赤ずきんの猟師は思う
パン、と一つ音がした。
躊躇いはなかった。後悔だってしていない。
――…ただ、胸の奥の何かがぐしゃりと握りつぶされたような気がした。
* * *
街から少し離れた森の奥には、小さな小屋がある。継ぎ接ぎだらけの、木で出来た古い小屋だ。強い風でも吹けば倒れてしまいそうな、そんな印象を受けるオンボロ小屋だ。
そんな立地条件、外観共に最悪な、誰も好んで住みたがらないような小屋には一人の青年が住んでいる。
細い筆を滑らせたような柳眉は常に八の字を描き、その下の糸のように細い目が長い前髪の間からちらちらと覗く。頬は痩け、突き出た鼻は魔女のような鉤鼻で、軽薄そうな笑みを浮かべた唇は花びらのように薄い。
何とも頼りない、小屋と同じように風が吹けば飛んでいってしまいそうな容姿だが、彼の猟師としての腕前は一級品である。
今日も彼は狩りを終えると、彼の両手を伸ばしたくらいの長さの銃を背負ってあのオンボロ小屋に帰る。
狩りで捕った獲物は、基本的に干し肉やら毛皮に変えて街へと売りに行く。とは言っても、毎日狩りが出来る訳でもないため、狩りをしない日は木を切って暮らしている。
一見、大変そうな生活であるが、青年は案外、特に不自由なく暮らしていた。強いて言うならば小屋が古すぎるのが難点だが、この小屋は青年と同じように見た目に寄らず丈夫だ。まだしばらくは大丈夫だろう…と、青年は考えている。
何せこの小屋は腕自慢の祖父が作ったものだ。簡単に手放すには思い出がありすぎる。
青年が小屋の戸を開ける。ギィと軋んだ音がした。ランプを持って照らせば、その小屋の中が外側よりも綺麗なのが見て取れる。
青年はランプを何の飾り気もないテーブルの上に置くと、今日の獲物を抱えて椅子に座った。鹿だ。
美しい毛皮を持っているが、それなりに高齢だろう。立派な角は大木の枝のようだ。
そっと十字を切ってからナイフを手にする。その美しい毛並みに、刃先が触れた、その時だった。
ガゥン…と。重く、くぐもった銃声が鳴り響いた。
青年は緩慢な動作で顔を上げた。細められた目の奥には呆れと諦めの色が浮かんでいた。
* * *
厚めの上着を羽織り、猟銃を背負って小屋を出る。夜は寒い。思わずため息を吐いた。
先程聞こえた銃声は、恐らく腕試しでやってきた若者達か、密猟者だろう。最近多いのだ。夜には動物達はあまりいないため、滅多に来ることはないが、度胸試しでもしに来たのだろうか。
森で猟をするならば、守るべきルール、守るべき量がある。それを守ってさえいれば、青年だって何も文句はないのだ。だが、こうも手当たり次第獣達を狩られてはこちらがたまらない。
少し前まではそういう不法者を見つけ次第、こんこんとそういったルールについて説いたのだが、聞く耳すら持って貰えない。もう近頃には青年も諦め始めていた。青年は役人ではないのだ。彼の言葉には何の拘束力もない。
それでも銃声が聞こえた方へ歩いているのは、最早惰性だ。もう習慣とさえ呼べる行為。何となくじっとしているのは落ち着かなくて、放ってはおけなかった。
しばらく歩いていくと、硝煙の匂いが木々の隙間からこちらへ届いてくる。この付近で発砲されたのだろう。辺りを見回し、細い目を更に細めれば、狭い視界に黒い塊が映った。
注意して見なければ分からなかっただろうそれは、闇にほとんど同化している。青年は目を細めたまま、猟銃を構える。
獣を警戒させないよう、そうっとそうっと近付いて、それの正体が分かった時はもう逃げ出したくなった。
――狼だ。
よく見たら一カ所、濡れて光っているところがある。血だ。撃たれたところだろう。
青年はその場で動きを止め、狼から目を逸らすことなく考える。
どうやら群れはいないらしい。
しかし、手負いの獣は危険だ。それが狼ならば尚更、近付くべきでない。
それは分かっていたのだが、何故か青年は動けなかった。
狼がピクリと動く。青年はハッとして、狼に銃口を向けた。
真っ暗闇の中、狼の濡れた黒曜石の瞳と目があった。その瞬間、青年は弾かれたように走り出していた。狼に背を向け、元来た道へ。
逃げた訳ではなかった。しばらくして、青年は救急箱と肉を抱えて狼の元へ戻ってきた。
気を失ったのか、目を瞑ったままの狼にそろそろと手を伸ばしながら、青年は笑った。乾いた笑み。
何故自分がこんなことをしているのか分からなかった。野生の獣に気休めの温情を与えたって双方のためにならない。
ただ、思ったのだ。
「…お前、寂しい奴だなぁ」
近くで見た狼は、こちらがぎょっとする程やせ細っていた。飢えているのだろう。
恐らく密猟者達による過剰な狩りが原因だ。
狼はまだ温かいが、もしかしたら手遅れかもしれない。助かっても、餓死してしまう可能性が高い。かといって青年がこの狼に餌付けする、というのは何だか正しくないように思えた。
「俺はここまでしか、しない。あとは、お前次第だ…」
呟いて、狼の腹を撫でる。恐ろしく歪に凹んだ腹。
あの黒曜石の目に何を見たかは分からない。それでもこの独りぼっちの狼が死んでしまうのは、何だか面白くない気がした。
青年は狼の黒い毛並みをもう一度撫でると、静かに立ち上がって小屋へと帰って行った。
* * *
それから、猟師は今まで通りの日々を過ごしていた。
狩りをして、木を切り倒し、薬草やキノコがあれば採取し、それを街に売り、野菜やらを買って帰る。
ただ、変わったことといえば、たまにあの狼に会うようになった。青年を見ても、ぷいと顔を背けて去っていく。けれど、たまに遠くから視線を感じた。
青年はその様が何だか人間臭く感じられて、失笑する。相も変わらず貧相な体つきだが、あの時よりはふくよかになってきたように見える。
最近はあの狼には銃口の代わりに笑顔を向けるようになった青年。森の中で一人暮らしている青年は基本的に独りぼっちだ。だからこそあの狼に親しみを覚えていたのかもしれない。
何故だか知らないが、密猟者の被害は段々と減ってきた。あの狼も飢えることはなくなるだろう。
青年は今日も上機嫌に一日を終える。
* * *
“最近森に人喰い狼が出るらしい”
また干し肉を売りに街へやってきた青年は、その噂を聞いて心底驚いた。
聞くところによると、肝試しに森に入った若者やら、密猟者やらが次々と被害に遭っているという。
当然、思い出すのはあの狼だ。最近ふくよかになってきたとは思ったが、まさか。
果物屋の女とその話をしていた夫人は顔を青くしていた。買い物に来ていたのだろう。バスケットを抱えている。
「どうしましょう。あの子、大丈夫かしら。うちの赤ずきん、森の近くのお祖母さんの家にお見舞いに行っているのよ」
赤ずきんというのはいつも赤い頭巾を被っている可愛らしい少女だ。気立てがよく、心優しい。
青年も彼女のことは見たことがある。美しくはないが、愛嬌のある顔立ちの可愛らしい娘だった。
森の近くにある小綺麗な家。そこに住んでいる優しい老婆とも交流がある。
何かと青年を気にかけてくれて、たまに手作りのお菓子をくれる良い人だ。
まさか、とは思った。何だか胸騒ぎがして、青年は急いで老婆の家へ走った。
* * *
悲鳴が聞こえた。
あの小綺麗な家…老婆の家からだ。慌てて猟銃を構え、家に駆け込む。いつも触れているそれが、やけに冷たく感じた。
勢いよく開いたドアの先、あの老婆と赤ずきんの姿は見えない。その代わりに、大きなベッドの上で牙を剥き出しにしてだらりと涎を垂らす、黒い塊がいた。
息をのんだ。引き金に掛けた指が僅かに震える。
それでも、黒い塊が飛びかかろうとした先、震える少女達が視界に入り込んだ瞬間、手が勝手に動いていた。
猟銃の銃口が黒い塊を真っ直ぐに見つめていた。
重い、くぐもった音がした。
赤ずきんと老婆は無事だったらしい。部屋の隅で縮こまっていた二人は、安心からかしくしくと泣き出してしまった。
けれどそんなものも何も、青年の耳に入らなかった。
「…お前、」
“人喰い狼”はやはりあの狼だったのだ。倒れた黒い塊は動かない。
飢えに堪えきれず、人間を食い始めたのだろう。それはある意味当然の流れだったのかもしれない。
濡れた黒曜石の瞳が青年を見た、気がした。
「…お前、悲しい奴だなぁ」
躊躇いはなかった。後悔だってしていない。
――…ただ
ただ
青年はまた独りぼっちになった。