② うそつき
夏木はびしょ濡れになってマンションに帰って来た。
「まあ! お兄さんどうしたのよ? そんなに濡れて」
「ちょっとね。メシの前に風呂に入ってくる」
風呂から上がって母さんと妹が座る食卓に着いたが、あえて不思議な黒い物体のことは話さなかった。聞かれても説明しようがないし、それより転勤の話が先だ。
「えっ? 転勤ですって」 母さんと妹が同時に驚きの声をだした。
「ああ。島根県だ。江津市と言うところだけど。知ってる?」
「ごうつ・・。知らないわ。母さん、知ってる?」
「ごうつ・・。知らないわね。島根県には昔行ったことはあるんだけど、そのときは出雲大社に行っただけね。それにしても、島根県って遠いところに行っちゃうのね」
「遠いところって、あの世に行っちゃうわけじゃないから変な言い方しないでくれよ」
「そうね、国内ですもんね。ほっほ・・」
「何かあればすぐ帰って来るから心配しなくていいよ」← これがあまかった。
「またこっちの病院に戻れるかどうか分からないけど男手がいなくなっちゃうんだから、由美子、あとしっかり頼むよ」
「そうね。でも、大丈夫よ。このマンションのセキュリティーは厳重だから。 それに、ベーカリーには男性が2人いるから力仕事の時はその人たちにお願いするわ。お兄さんこそ初めての地で体をこわさないでね。医者の不養生になっちゃだめよ」
「ああ、大丈夫だ。由美子、母さんは体弱いんだから母さんをくれぐれも頼むよ」
「ええ、心配しないで」
食事もおわって自分の部屋に戻った夏木はあの黒い物体をハサミで切ろうとした。が、まったく刃が立たない。
「なんのこっちゃ?」 普段使わない言葉で驚きを表わした。
そのあと、キリを刺そうとしたがこれまたどうしても刺さらない。何をやってもだめだった。
「う~ん・・、それにしても不思議な物だな」ますます興味は募ってきたが、
「あきらめた。こんなことしてる場合じゃない。引っ越しの準備をしなければ」
と言っても大したものを持って行くわけじゃない。下着などはあっちで買えばいいし、食事は病院内に食堂があるだろうし、夜は外食か、つまみがてらの総菜を買うくらいだ。
次の朝、目が覚めると雨はすっかり上がって青空が広がっていた。夏木の朝食はいつも簡単だ。パンかサンドイッチ、それにカットリンゴは欠かさない。リンゴ1個医者いらずと言われてるけど商売敵を食べてるってわけだ。
服を着替えながら、ふと机に目をやるとあの不思議な物体の上にリンゴが一個ポツンとある。リンゴはいつもキッチンに置いてあるのに。
「あれ? 何でこんなところにリンゴが・・? いつ買ったんだろう? 記憶にないな。母さんか由美子が置いてってくれたのかな? まあいいか」
夏木はそのリンゴを一口かじって驚いた。
「な、なんて美味さだ! 信じられん。」 あまりの美味さに驚きながらも一気にがつがつと食べきってしまった。
「いやあ~!美味かった! 母さんか妹か知らんけどどこで買ってきたんだろう? また買って来てもらおう。沢山買って来てもらおう。何個でも食べれそうだ」
キッチンに行くと、いつものように由美子はすでに出勤していて母親だけが一人でお茶を飲んでいた。
「母さん、おはよう。あのリンゴ母さんが置いてってくれたの? すごく美味しかったよ。また買ってきてよ」
「え? 何? リンゴ、知らないわよ」
「ふ~ん。じゃあ由美子かな? ま、いいや。それじゃ行ってくるね」 と言ってマンションを出た。
真っ青な空の下、堤防の上の歩道を歩くのは気持ちいい。黒い物体があった場所に目をやると、もちろん何も無い、
「やっぱりこの方が土手もすっきりしていいや」
前方に宇都宮太平洋病院がみえる。
「この病院とも今日でお別れか・・。またいつの日かお呼び出しがかかるかもしれんが・・。ま、今んとこ余計なことを考えず江津に行くことに専念しよう。長い間お世話になった病院の皆にお別れの挨拶をしなくちゃな。もちろん患者さんにも。うん? 患者さんにお世話になったってのは、変かな」
などと思いながら病院に着いた。 今日は外来の患者は診なくてよいと言われてるので入院患者だけを診ることにした。
一番気になるのは、やはり松島さんだ。病室に入ると、まずいことに?謙治君がいた。
「おはようがざいます」 と挨拶をした後、謙治君に声をかけようとしたがいい言葉がでない。
「謙治君おはよう」 とだけ言ってすぐ松島さんの手を取って脈を診た。手首が異常に冷たい。
(う~ん・・。弱弱しい) いつ呼吸が止まってもおかしくない状態だ。
松島さんは眼を細く開け夏木の顔を見ている。声を出す気力もないようだ。
謙治君が夏木の白衣の袖を引っ張って、
小さな声で「お父さん・・助かるんでしょう・・」 また前と同じことを聞いた。
夏木は難しい顔をしたまま無言でいるしかない。 でも、夏木は思った(謙治君も分かっているのだ、お父さんがもうだめだということを)
「謙治、こっちに来なさい。先生はね他にも沢山の患者さんを診なくちゃならないのよ」 と、お母さんが助け船を出してくれた。
夏木は転勤のことを告げた。
「実は、私、今日づけでこの病院を去ることになりました。松島さんのことが気がかりですが、後任の担当医がしっかりみてくれると思いますので心配しな・・」 語尾がかすれてしまった。 心配しないでと言おうとしたが、今にも死にそうな患者に心配しないでも何もないもんだ。
「まあ、他の病院に行かれるんですか?
「ええ、島根県にある分院です」
「そうですか・・。先生には本当に良くしていただいてありがとうござ・・」 これまた語尾が出ずハンカチで目を覆ってしまった。
「後任の担当医は橋田といいます」 とだけ言って病室をでた。 その時後ろで ”うそつき” と言う謙治君の声が聞こえた。 夏木は不覚にも涙がでた。
病室には不幸な三人家族が残った。沈鬱な空気がただよう。
その時、今にも死にそうな松島がパチっと目を開けて、なんと上半身を起こそうとしている。
奥さんはびっくりして、「あ、あなた何をしているの!横になってないとだめじゃないの!」
「お父さん・・」謙治君も驚いてる。
上半身を起こしきった松島は、
「なんだかのどがすごく乾いた。水をくれ」
「え? 水って?水飲めるの?大丈夫なの?」
ず~っと誤嚥を防ぐためにチューブで栄養分を胃に流し込んでいたのに急に水って、
「あなた、大丈夫なの? お医者さんに聞かなくちゃ! 勝手に飲んじゃ駄目よ。さ、早く横になって」
奥さんは不思議に思った。 さっきまで水を飲むどころか言葉もしゃべれなかったのに。それが今、上半身を起こし普通にしゃべっている。
「お父さん、水あげる」 謙治が水差しとコップを持った。
「だめよ!謙治。お医者さんに聞かなくちゃ。 ナースステーションに電話してみるからね。それまで待って」
電話をするとすぐに医者と看護師が来た。医者は新しく担当医になった橋田だ。
「どうされました?」 橋田は松島さんをみると、あれ?おかしいなと思った。(夏木からの引き継ぎだと今にもこと切れるような話だったが・・) それが上半身を起こし水が欲しいと言っている。
「私、新しい担当医の橋田です。松島さん、だめですよ横になってなくちゃ」
「先生、無性に水が飲みたいんだ。のどが渇いてしょうがない。飲んでいいでしょう」
「う~ん、そうですか」 橋田は中治りかな? いやそんなはずはない。死の直前の願望なのだろうと思って、「いいでしょう」と言ってしまった。
鼻から栄養補給用のチューブを抜き、そして、コップに水をついで渡してやった。
「ゆっくり飲むんですよ」
その言葉にはおかまいなしに、それを、のどをごくごく鳴らしなが、まるでビールを飲むように一気に飲み干してしまった。お代わりまでした。
「う~ん!美味かった! 美佐子、ずっとそばにいてくれたのか。ありがとう。謙治、ちゃんと学校に行ってるか?」
「あなた、あまりしゃべらない方がいいわ。さあ横になって」
「うん、そうだな。眠くなってきた」
急に元気そうになったように見えた松島を見て橋田は、
(燃え尽きるローソクの最後の輝きかな?)そうとしか思えなかった。
妻の美佐子も橋田と同じことを思っていた。
「あなた、最後の気力を絞って私と謙治にお別れを言ってくれたのね・・」 灯滅せんとして光を増す。 また涙が出てくる。しかし、謙治だけはお父さんの病気は治ると信じている。
橋田が看護師の女性にバイタルサインを診るように言った。横になった松島の血圧、体温、脈数、呼吸の数値を測って、それを橋田に渡した。
それを見て、「なんだ、これは? 少しではあるが改善してるぞ」
その頃、夏木は懇意な医者達やナースステーションにいる看護師たちにお別れの挨拶をすまして、最後に院長室に向かった。
コンコン、「夏木です」
「お~! 入りたまえ」
夏木は院長室にはいった。
「院長、明日出発します。長い間お世話になりました」
「明日行くかね。そうかそうか。行ったらあちらの院長によろしく言っといてくれ」
「あちらの院長の名前は何でしたっけ?」
「盆子原と言う」
「ぼんこばら・・。変わった名前ですね」
「島根県独特の苗字らしい」
「そうなんですか・・」
その後いろいろ他愛のない話をして夏木は宇都宮太平洋病院を去った。
夏木が病院を出た後妙な噂が立った。
「夏木が行った島根県江津の太平洋病院相当ひどい所らしいぞ」「患者がぜんぜん来なくて大赤字らしい」「近いうちに廃院になるらしいって聞いたぞ」「そこにいる医者やそれ以外のスタッフも全員解雇らしい」「じゃ、夏木さんはどうなるのよ?」「もちろんお払い箱さ」「とくにここの宇都宮太平洋病院にほしい人材でもなかったってことさ」
それから1時間後、橋田が院長の所にやって来た。院長はお茶を飲んでいた。
「院長、ちょっと変なことが。あの松島さんですが」
「松島さんがどうした? お亡くなりになったのか?」
「いいえ、様態が改善してるんです」
院長はお茶を噴き出して、「おいおい冗談だろ。夏木の診断では今すぐ亡くなってもおかしくないってことだぞ」
「ええ、私もそのつもりで引継ぎました。これを見てください。これが夏木がとったバイタルサイン、そしてこっちが、私が2時間ほど前にとった数値です。そしてこれが1時間前にとったやつです。徐々に良くなってきてます」
バイタルサインを院長に見せた。
「どれどれ。ふ~む。これは・・どうしたことだ? 劇的に改善してるじゃないか。信じられん」
院長はしばらくそれを見て、
「なるほど。夏木から君に代わったとたん患者の様態がよくなった・・ってことは。君は名医だと言うことだ。逆に夏木は凡医。いや凡医どころか大ヤブだ。患者を殺すとこだったんだぞ。危ない危ない。君に代わって本当によかった。(夏木を島根に追いやったのは正しい判断だった)」
橋田はきょとんとしながら、
「でも・・、私は何もしてませんが。バイタルを診ただけですけど・・」
「病気は医学だけでは測れんとこがある。医者と患者の相性もある。パソコンばかり見て碌に患者の顔を見ない医者もいる。医は仁術というだろう。君は松島さんと相性が合ったんだ。」
「そ、そうでしょうか・・? 相性で末期膵臓癌が治るもんでしょうか? その癌も全身に転移してたのに・・」
橋田は、院長の話は、話としてはおもしろい。言ってることも正しいとは思う。それに、担当医が夏木から自分に代わったとたん、松島さんの様態が改善したのは事実なのだ。
「不思議だ」首をかしげながら院長室を後にした。
昼過ぎに自宅マンションに帰った夏木はすぐに引っ越しの最終チェックに取り掛かった。
「手伝うことないかい?」 母親が声をかけてきた。
「無いよ。もうほとんど終わってるから。母さん、あんまり動いちゃだめだよ。休んでなよ」
「そうかい。じゃあ、居間にいるから用があったら声かけてね」
「ああ」
バッグに医学書を2~3冊つめた後、例の不思議な黒い物体を手にとって、
「う~ん、気になるから持って行くしかないな」 それをバッグに入れた。
「バッグ1つの気楽な引っ越しだ。はっは」
「さてと、島根にどうやって行くかだな? 前から気になってたんだが、サンライズ出雲という夜行列車に乗ってみたい。夜行列車なんて乗ったことがないからぜひ乗ってみたい。でも、人気があって切符を取りずらいって聞いたが・・」
夏木は予約サイトを見てがっかりした。向こう1っか月すべて売り切れだった。
「残念だ。じゃあ飛行機で行くか。と言っても栃木に飛行場は無いし、一番近い飛行場は、え~と・・。隣県の茨木空港か」
夏木はパソコンで調べてみると、
「何だ? 西には神戸と福岡、それに沖縄しか行かないのか。だめだなこりゃ。神戸から島根なんて、そこからまだ300キロくらいあるぞ。じゃあ、次に近い空港は成田だな。」
調べってみると、
「宇都宮からバスが出てるけど、え~と・・。なに! 成田空港まで3時間もかかるのか! これはきつい。友人に車で送ってもらうにしても、そんなに遠いんじゃ気の毒だし。う~ん、だめか。 あと羽田だけど、もっと遠くなるからこれもだめだ」
次に新幹線の時刻表を調べ始めた。
「え~と・・。 京都から山陰本線が出てるな」
見てみると、「なんだこりゃ? 全ての列車が京都府内の園部駅までで、そこから乗り換えじゃないか。冗談じゃないぞ日が暮れてしまう」
さらに調べると、大阪から福知山線が出てる。
「え~と、特急はまかぜか・・。 なんだ、これも鳥取止まりだと。だめだ!」
さらに、岡山から伯備線が出てるのを見つけた。
「岡山から島根県は近いからこの伯備線ならいい列車があるだろう。特急まつかぜ・・。 なんだ出雲止まりだと。乗り継ぎは鈍行で1時間30分待ち。冗談じゃないぞ。1時間30分も駅にポツンといられるか。出雲から江津までまだ70キロくらいあるじゃないか。これもだめかあ。山陰本線って不便すぎる」
そして、最終的に残った候補は広島駅だ。
「広島と島根は隣県だから、行く方法の1つや2つはあるだろう」
調べると、
「うん?まさか。広島と江津を結ぶ線路がないじゃないか。三江線というのがあったらしいが廃線になったのか。え~と、あっ、高速バスが広島駅からあるな。浜田自動車で浜田行き。これでいいかな。所要時間はと・・。1時間50分。料金はと・・、3300円。えらい安いな。ちょっと待てよ、浜田に着いたとして浜田から江津までは・・。20キロメートルか。 これはタクシーを使おう」
因みに20キロメートルだとタクシー料金は全国的に6~7千円くらいである。
「よし!これで決まりだ!」
夏木の決めたコースは、宇都宮駅→東京駅→広島駅→(高速バス)浜田→(タクシー)江津。
夕方、3人揃っての晩御飯だ。すき焼き、寿司、ケンタッキーフライドチキンなど、夏木の好きなものが食卓に並んだ。
「母さん、ご馳走有り難いんだけど、こんなに食べきれないよ」
「いいわよ、のこせば」
「ああ、悪いけどそうするよ。そうだ。由美子、リンゴありがとうよ。すごく美味しかった。どこで買ったんだ?」
「え?何のこと? 私リンゴなんか買ってないけど」
「お前買ってないのか。変だな?俺の部屋にリンゴがあったもんだから、てっきりお前が買ったんだと・・?」
「自分で買ったのを忘れてたんじゃないの。やーよボケちゃ」
「う~ん。そうなのかな・・? いや、そんなはずは・・」
「いいから、早く食べなさいよ」母親がせかした。
夏木は首をかしげながら食べ始めた。
つづく




