第5話 上海の岸辺から ~追憶~ 月は静かに見ている
第5話と第6話は、「黒い髪の人魚」のスピンオフの二作目です。
ヒデとチュンチュンが東京で悲しい別れを遂げてから5年。上海K大学の大学院生となったチュンチュンがマンションのベランダで東京のヒデ君を想うお話しです。切ないラブストーリーです。第6話は短いので、いっぺんにアップしますね。
- 上海の中心部、大学区にある名門、上海K大学から南に少し下った、黄浦江沿いのマンションの19階。チュンチュンが帰って来たところ -
今日は友達が女子会を開いてくれて、帰りがだいぶ遅くなってしまった。
でも、まだ、もうちょっとだけ飲みたいな。
私は、グラスに氷を詰め、ウィスキーを2フィンガー分注いで、少しのペリエで割った。そして、カーテンごしに光る三日月に、つい誘いざなわれて、ベランダに出る。
眼下には黄浦江が流れ、灯りを付けた小舟が行き来している。まるで蛍がチラチラ舞ってるみたい。綺麗。
季節は秋に入り、川沿いの涼しい風が頬を撫でて行く。
私は、グラスを落とさないように注意しながら、手すりに肘をのせ、遠い夜空を眺める。
東の空に、細い三日月が浮かんでいる。
東京はあっちだな。もしかして、あのお月様、ヒデ君も見てるのかな。そうだといいな。
氷をカラカラ鳴らして、一口飲む。琥珀色の液体が身体を通過していく。
私の中に、あの頃のイメージが浮かんでくる。
~ いつも待ち合わせた駅の改札。
手を繋いで歩いた高架下の公園。
大きらいだった終電。 ~
ヒデ君。私、今日、27になったんだよ。
ヒデ君、覚えててくれたかな?
私、もう、すっかりアラサーだよ。
******
私は、ヒデ君と同じ大学の法学部を出たあと、上海K大学の修士課程(2年間)に進学して、今は博士課程(4年間)の3年目。
指導してくれる国際比較法の女性教授がとてもいい先生で、私の事、なにくれと可愛がってくれている。「来年博士号を取ったら、助手試験を受けるといいわよ」って勧められてる。
でも、そうなったら、もうずっとこっちにいることになるよね。こっちで大学の先生になるんだよね。ヒデ君と会うこともできなくなるよね。
そう、きっと、もう、一生。
~ ヒデ君の古いアパート。
ギシギシうるさかった階段。
いつも一緒に行ったお風呂屋さん。 ~
上海に帰って来てから、ずっと忙しくしてて、慌ただしくて、毎日必死に過ごしてたから、そういうのにヒデ君を紛れさせて、なるべく考えないようにしてたの。
日本を発つときに、「もうお互い縛らない」って約束したから、私から連絡もあんまりしなかったし、それはヒデ君も同じで、このところは本当に半年も一年も連絡を取り合っていない。
だって、連絡なんかしたら、ヒデ君の気持を縛っちゃうでしょう? 私のわがままで、勝手言って帰ってきたんだし‥‥‥。
だから、私、本当は、「将来、私が日本に来られることになって、その時、お互いまだ一人だったら、一緒になろうね」って、言いたかったけど、そんな約束したら、ヒデ君をいつまでも私に縛り付けちゃうでしょう? また来られるか分からないんだし、そんなの無責任よね。
~ お日様とヒデ君の匂いがするお布団。
深夜に聞こえる時計の響き。
カーテンから差し込む淡い月の光 ~
やっぱり、こうして一人になると思い出しちゃうわよね。
でも、私の記憶の中のヒデ君は、今のヒデ君じゃない。5年もたってるんだもの。
誰にも公平に時は流れ続けるから、私のこの追憶は、もう現実とは違う、夢や空想みたいなものなの。分かってる。
ヒデ君、今、どうしてるのかな。まさか、まだ一人かしら?
‥‥‥ううん、それはないか。ヒデ君、優しくて、カッコよくて、大事な時に頼りになるから、絶対、女の子みんなに愛されるわよね。
そこは、私も全然心配していなかったの。すごく寂しかったけど、私がいなくなっても絶対大丈夫って。
ああ、悔しいな。うらやましいな。
私も、その子みたいに、ヒデ君に髪を優しく撫でられたい。私だって甘えたいよ。
~ 厚い胸に顔を埋めると、命の音がトクトク聞こえる。
ヒデ君が私に重なり、指を絡めあい、初めて抱かれた、あの夜。
そう、一夜で千夜を生きたような、あの夜。 ~
******
あの時、私が日本にとどまっていたら、今頃どうなっていたのかな。
ヒデ君、私ね、もしヒデ君が、「俺にはチュンチュンが必要だから帰らないでくれ」って言ってくれてたら、私、何を捨てても、未来を捨ててでも、ずっと一緒にいたんだよ。本当だよ。
でも、ヒデ君は、優しいから、優しすぎるから、いつも私のことを一番に考えて、自分のことは後回しにする人だったから、きっと、絶対、自分の心に嘘ついて、私の背中を押したと思うけど‥‥‥。
あの頃、ヒデ君は、私にとって、私なんかよりずっとずっと大事な、私の全てだったんだから。
ヒデ君のバカ。しっかり捕まえてくれればよかったのに……。
分かってる。そんなの贅沢なの。どっちも選ぶことができないから、最後は自分で振り切ってきたの。
そして、今、ヒデ君を失ったのと同じ位、大事なものを手に入れたことも分かってるの。
~ 手の切れるような上弦の三日月。
冷たいプールで交わした、深く熱い口づけ。
二人の身体が溶け合い、大事に持って帰ったヒデ君の欠片かけら。 ~
そう、同時にどちらも手にすることはできない。
だから、なるべく、自分で自分を誤魔化して、ヒデ君のこと思い出さないようにしてきたのに。そうやって、ずっと頑張って、心を押し殺して、もうヒデ君の顔もちょっとずつ薄れてきてるのに。
だけど、この気持ちだけは変わらないの。あの頃のままなの。
心の中に、どうやっても崩れない、風化しない、そのままの綺麗な形で、気持ちだけ残っているの。
ああ、だめだ。我慢してたのに。
少しずつ、涙が、忍び寄ってきた。
やっぱり自分にウソなんてつけない。
ヒデ君。私たち、三年間、惜しみなく、懸命に愛を注ぎ合って、私、ヒデ君のこと、もう一生分愛したって、そう言い聞かせてきたけど、やっぱりだめなの。
私、まだ、あなたを、心から愛してるの。今でも、とめどなく溢れてくるの。
‥‥‥ヒデ君‥‥‥私、会いたいよ……。
******
そうして、静かに涙を流す私を、東の空から、細い三日月が、じっと見つめてくる。
秋の涼しい風が、私の、らしくない短い髪を、そっと撫でていく。
まるで、ヒデ君が返事してくれてるみたいに。
私の髪に、あの綺麗な指を通してるみたいに。