『海底墓標』
一瞬だけ空中を漂った私は、そのまま極寒の海へ放り出された。
背中で海面を打った私は、大きな水しぶきを上げ、海中へと沈んでいった。
大きくうねる波、金切り声のような風、痛いほどにうちつける雨が容赦なく私の乗る船を襲い、この世の物とは思えぬ阿鼻叫喚の光景が海上では繰り広げられていた。それに反して、海中は異様なほど静かであった。
海中に沈んでいく私にとって、海水の冷たさはまるで全身を刃物で刺されたかのような痛みだった。その苦痛ゆえ、私の体は硬直し、私は海上に浮上することはできなかった。
私は、海面の向こうに見える漁火にただ手をのばすことしかできなかった。
私は暗い海中を漂っていた。
いや、沈んでいたのだが落ちていく感覚はなく、ゆっくりと、しかし確実に沈んでいった。
このまま何処まで流されるのだろうか。
自分で体を動かすこともできない私はただそれだけを考え、深く深く沈んでいった。
私はゆるゆると沈んでいた。
トンと、背中に何かが触れた。
ゆっくりと私は浮上し始めた。
歌が聞こえた。
包み込むような、優しい旋律だった。
すると、私の背中を押し上げた何かが私の目の前に回り込んできた。
私は、はっと息をのんだ。
クジラだ。
大きな、ザトウクジラだ。
私の何倍もあろうかというその体躯は、今の私には何よりも頼もしい存在に思えた。
クジラは私に何かを訴えるような眼差しを向けていた。
クジラは歌いながら私に何かを語りかけているようだった。
しかし、私にはクジラが何と言っているのか理解できなかった。
クジラはただただ私に視線を送るだけで、私からは何も意思表示はできなかった。
クジラはどこか悲しい目をしていたが、すぅっと海上へ向かっていった。
浮力を持たぬ私は、ただただその後ろ姿を見ることしかできなかった。
私は深く深く沈んでいった。
私はゆるゆると沈んでいた。
光が届かぬ海中で、私は遠くで光るネオンサインを見つけた。
そのネオンサインはぴかぴかと点滅を繰り返しながら、こちらへ向かってきた。
いや、もしかしたら私のほうから近づいていたのかもしれない。
そのネオンサインの正体が何であるかがわかったときには、もう私の目と鼻の先に来ていた。
それは一匹のクラゲだった。
私はこんなにも美しい生き物を、しかもこんなにも間近で見るのは初めてだった。
先程はネオンサインに例えたクラゲだったが、実際はあんなけばけばしく落ち着きなく光るようなものではなく、まるでキャンドルのようなどこか暖かい光を放っていた。
私はその美しさにみとれ、しばし恍惚の状態にあった。
ゆらゆらと上下に漂いながら、クラゲは目の前を通り過ぎていくと、ゆっくりと私から遠ざかっていった。
暗い海中では唯一だった暖かい光を見送りながら、深く深く私は沈んでいった。
光を失った私は不思議なことに、ここへきて初めて孤独を感じた。
光を得たときに、私は希望も得た。
しかし、その光を失ったことによって、希望は失せ、絶望を得てしまったのだ。
私は泣いた。
涙を流して泣いた。
声を出して泣いた。
海の中では、涙はただの一滴の水にすぎず、声はただの水泡にしかならなかった。
ついに海底に到達した。
光はなかった。
これからどうなるのだろうか。
そんなことぐらいしか頭に浮かばなかった。
落ちるところまで落ちたのに、この先に何を期待するのか。
泥にまみれた私の体はもう半ば腐っていた。
私の体はその後もどんどん腐っていった。
腐るところが腐りきった私は骨だけの姿になった。
朽ち果てた私の心は、何故か穏やかであった。
地の底の底で、私は自らの安息をようやく得ることができたのであった。
処女作です。
意見、感想などがあれば遠慮なくお願いします。
※一部改訂(2011/10/30)