はるちゃんと電話
木々の落ち葉が散りきって、風が明らかにひゅうひゅう冷たく鳴って、木々の葉を散らし、地面に落ちた葉をくるくる舞わせると、誰でも夜が随分長くなったことに気付く。
そんな長い夜が始まる頃、はるなは玄関の電話の前に座り込んで、知りうる限りの知人の名前を思い出していた。
「おばあちゃんちは?」
「昨日かけたばかりでしょ。」
「じゃあ、ケンちゃんち。」
「夕方の忙しいときに迷惑よ。」
「こずえちゃんちは?」
「お隣でしょ、電話より、遊びに行けばいいの。」
「じゃあね、あけみちゃんちは?」
台所では、ちょっと沈黙があって、はるなに期待を持たせた。でも、ママが玄関に顔を出して、冷たくためいきをついた。
「パパも余計な事を教えたものね。電話するたびにお金を払わなくちゃいけないの。はるな、わかってるの?」
はるなは、また電話とにらめっこして、もっと説得力のある名前を考えた。今、はるなの目の前にあるのは、遠く離れた人々と、お話が出来る魔法の道具だ。はるなは、パパにせがんで、やっと魔法の呪文を教えてもらったのだった。彼女は覚えたての魔法が使いたくてたまらないのだ。整然と並んだ数字のボタン。彼女は本能的にそのボタンの無限の可能性を考えた。
(私があれを押しさえすれば、ずっと向こうのおばあちゃんとお話ができるのよ、そうよ宇宙人とだってお話できるかもしれないわ。)
玄関のドアの向こうで足音が聞こえた。聞き慣れた足音、パパの足音だ。
「ただいま。」
でも、はるなは敢えて無視した。それは無言の要求。パパはバツが悪そうに靴を抜いで言った。
「はるな、まだ座ってたのか。」
そして、声を聞きつけて出てきたママに上着を渡した。ママは、はるなを一瞥すると、パパの手を取って台所へ連れ込んだ。はるなは玄関に残って受話器の重みを両手で楽しみながら、台所の声に耳をすました。
「あなたも余計なことを教えたものね。」
「いいじゃないか、電話くらい。」
はるなはコードに指を絡ませた。
「電話代だって馬鹿にならないのよ。」
はるなはピカピカ光った受話器の背に、不満そうに突き出した唇を映した。
「かけさせてやらないと動かないよ、あの子は。」
はるなは、うなずきながら数字を指でなでた。台所では沈黙があって、最後に、ママの声がした。
「はるな、おばあちゃんちの番号は知ってるの。」
「ううん。」
はるなは、そう返事をして、嬉しそうに受話器を抱き抱えた。
「いい?ママの言う通りに押すのよ。」
「あれっ?」
はるなは首を傾げた。この前みたいに、パパが1つ1つ数字を指さしてくれるわけではないのだ。はるなは、まだ5つで数字なんか知らないモン。
「ぜろ、なな、にい、」
台所からは、ママの指示が届き始めた。はるなは、ちょっと考えてから、まん中のを「ぜ」に決めた。その上が「ろ」、それから形が気に入ったのを「な」に決めて2回押した。どの数字を、どんな順序で押したのか、はるなは、ちっとも覚えていない。無限の組合せと、無限の相手、、、、。
パパとママは、差向いにテーブルについて、二人だけのくつろいだ雰囲気の中で、お互いの世俗的な苦労を無言の内に慰めあった。パパもママも苦労が多いんだ。
ママはエプロンを取って、パパが差し出すコップにビールを注いだ。パパはママのコップにビールを注ぎ返した。
(はるなも、ママも、パパも、家族がみんないつまでも健康で仲良く過ごせますように)
(パパの給料がもう少し上がって、お金のことを気にしないで生活できますように)
いろんな願いを込めて、パパとママは、ちんっと音をさせてコップをふれ合わせて、ビールをぐいと飲んだ。空になったコップの中に、はるなの電話の声が響く。
「もしもし、、、あれっ、、、。ううん、ちがう、あたし、おばあちゃんちへかけたの。」
パパとママは、はるなが電話をかけ間違えた事を知った。
ママは思った。
(まあいいわ、そのうち、相手が切るでしょう。)
向かい合ったパパとママは、いま、二人の若い日、そう、何の苦労も知らなかった出会いの頃の思い出に浸っているところだ。愛し合ってさえいれば、何の困難もないという楽観主義に包まれていた頃に戻ったところだ。ママはテーブル越しに、ちょっと恥ずかしそうにパパに顔を寄せて聶いた。
「ヒロシさん、、、」
これはまだ二人が恋人だった頃の呼び方だ。パパも僅かに微笑んで応じた。
「ミスズ、、、、」
でも、玄関から聞こえる娘の声が二人の間を引き割く。
「あたし?、あたしは、はるな。」
少し酔いが回ったパパとママにに、はるなの笑い声がとどいた。
(子供好きの人なのね。)
と、ママは電話の相手のことを思った。それから、2本めのビールの栓を抜いて、パパのコップにビールを注いで、家計のことを考えた。
(今日は、この1本で終わりよ。)
「でも、おじさんの目は可愛いのね。」
と、娘の声が現実味を帯びて玄関から届いた。
「ロロみたい。ロロっていうのはね、ケンちゃんの飼ってるネズミなの。」
パパとママは、煩悩を振り払うように首を振って、思い出に帰ろうと見つめ合った。
「初めてのデートの事、覚えてる?」
と、パパはママに聞いた。ママは微笑んで諾いた。
昔、パパとママは同じ会社にいた。ママはパパより1年先輩だった。ある時、パパが仕事でちょっと失敗して、上司に怒られてがっかりしていた。先輩のママから見ると、そんなパパがちょっと可哀相に見えたので、お酒に誘って、そこで励ましてあげた。それが二人の初めてのデートだった。パパから見ると、優しく思いやりがあって、ちょっと可愛い女性だった。ママから見ると、頼りないように見えるのだれれど、どこか男っぽさを感じさる仕草があって目が離せない男性だった。やがて、あの時にパパを叱った上司の人が仲人になってくれて、二人は結婚した。職場の仲間に冷やかされたり、友達にうらやましがられたりする幸せな結婚だった。やがて、はるなが生まれて、少し大きな家に引っ越した。今は、パパが稼ぐ26万円の月給で、ママが堅実に家賃や生活費をやりくりしながら、はるなとパパとママは生活をしている。
はるなは、5歳になったばかりで知らないけれど、パパとママはこの社会の中で、そんな二人だけの小さな歴史の重みを持っていた。でも、互いに寄せる顔と顔を、はるなの笑い声が引き裂いた。
「だぁって、おかしいわ。そんなにおっきな体で、ネズミが恐いの。」
ママは、ため息をついて立ち上がった。
(そうよ、もう、昔の夢なのよ。)
そして、引き留めようとするパパの手を振りほどいて言った。
「早く電話を止めさせなくちゃ。家計のやりくりも大変なのよ。」
ママは、はるなを背後から襲って、はるなの手から受話器を奪い取った。そして、、、そのまま凍り付いた。
「えっ、そんな。」
「ねっ、ねっ。ウーウさんって言うのよ。」
はるなはママのスカートを引っ張って、飛び跳ねるほど嬉しそうに、新しい友人を紹介した。
「始めまして、奥さん。私、ノモケマナ村のウーウと申します。」
一頭の純朴そうなジャイアントパンダが、電話の向こうでそう言った。長い電話線から受話器を通して、ママの目の前に純朴そうなパンダのイメージが浮かんだのだった。パンダは擦り切れかけたジーンズから、溢れそうに白い毛並の腹を突き出していて、黒くて太い手で、少々、照れくさそうに麦わら帽子を揉んでいる。たぶん、彼はこれから朝の仕事に出かける所だったのだ。ママには娘がどんな電話の掛け方をしたのかは判らなかったが、ただ一つ、この電話の先がチベットの山奥よりもずっと遠い所に違いないことは判った。
「で、電話代が、」
ウーウは挨拶が伝わらなかったものと考えて、のんびりした口調で繰り返した。
「奥さん、お目にかかれて光栄です。」
はるなは嬉しそうにママの回りを跳ねまわっている。ママは半ばうなだれて訴えた。
「あのう、この電話、コレクトコールにはなりませんわね。」
ママはウーウさんに変な返事をすることしかできなかった。大人になった僕には、このお母さんの心配が良く分かる。でも、はるなちゃんとウーウさんにも楽しくお話しして欲しいとも思う。僕は大人だからこそ、どちらに味方をして良いのか分からない。無責任を承知で、誰かにその判断を押しつける。
ちょっと、想像してみて?
今夜、夕食の後で、あなたのお父さんやお母さん、家族みんなでくつろいでいる。電話が鳴って、たまたま、電話の近くにいたあなたが受話器を取った。その瞬間に、あなたの目の前いっぱいに、鯨の顔のイメージが広がって、その鯨が優しそうな目で君に挨拶をするんだ。
「こんばんわ。初めまして、私は北極海のティアロです。」
さあ、どうする?