
内心ばつが悪い思いがするのを、ああ、これは情が移りつつあるなと嘆息して顔を背けた。
「従兄が言うことも、最もかなぁって、思いますし……」
「お嬢ちゃん?!」
浮子星がショックに声を上げる。
確かにこれ以上、彼らに関わるだけの理由が、こちらにはない。
内臓を狙われていると知って、平然と話を続けろと言う方が無理な話だ。
しかし、三人の引くほどの必死さにも引っかかる所はある。
それにこのまま男たちを放っておくのもどうなのか。
いろいろと悩ましく、直が尋巳の後を追うのをためらっていると、
「ま、待って下さい! 駄目です、駄目ッ それ以上進んでは駄目! もう離れられないんです!!」
慌てふためいて、文都甲が叫んだ。
離れられない?
どうゆうことだろうか。
意味を図りかねて、直は彼に顔を向けた。
尋巳の方も投げかけられた言葉に引っかかりを覚えたのか、ぴたりと立ち止まり、首だけで振り返る。
「離れられん? ――――まだ何かあったんか」
ドスのきいた声音に、ギロリと睨めつけられた文都甲は青くなって固まる。
「あ、あの、その…」
「無いな、よし」
すたすたすた、
「あああああ待って下さい、待って下さいッ 話します、話しますから!」
バッサリと容赦のない尋巳に、文都甲は哀願の声を上げた。
悲鳴のような降参を受けて、尋巳は暫し思案するように足を止める。
それからくるりと舞い戻ってくると、仁王立ちになって「で? なんで離れられんのや」と居丈高に言い放つ。
「……私たちが陸者となるために用いた術には、副作用のようなものがあるのです」
文都甲は項垂れたまま、ボソボソと語り始めた。
合間に口を挟まずむっつりと言葉を待つ尋巳を、浮子星が見上げる。
「名は、『水映しの術』、言うんじゃけどな。 あれは、ワシ等潮守が陸者の姿を手に入れることができる、というだけの術じゃないんじゃ」
この術の正確な作用は、『術で結んだ二者の持つ異なった理を混ぜ合わせること』。
術を行うには、一つの式に対して、術者と写し身、二つの存在が必要になる。
術者は自分と異なった理に適応するため、適応したい理を持つ存在を対象に選び、この術によってお互いの理を共有するのだという。
「例えば、我々潮守と陸者の理を混ぜ合わせた場合、私たちは陸者の持つ、陸で生きるに支障のない理に身を置くことができます。 そして反対に、写し身である陸者も私たちの持つ海の理へ身を置くことができる。 私たちがこうしてこの姿を得ているのも、貴方方の持っておられた陸の理を間借りしているためなのです。 ――――その玉、」
文都甲は力なく語る合間に、つうと直の右手を指し示した。
その所作に直が握りしめていた右手を広げて見せると、そこには男たちから奪った青い勾玉が転がっている。
「最初に八景が申しました通り、それは『荒渦の玉』と言います」
曰く。
――――月の光が届く浅い海には稀に、夜な夜な口を開いてその月光を食らう、阿古屋貝が存在する。
月の出の間、身を守るための殻を開けて無防備になるため、この手の希少な阿古屋貝を見つけるのはひどく難しい。
しかし、極わずか。
生き延びることが出来た阿古屋は、その柔らかな身の内に月光を閉じ込めたような、澄んだ石を作り出す。
その石は水底の世において一、二を争うほど強く気を宿す器となり、古来より竜宮の潮守の間で大変重宝されてきた。
ただし、母体となる希少な阿古屋の数自体があまりにも少なく、また、見つけ出しても純度の高い石を孕むモノは数が限られるため、とんでもなく希少な一品として扱われる。
その気の器となる石を渦潮の名所と名高い鳴門の海に沈め、荒れ狂う渦で研ぎ上げること、十の月の満ち欠けののち。
それは、海の気を一杯に内に秘めて、強い力を宿すようになるのだという。
この石を『荒渦の玉』といい、潮守の術に用いれば強力な術具――――媒体のような役割を果たすのだ。
「水映しの術にも、この玉は欠かせません。 本来混ざり合うことのない異なった理を共有するには、それを入れておくための器が必要なのです。 術で結ばれた二者のどちらかに入れておくには理が大きくなりすぎていますし、混ぜた理を二つに分けてしまうこともできません。 この玉を器とすることで、理を混ぜ合わせたままの状態を保つことができるのです。 ただし、先ほども申しましたように、この術には副作用も存在します。 術にかかっている現状は、元々持っている理が、自身と、さらに玉を介してもう一方の方へも流れています。 この段階で術によって繋がれている者が、無理に玉から距離を置くと……」
「――――置くと、どうなるんですか?」
もったいぶって間を置いた文都甲に問いかければ、美しく澄んでいた碧の目が今は生気もなく直を見上げ、
「お互いを繋いでいた理が玉に引きこまれて体内の気の流れに乱れが起こり、長く離れすぎていると、最悪、死に至ります」