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Valkan Raven 作者:待草雪

#2(未冊子化・執筆途中分)

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2-5

 土道を踏む足音が空間に響く。靴が砂利を潰す音が不定期に鳴り、浅く断続的な息づかいが、耳の奥に流れて鼓膜を刺激する。
 周囲は完全に闇に覆われている。一足先に黒に染まっていた空の雲は、今は放出した夜の漆黒に溶け込み、その姿を晒す権利を何かから奪われたかのように、誰にも知られる事無く風に乗って流れていく。
 上半分が見えない視界で、鮮明に確認出来る目的地へ向かって駆けていく。研ぎ澄まされた神経が過剰に辺りの物音に反応すると、時折手と目で背後に合図を送りながら、聞こえてくる全ての音を避けるように、道を選んで進んでいく。
 伸ばされた太めの指が、地面に落ちている数個の袋菓子を拾う。建物が並ぶ一角にある公共用のゴミ箱に未開封の食物達を放り込むと、磨かれた革靴を履いた足は、悪気を感じる事無く、死の運命を迎えるモノ達から離れていく。
 汗に濡れた髪がへばり付く顔が、幾度も後方を振り返る。何時までも何時までも続く踏み心地の悪い道に、耐えかねずに履いている靴を乱暴に脱ぐと、両手に鷲掴みにして疾走する。
 括られた跳ね癖のある茶髪が風に揺れる。耳から離したスマートフォンを上着のポケットに入れ、整った顔に付いた鋭い茶眼が釣り上げられると、赤い点のように見える煙草をくわえた口から、猛毒の煙が吹き出される。
 草臥れたトレンチコートが大きく靡く。色気のある声で英語の歌を歌っていた口が不気味な笑みを浮かべると、黒いグローブをはめた手に掴まれているモノから、金属がスライドするような音が聞こえた。

 頼りない光を出す懐中電灯を命綱にして、魅姫は田圃道を歩いている。中身が少なくなったと確信出来る買い物袋を胸に抱え、延々と続く見えない景色の中を、溝に足を踏み入れないように慎重に歩を進めていく。
 ――目線を前以外に向けようとはしなかった。迷子になっている事には気付いていた。だけど焦りや不安は感じなかった。むしろ心を満たしているのは、「安心感」だった。
 ……だって、怖い追いかけっこがやっと終わったんですもの。あの人騒がせな女の人には、もう二度と会いはしないだろう。
 彼女について、気になる事がある。出かける前に見たパソコンの画面の事も……だけど、それでも首を突っ込もうとは思わなかった。今はとにかく家に帰りたかった。時間が経てばまた平和な朝が来る。汚された隣室を掃除して、ぐうたらな隣人の代わりに家事をして、穏やかに安らかに今までよりは絶対に幸せだと思う日々を過ごしていくの。――
 時々曲がりくねる一本道を過ぎ、いつの間にか辺りに胸を押し付けられるような圧迫感を感じる。コンクリートの壁に覆われた狭い路地に居る事を限られた人工の光で確かめると、程なく開けた道の左右に並ぶ、建物と空き地のモザイクの中を、ただひたすらに進んでいく。
 未知の空間は知らぬ内に、体が覚えている景色へと変わっていく。無意識に歩調が早くなっていく事に気付きながらも、駆け出したい欲を抑えつつ前進を続けていくと、
 半壊した人気の無い教会が、目の前に現れた。
 ――璃音と待ち合わせをした、あの怖い廃教会だ。――唐突に再会した帝鷲町教会の廃れた姿に、魅姫の心臓は鼓動を早める。見渡してみると、荒れ果てた外観が益々崩壊しているように感じた。曇った窓ガラスが内部から銃弾で割られたように、粉々になって土に乗っている。
 異常な速さになっている心音と悪寒を全身に感じながらも、平然を装って目の前を通り過ぎようとする。息を殺して冷汗をぬぐい、勝手ながらも悪夢を思い出す場所となってしまっている施設から離れようとした時、
 耳を覆いたくなるような轟音が、聴覚を一時的に麻痺させた。
 生き物が出しているモノとは思えない音が何度も何度も聞こえてくる。鈍くて大きな、銃声のような音。音の切れ目に声が聞こえた。色気を持った高い声が洩らすように出した、短い英語のような言葉だった。
 女だと確信出来る高めの声音が、「たすけて」と暗がりの中で叫び続けている。目の前にある教会の中からかと思い、意識を集中してみるが違っていた。声は建物の裏側から聞こえてくる。
 染み入るような恐怖を、感じた。
 嫌だ、怖い、見たくないと思いながらも、何故か魅姫の足は音の出所に向かって動いていく。昼も日が当たらないのだろう湿気と冷たい土の感触と、皮膚に当たる背の高い草々が張り詰めている気を益々強張らせる。小さな雑木林に入ったのだろうか、藪蚊の耳触りの悪い羽音に緩和されるが、地獄から響いてくるような声が徐々に徐々に大きく聞こえてくる。出口を求めて振っていた懐中電灯の光が、感じた気配を追って向けた先で映し出したのは、
 派手な服が斑に赤く染まった、あの痩せ過ぎの女性だった。

 流行りの巻き髪を振り乱し、女が林の中を右往左往している。塗り重ねていた厚化粧は汗と涙で崩れて荒れ果てた素肌を露わにしており、履いていた純白のヒール靴は、ネイルの付いた両手に鷲掴みにされている。
 ストッキングを履いた両足を、何故か膝で折り曲げている。幼い子供がフザケて行っているような不自然な体勢で蠢いている相手に初めは違和感しか感じなかったが、淡い疑問は徐々に、確信へと変わっていく。
 僅かに鼻に漂ってきた生臭さが、濃く強く感じられるようになる。眼を見開いた魅姫はその場に佇むと、照明器具を握っている手を激しく震えだした。
 曲げていたのでは無く、曲げねばならなくなっていた。女の足が短くなっていた。両足の膝から下が、獣に喰い千切られたように無くなっていた。
 如雨露のように切り口から吹き出している血というインクで、半壊した足が筆のように誰にも読めない文字を幾重も重ねて地面に書いている。深紅に染まった蛍光ピンクのワンピースが、汁物を啜っているような音を出しながら赤い水溜まりの上で引きずられ、落ちている木の枝や石が足の下に潜り込む度に、赤ずくめに染まって這い出てくる。
 ――何コレ?これも夢なの?また私は酷い夢を見ているの?ーー
 全身を凍り付かせた魅姫は、光の中を見まいと反射的に身をよじろうとする。動かない思考回路と筋肉に、全ての行動が出来ずに短い声だけが口から漏れ出す。浅く早くなる呼吸と心臓の鼓動に息苦しさを感じ、遠くから放たれた重く大きな破裂声を耳で感じ取ると、
 地を撫でていた女の手が、親指と小指を残して吹き飛んだ。
 鮮やかなネイルが指ごと赤い池の中に飛び散り、耳をつんざぐ悲鳴が骨張った顔から叫び出される。雑木林の中の公開処刑は、観客に妨げられるモノを今は何も与えていない。生きたまま四肢をもがれていく人間の姿が、少女の眼と脳に焼き付けられる。
 弾丸ブレッドの放たれる音と共に千切られて解体されていく女は涙と鼻水を垂れ流しながら、部位を壊される度に獣の雄叫びのような悲鳴を繰り返す。途方もない数の「たすけて」が叫ばれる度に、同じ数だけ見えない襲撃者が無理矢理の静止をさせる。女の両の腕が肩から外されて宙に暗がりに放り込まれると、地を揺らす程の絶叫が辺り一面に響き渡る。泡を吹いて気絶しかける度に、銃弾が千切れた部位を僅かにもぎ取るように撃ち抜いて獲物を叩き起こす。
 両の耳を吹き飛ばされた女が、自らに光を浴びせている少女の存在に気付く。肩から下の失われた腕がゾンビのように前に伸ばされると、濡れた荷物を引きずるような音を立てて、膝を折ったまま這い寄ってきた。
 血塗れになって迫ってくる”モノ”に、魅姫は益々夢心地になる。全身が緊張しているものの妙な余裕感が脳を満たしており、胴と首しかない悍ましい女の姿を、まるで壊れた操り人形か加工に失敗した3D画像のように思ってしまう。
 近付いてくるモノの動いた距離に併せて、震える足が音を立てずに後ずさりをする。歩く事も出来ない短い追いかけっこは永遠にも感じられる程長い間続けられる。BGMのように何処からか聞こえてくる英語の歌が摺り響く血の泡の音に混じり合い、少女の持つ懐中電灯の光が、救いを懇願する女の顔を照らし出すと、
 放たれた重音と共に、女の頭部が水風船を割ったように砕け散った。
 肉と骨と脳味噌の花火を咲かせ、首から上を失った体が前のめりに倒れる。カールされた金色の人髪が糸状の雪のように舞いあがって降り注ぎ、鮮やかな大量の血が深紅の霧となって辺り一面を覆う。
 静寂した林に新鮮で冷たい春の風が吹き流れてくる。残酷な風と闇が骸の存在を死臭ごと闇の中に溶け込ませると、鉛の焦げる臭いと共に、木々の間から金属がスライドするような音が聞こえてきた。
 懐中電灯を消灯させた魅姫は、見えない死体を眺める。バイオレンス映画のように鮮やかだったせいか、悲鳴も涙も出てこない。だが内臓と血の臭いを未だ微かに感じた、胃から嫌な物が上がってくる。
 吐き気を堪えながら制止を続けていた少女の眼前に、突然新たな光の帯が現れる。闇に溶けていた骸を露わにした灯りが足音と共に強くなると、背の高い人影が、自身の姿を光の中で露わにした。
 美寄りの顔をしているが余りに醜いと感じる女が、胴だけの死体を見下ろしている。きっと殺人掲示板に書き込みをした依頼人なのだろう、長いだけの量の多い黒髪に厚いレンズを付けた老人向けのようなデザインの眼鏡、薄過ぎる化粧と部屋着のような服と靴という身なりが、利用でもされない限り恋愛も人間関係も築けないだろうと見た者の誰もに思わせてしまっている。
 充血気味の小さな目が、数分前まで人間だった"モノ"の末路を凝視する。肩を大きく震わせた女は狂ったように笑い上げると、暴力的な言葉を叫びながら骸を力の限り踏み蹴り始めた。
 友と称した存在に私刑を加えながら歯を剥き出して笑っている女は、自分こそが猿と呼ばれるのに相応しいのではと思ってしまう程の醜態を演じている。死人に鞭を振るい続けた女はガッツポーズのように肩腕を上げて雄叫びのような笑い声を上げる。周囲を見渡して一点を凝視し、親しげに誰かに向かって言葉を数回発すると、
 轟音と共に放たれた弾丸が、女の頭部を吹き飛ばした。
 割れた眼鏡のレンズの破片と目玉が飛び散り、宙を舞った眼球と脳の欠片が地面にバラバラになって落ちていく。皮肉か運命かお喋りを無理矢理止めさせられた女は、同じような最期を遂げて先立った友と並ぶように、壊れ倒れて永遠に動かなくなる。
 2度目の処刑を見せられた魅姫は、上がりかけた声を堪えると懐中電灯のスイッチを再びONにする。激しい動機が胸を襲い、汗が狂った量で額から溢れてくる。死骸を写さないように照明を下に向けて後退りを始めると、
 鉛の焦げるような臭いと共に、新たな足音が聞こえてきた。
 鉄が地を踏むような独特の音が、一定の間隔で大きくなって聞こえてくる。耳をすまそうとする間も与えずにカメラのシャッターのような音が前方から聞こえると、胸の高さから放たれた瞬くような光が2つの死体を何度も照らす。程なくメールを送ったような音を出した四角い鉄の照明が、黒いグローブを填めた持主の手を闇の中から明瞭にすると、少女の掴んだ懐中電灯の光が、靡いたトレンチコートの端から伸びている太い銃身バレルと2本の足を照らし出した。
 ――誰?彼なの?あの銃はエアガンじゃないの?あなたはやっぱり、本物の殺し屋なの?――
 紐付きのブーツを履いた細い足首が、3日前に見て今日も見たものと酷似している。震える体が冷たくなり、呼吸が途切れ途切れにしか出来なくなる。限界まで開いた瞳を一点に向け、全ての感覚が異常に研ぎ澄まされていく。
 色気のある高めの声が、木の影から上機嫌に鼻歌を歌っている。何度も繰り返し聞いたモノよりも更に音調が高くなっている気がしたが、特徴的な独特の声は、適当なメロディーを完璧な声色で口ずさんでいる。
 蔓延していた死臭によって嗅覚が麻痺しているからだろうか、もう1つの特徴であったあのキツい煙草の臭いは感じない。代わりに強いアルコール臭が、汗玉の乗る鼻をしきりに刺激した。
 ――怖い、怖い怖い怖い、怖い、怖い。見付かったらきっと、きっと……絶対に、殺される!――
 魅姫は背後に向かって足を踏み出すと、足音を立てないように後退していく。ゆっくりと土を踏んだ際に靴の裏に丸い塊が挟まったが、気付かずに一歩一歩息を殺して殺人鬼から遠のいていく。死体をこずいている相手の足が光の中に写る度に、呼吸が乱れて苦しくなる。木の枝に足裏が触れたので音を出すまいと歩幅を大きく踏み出すと、
 地面に飛び散っていた、生温かくて柔らかくて湿った何かを踏み潰した。
「!?ひゃっ」
「? Who are you?」
「!!ひゃあああああああああああ!!」
 独特の叫び声を上げた魅姫は、懐中電灯を投げ捨てて逃げる。携帯電話を向けた殺し屋は少女の背中を照らし出すが、何故か追いかけようとはしない。軽快な口笛を吹いて上機嫌に逃亡者を見逃すと、手に持ったスマートフォンを操作し、短い文章を書いたメールを何処かに向かって送信した。
 魅姫は逃げた。何処までも遠くを目指して、安心が出来る所を目指して、怖いと思う存在がいない場所を目指して、苦しいモノが何もない世界へと目指して。
 果てしない闇の中を細い足が全速力で駆ける。背後から一度だけ耳をつんざぐ程の轟音が聞こえたが、遊び半分でされた挑発弾であったのだろう。だが根付かされた恐怖が膨れ上がって弾ける。余計に速度を上げて走る、振り返る間も無く走り続ける。
 潰す程の握力でビニール袋を握りしめ、黒しか見えない世界を延々と駆ける。周囲が林から田道になり、路地になり、住宅地になる。逃げても逃げても溢れる洪水のような涙が止まらない。上げ続ける悲鳴の声が、喉が枯れても辞められない。引き脱げそうになる黒いパンプスをつま先に力を入れて必死に留めさせる。込み上げる吐き気が止まらない。まともに呼吸をする事が出来ない。
 靴の底に挟まった異物の触感を足の裏で感じる程、脳裏に焼き付けられた光景がフラッシュバックする。あの女の人の惨い死にざまが鮮明に蘇る。あの悪魔のような銃音が、あの独特の声が何時までもループして耳の奥から響いてくる。
 逃げる、何処までも遠くを目指して。無意識に足が何処かを目指して進んでいる。それに気付いた瞬間に、体が宙に浮いた事にも気付いた。瞬間だったが、永遠に感じられた。
 力を込めすぎていた片足を捻って、魅姫は盛大につまづいた。
 擦り転がった体が、負傷している腰を巻き込んで激しく痛み出す。脱げ飛んだパンプスが目の前に跳ね落ちて、少女の目の前に滑り転がってくる。
 混乱した頭の中を、1つの思考が支配している。自問自答を繰り返し続けて見えない景色を延々と見つめた魅姫は、啜り泣きながら抱えていたビニール袋を胸に密着させる。目と体が暗がりと痛みに慣れた頃、呼吸を落ち着かせながら身を起こそうとすると、
 脱ぎ置かれた靴の踵と土踏まずの間に詰まっている、変形した眼球と目が合った。
 残虐な死のにらめっこに、喉に一気に胃の中の物が押し上がってくる。たまらず捻った体の先にあった溝に口を押し込む。勢いを止める事が出来ぬまま、何度も激しく嘔吐した。
 止まらない動悸で流れ出ている全身の汗が凍える程冷たい。朦朧としてくる意識で必死にその場から逃げたいと願い、動かない体を必死に起こそうと身を何度もよじる。未だに感じる微かな夢心地に、ソレが確かなものであれと心の底から願っていると、
 背後に、威圧的な気配を感じ取った。
 幾度となく感じさせられた、"彼"の放つ気配に似ている。震えが止まらない。体が動かない。頭だけが動く。見開いた眼に涙を流しながら、必死に逃げ場を探すが、逃れられる場所も助けてくれる人も見つからない。
 孤独な自分の運命を呪いながら、魅姫は涙に溢れた顔を上げる。恐怖と後悔に怯えながら気配のした先へ振り向いてみると、
 鮮明な記憶として脳裏に刻まれている男が、立っていた。

 相手の姿を認識した魅姫は、直ぐに俯いて身を丸くする。転がっているおぞましい黒靴を見まいと体の方向を変えながら、徐々に相手の足下に向かって動いていく。
 丁寧に磨かれた大きめの革靴が、潤んだ少女の瞳に映る。高まり過ぎて張り裂けそうになっていた興奮が和らいでいくのを五感で知ると、上半身をゆっくりと起こして、再び男の顔を確認した。
 自分と向かい合っているのは、今朝出会った骨董楽器屋の店主。皺1つ無い灰色のブレザーを白いシャツの上に着込み、手にアウトドア用の電気ランタンをぶら下げている。
 オールバックの右側をボーダー柄の刈り上げにしている独特の髪を、空いた手で痒そうに掻いている。心配そうに話しかけてこられたので、返答をする為に相手の名前を思い出そうとする。記憶を巡っていると脳内に、蹴たぐり倒された木彫りのフクロウが浮かび上がった。
「あ、あなたは確か…………ハ」
「小梟山。ダンディでイケメンなおじさんだよ、お嬢ちゃん」
 一瞬眉間に皺を寄せたものの、男はにこやかに微笑みながら洒落を交えつつ返事をする。悪口でしか無い筈なのに繰り返しそう呼んでいた人物のせいで、2文字のあだ名で記憶しそうになっていた魅姫は、気恥ずかしそうに項垂れる。
 人の良さそうな笑顔をしながら腰を低くした小梟山は、擦り傷だらけの青白顔の少女にポケットから取り出した清潔なハンカチを差し出す。清楚な面持ちと優しい態度に魅姫は安心感を感じたが、
 気のせいか、時々豊かな胸部に向いている目線の時間が、妙に長い気がした。
「ん?あれ?君どこかで……あー!1946の彼女じゃないか!!どうしたの?腹痛?おっぱいが痛むのかい?」
「全部違います。ううう」
「気持ちが悪いの?まさか!……不味いなあいつ。手を出すのが早過ぎる」
(……)
 口が開かれる度に、綺麗になっていた思い出が鮮明な汚さを取り戻していく。――この紳士な見た目の18禁セクハラ親父は、堂々と本能全開で卑猥な言葉を自分に加えてくる。全くもって早急にどうにかしたいが、先程グロテスクな場面を見てしまったせいで、嘔吐が我慢できそうにない。――吐き気を催して路地の隅にしゃがみこむと小梟山が背中をさすろうとしたが、無意識に色々な場所を触れさせないように回避をし続ける。
 胃と冷や汗が落ち着いてきたので、履いていたもう片方のパンプスを二度と見まいと暗がりに脱ぎ捨てる。闇一色に染まった瞳で放った軽蔑の視線は親父を少々恐縮させたものの、相変わらず親父の目は少女の胸1点に注がれていた。
「あの、ハゲ……小梟山さんは、なんでこんな所に?」
「1946に用があってね。この近くに住んでいるのは知ってるんだが、場所を聞いていなかったせいだな。どうも迷ったようだから、諦めて店に帰った方が良さそうだ」
 漸く目線を顔に向けた小梟山は、手に持っている骨董品の照明で辺り一面を照らす。何処を見ても同じような家と建物しか無い田舎の道は、地元の人間でさえ道に迷ってしまうようだ。
 風の音すら聞こえない静寂した空間に、2人の声だけが響く。やはり相当気になるのか視線を胸に戻した小梟山が名前をしきりに訪ねてくるので、答えようとしたがその度に口を紡ぐ。話し掛けられる話は当たり障りの無い世間話だったが、時々名前のように口に出される”1946”の数字が繰り返し言われる度に、寒気と胸のザワめきを感じた。
「そんなに教えたくない?……仕方がない、じゃあ"カラスちゃん"って呼んでも良いかな?君真っ黒で、カラスみたいだから。……ありがとう。カラスちゃんはどうしてこんな夜に1人で外にいるんだい?1946に呼び出されたのかい?」
「い、いえそうでは………はい、そうです。でも見つからないんで、もう「帰ろう」と思いまして」
「……」
「す、すいません。もう大丈夫ですので。ご心配おかけしました、失礼します」
 ――帰る場所なんて、本当は何処にも無い。嘘を吐くのは慣れきっていた。此処に来る前は他人に伝える自分の言葉の殆どに、嘘をふんだんに振りかけていた気がする。
 この町で彼に会ってからは全くしていなかったが……――理由が分からず不思議さを感じていると、唯一の愛した人の姿が淡く脳裏に浮かぶ。魅姫は、見えない目先の景色を眺めると、体を手の平で叩いて汚れを落とし、素足に土の感触を感じながら前進する。
 拾われる事を忘れ去られた買い物袋が、中身をまき散らして足下に転がっている。無情な少女の足裏に潰された袋入りのスナック菓子が、自らの存在を気付かせようと僅かな音を響かせると、
 空気を張り裂いたような甲高い音が微なるモノの嘆きを奪い消した。
 耳を塞ぎ覆っても、聞こえない筈の英語と口笛が幻聴になって聞こえてくる。女の首が吹き飛ぶ映像が男が削り崩れる映像と交互に瞑った目の中で繰り返し映ると、心臓に見えない槍に突き刺されているような痛みを感じる。
 止まらなくなった震えが体の機能を麻痺させる。座り込んだ少女が襲いかかる寒気と痛みに耐えていると、連続的な轟音が、徐々に徐々に大きくなって聞こえてきた。
「まただ。さっきから何度も聞こえてきてるが……ありゃあ間違い無い、銃声だな。じゃああいつは仕事か。それじゃあしょうがねえな、明日店に呼ぶ事にするか」
「え?」
「今度は一体どんな奴を殺したんだか。多分朝まで暇はねえだろうし……カラスちゃん、送っていくよ。家は何処だい?まさかあいつと同棲してるとは言わないよな?」
 身に感じていた肌寒さが極寒になる。動悸が激しさに勢いをつけて肺の呼吸を妨げる。
 見開いた眼の先にいる男は、ランタンで音のした方向を照らすとポケットから皮のシガレットケースとオイルライターを取り出す。溜息混じりに口で引き抜いた煙草に火を付けると、しゃがみこんでいる少女に手を伸ばした。
 ――何コレ。今この人は何を言ったの?気のせいなの?でも未だあの怖い音は、ずっと今も響いているわよ?
 登録会の時の説明は嘘なの?人殺しは罪じゃないの?人が人を殺して銃の音がしてるのに、私の目の前にいる人はありきたりな世間事が起きたように、平然としているわよ?
 この町の人は何?この「数字の世界」は、何?――
 吐き出される紫煙は控えめだったが、濃厚なニコチン臭が魅姫の鼻を刺激する。猛毒の煙と口元を照らす小さな赤い光が見える度に不安を感じて身震いすると、ゆるやかな走馬灯のように、今までの出来事が頭に思い浮かぶ。
 桜と雨とカラスと、インターネットの「殺人依頼掲示板」から始まった帝鷲町と鈴鷺璃音への関わりを意識の中で辿っていると、4桁の数字が時々に思い出す人の姿と共に現れる。無意識に包帯に覆われた自身の右手を見ると、膿の下に彫られた4つの0という異様な数字が、不安に染まった心に締め付けるような痛みを与えた。
 銃声がまたする。遙か遠くからだったが、少し音が違っているように感じた。それでも聞こえる度に恐怖を感じる。濁った鳥のような鳴き声が聞こえてきた。人間以外の生き物も、異様なこの町の夜に怯えているのだろうか?
 震える足で立ち上がった魅姫は、一服をしていた小梟山に合わせられた視線から眼を背く。気付かれないように忍び足で身を相手から離しながら、掴まれているランタンの照明を頼りに進路の状況を確認する。
 僅かに見える、町を覆う巨大な施設の壁を凝視する。大きく1歩前進した魅姫は定めた一点から眼を離さぬようにしながら、視界に映らせない男の気配に向かって話しかけた。
「小梟山さん。璃音……1946の「仕事」って何ですか?」 
「え?知らないのかい?『管理』、この町を仕切っている団体の事だ、そいつらから許可をされたり与えられてやる仕事だよ。この町の人間にとって「仕事をする」っていうのは大体そうなる。君も「登録」の時に係の奴に言われただろ?まあ話が偉そうでつまらねえから、聞き流しちまっているのかもしれないが」
「……彼の仕事は、『指定型殺人掲示板』の管理ですか?」
「なんだソレ?あいつの用事はソレなのか?俺はてっきり、いつものアレだと」
 ――"アレ"?――
 良い予感には思えなかったが、気になった。好奇心が恐怖に勝り、青白くなっていた顔が少しずつ赤味を帯びる。密かに離していた相手との距離を後退の1歩で少し縮めると、見つめていた先の目標から目線を外し、落とした煙草を踏み消した相手の顔に向けた。
「アレって……何ですか?」
「…………アレっていうかなんていうか、あいつのいつもの仕事は……」
 
 小梟山が口を閉ざした瞬間に、魅姫は体の血の気が一気に引いていくのを感じた。不安と恐怖が爆発仕掛ける中、見つめていた先に向かって視線を注ぐ。
 僅かな隙を付くようにして飛ぶように走った魅姫は、制止の声に逆って益々速度を上げていく。膨らんだ黒いロングスカートのワンピースはまるで夜空に羽ばたいたカラスの翼のように風に靡いて闇に溶けた。
「カラスちゃん!何処に行くんだ?!それにソッチは……、
 …………」
 姿の見えなくなった少女の行き先を見ていた小梟山は、響いてきた銃声に耳を傾ける。重く鈍い無機物の叫び声の連打に小さな溜息を吐くと、かき消された悲鳴を聞き取ったように、足下に落ちている買い物袋と食料を拾う。
 待ち望んだ救済を受ける生き残りをかき集めて手に掴むと、ランタンで周囲を見渡す。道の端に木とガラスで出来たレトロ調の公衆電話ボックスを見つけると、中に入って10円硬貨を取り出す。数枚入れてダイヤルを回し、通信音の後に程なく受話器から短い英語の挨拶が聞こえると、聞き慣れている若い男の声に用件を伝えた。
「俺だ、小梟山だ。今、カラスちゃん……あの女の子に会ってな、聞いていた通りの大変素晴らしいお胸、いや、そんな事は後で言おう。それよりもだな、あの子が血相変えて”堀”に走っていっちまったぞ、"堀"に!」
『Sure,(あいよ)1989.』
 ――That's very fortunate.――
+注意+
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