22:30
重く錆び付いた扉を開けると、夏特有の生温かい風が肌を撫でた。
見上げればそこには、満天の星空が広がっていた。
ここが、彼女と僕だけの部室――通称、屋上だ。
ガチャン、と大きな音を立てて、背後で扉が閉まる。
すると、隣からひゃっと声が上がった。
「……驚かさないでよ」
むっと突き刺すように視線を送ってくる。
僕はそれを無言で押し返し、すぐに作業に取り掛かる。
「ちょっと、無視しないでよー」
無視はしていない。ただ、
「時間、間に合わなくなるよ」
「えっ?」
彼女は僕のケータイを引ったくると、
「もうこんな時間!?」
と、本日二度目の驚きを見せた。
その間にも、僕はてきぱきと望遠鏡を組み立てる。
「……できた」
組み立てるのはもう手慣れたもので、一分と経たずに完成する。
「準備できたよー」
そう言って、振り返ると……
「うわっ!?」
床にレジャーシートが敷かれていた。
それだけじゃない。
クッションやら弁当やら、小物がたくさん並んでいる。
……彼女、確か、荷物を持ってなかったような。
それに、ここには物を隠せるようなところはないし……
「あ、ご苦労さまー」
「…これ、どこから出したの?」
「うん? えーと……ねー」
うーん、と唸り声を出したかと思うと、ふいに、にへらっと笑って、
「ひみつ」
なんて、言う。
それはもう、満面の笑みで。
……あぁ。
これには、敵わない。
彼女の必殺技、その2。
スマイル。
現在の記録、全勝無敗。
僕に対してのみの記録だけど。
「そっか」
「あれ、聞かないの?」
「……まぁ」
彼女も、僕が勝てないの知っててやったんだろうけど。
でも、必殺技使ってまで隠しておきたいことなら、追及したりしない。
それに、本当は大したことではないのかもしれない。
素直に、『近くの教室に隠していたのを持ってきた』と解釈した。
邪推するものでもない。
「君って、本当……」
「うん?」
「……なんでもないっ」
そう言うと彼女は、さっさと腰を下ろすと弁当箱を開けた。
「ほら、君も。ぼけっと突っ立ってないで」
ぼけっとなんかしてないけど。
催促されたので、僕は『いつも通り』に彼女の隣に座る。
「今日のは自信作なんだよー」
と差し出してきたのは、きれいな狐色に焼き上がった玉子焼き。
冷めているとは思えないような、食欲をそそる香りがする。
実に、『美味しそう』だ。
「……食べないの?」
いぶかしがる彼女。
僕が箸を伸ばせないでいるからだ。
女の子の手作り弁当を頂けるような機会、平凡な高校生の僕が無下にしていいようなものではないだろう。
けれど、一度考えてみてほしい。
綺麗な薔薇には、トゲがある。
……つまり、そういうことだ。
驚くべきことに、これは必殺技ではないらしい。
「じーーーー」
視線が僕に突き刺さる。
痛くて目を反らすしか、僕は対処法を持たない。
いぶかしむ視線が明らかな疑念の色に染まるのを肌で感じる。
受け流すことが叶うならばそうしたいが、残念ながら僕にはそんなスキルはない。
観念して、箸に手をつけようとする――が、伸ばした手は空をつかんだだけだった。
ふと、さっきとは違う視線を感じる。
目を上げると、そこには、箸を持ってイタズラな表情を浮かべた彼女がいた。
……まさか。
「自分で食べれないなら、私が食べさせてあげる」
そう言って、笑顔のまま口の端をニィと釣り上げる。
僕は、知らぬ間に大凶を引き当ててしまったようだ。
彼女はその手に握った二本の杭で卵をつまみ上げ、僕の口に近づける。
それを避けようとする僕の背中にフェンスが当たった。
じりじりと玉子焼きが近づいてくる。
「はい、あーーん」
これほど残酷な『あーーん』があるだろうか。
逃げ場はなくなり、玉子焼きとの距離は、わずか15センチ。
もうダメだ――そう悟ると、なんだかキリストが左の頬を差し出した理由がわかった気がした。
僕は心の中で両手をあげ、口をあける。
「あ、あーん……」
そして、玉子焼きは僕の口の中へ。
すると、玉子焼きは一個の爆弾と化し、体内から身を切り裂くような痛みを全身に弾けさせる――ことは、なかった。
二度、三度と咀嚼する。
魚介系のダシが卵とうまく調和し、見事なハーモニーを生み出している。
中に入っている刻みネギもいい具合にアクセントになり、クセを感じさせない。
これは……
「……おいしい」
「でしょ!」
彼女が、少しばかり発育の足りていない胸を誇らしげに張る。
信じられない。
かつて僕を輪廻の彼方へと連れ去ろうとした玉子焼きの形をしたナニカを作ったのが同一人物だとは。
得意満面の彼女は、次は何を食べさせようかなーといった感じに箸をさまよわせている。
――けど、これは……
「ねえ、次はどれ食べたい?」
「そうだな……」
色とりどりの弁当箱から、僕はひとつ、気になったものを選んだ。
「唐揚げ、もらっていい?」
「どうぞどうぞ♪」
またしても『あーーん』で食べさせられる。
……顔、近いって。
「おいしい?」
「……うん、おいしい」
口をもぐもぐさせながら答える。
やっぱり美味しい。
けど、どこか引っかかる。
……あ、そうか。
「ねぇ」
「? どうしたの? ……あ、私の弁当がおいしすぎて、惚れ直しちゃった?」
「いや、僕も弁当、持って来たんだ」
望遠鏡と一緒に持ってきたカバンをがさごと漁り、弁当箱を取り出す。
『否定しなくてもいいでしょ……』とか聞こえてきたけど、まぁ気にしない。
「出来合いの詰め合わせだけどね」
「わぁ……」
フタを開けてみせると、彼女はキラキラと目を輝かせた。
昼食用にと作ったチャーハンと、いくらかの野菜。それと……
「……あ」
気づいたか。
弁当箱の中には他に……唐揚げを入れていた。
ただの唐揚げではない。
誰でも簡単に、かつ美味しくつくれる、夢の食品。
――「冷凍食品の」唐揚げだ。
時間がなくて、急いで詰めたのだけど。
「……」
彼女、手が震えてる。
遭遇しちゃいけないものを見たような、隠してた秘密が親にバレた子供みたいに。
顔も青ざめ、口元があぅあぅいっている。
……やっぱり。
「食べないの?」
彼女の前に弁当箱を差し出す。
ついでに唐揚げを妻みとって、口に放ってみる。
「うん、おいしい」
わざとらしく言ってみる。
……うわ。
彼女、少し涙目になってる。
「あーー!」
「え?」
いきなり彼女は叫び、僕は持っていた弁当箱を引っ込めてしまう。
「ほら、もうそろそろ時間じゃない? 早く弁当食べちゃわないと!」
そう言って彼女は、自分の弁当を一気に平らげてしまった。
少し涙目で、口元をごもごもとしてる。
ハムスターみたい。
「……ほら、早く食べちゃってよ」
やっとのことで嚥下すると、彼女は恨みがましそうな目をして言った。
「そうだね」
僕も弁当の消化に取りかかる。
……もったいないことしちゃったなぁ、なんて、ちょっと後悔。
絶対に言わないけど。
時計の針は、夜の11時を差そうとしていた。