第三夜
夜中にこんな夢を見た。
私は自分の首に包丁を突き立てた…
……包丁は鞄の衣を纏うと食材を切るという日常の可能性を喪失し、たちまち殺意の形相を露にした。鞄そのものに殺意をあぶり出す魔力が込められているわけではない。その証拠に鞄の衣を纏った財布は相変わらず日常の形相を保つ。それは財布と鞄の遭遇が一般的なものだからだ。包丁に内包されている殺意の可能性が立ち現れるのは鞄という非日常の環境との遭遇にある。ならば、フォークや植物性のオイルと言った一切合切に殺意の可能性が潜んでいる可能性を意味するのだろうか。私はその可能性をくまなく探ってきたから選択肢はいくらでも考えつくつもりだった。しかし実行の段階に移すとなると殺意の可能性も頭の中の劇場でしか発揮されない可能性であり、確実性と現実の前では私の積み上げた知識や妄想など空虚なものでしかなかったことが判明した。
結局私の趣向との妥協点は包丁という選択肢に落ち着いたのである。一世一代の計画で妥協するとは可笑しい気もしたが、世間一般で言われる快楽殺人者程度の狂気凶器を持ち合わせていないような私には当然の選択のようにも思えた。それに私の求めているのは過程というより結果である。そう、私は死体を欲していた。
包丁を持つ手が震える。人は人類の歴史の中で誰一人として逃れることができないのが全くの真理ある。しかし、死に追いやることはこの頼りない一枚の金属があれば充分とは恐ろしいもので、とすればこの金属一枚は料理道具から周囲の環境を身にまといて絶対の存在として鎮座している死に彼女を旅立たせるチケットに変化し、それに私にとってそれはあまりに重すぎるのである。手の甲に垂れる露や細長い葉の先端が異様にこそばゆい。林の中で落とし物をした。そんな言葉を真に受けて彼女はこんなところまでついてきた。証拠が残ることを恐れて露店で買ったサイズの小さいスニーカーは植物地獄のぬかるみに取り憑かれてしまった。
三ヶ月ぐらい前のことである。私が学校から家に帰る途中の夜道で一人の女子高生を見かけた。顔は暗くてよく見えなかったが街灯に照らされた直線的な黒い髪と脂の分泌量の少なそうな鼻から頬にかけての肌は彼女の端正な顔立ちを予想するには十分な情報であった。翌日、記憶を頼りに校内を探してみれば、あっさりと見つかった。同じ学年に在籍している女子生徒だった。私は酷く彼女の死体は欲しくなった。あえて比喩で表現するならば彼女は行燈の光である。
底なしの美しさはその眩しさ故に周囲の闇を抹殺してしまう。それはエジソンの白熱灯だ。それはそれで魅力的といえばその通りなのだが、白熱灯はその寿命を迎える時、不快な鈍い破裂音と激しい点滅を繰り返した末にようやく消える。挙句にその役目を終えた後でさえ残された熱量がしつこく抵抗を続け、精神は肉体に固執し続ける。対して行燈の場合は周囲の闇の圧力によってその魅力が内部に閉じ込められる。その光が外に漏れだすことはないが、魅力は高い密度でその中に潜んでいる。そして寿命には静かに光を失う。未練がないというわけではないが、それは腹から滑り落ちる腸を必死でかき集めようとする未練ではなく、徐々に薄れていく一瞬の意識の下であったはずの未来に思いを馳せ涙する未練である。
つまり生を見つめながら死を受け入れる死体だ。
彼女はきっとそんな死体になってくれるはずだと思った。目を薄く開いて半開きの口から前歯をほんのりと覗かせ、ひとつじの涎を流す姿。四肢は無秩序な方向に放り出され、服に塗られた土や草を払い落とそうともしない姿である。それはまさに生としての存在を諦めた肉体であり、生としての肉体の所有権を無抵抗に私に委託しているに違いない。しかし死んでいれば何でもいいというわけではない。例えば目が開いている方がいい閉じている目ではいけない。閉じている目は睡眠の強烈な可能性により睡眠の重力により、死の可能性から離れてしまう。睡眠との関係が強ければ、それは起き上がる可能性を示唆する、故に彼女は抵抗の可能性を秘めていることになる。私が欲するのは絶対的な無抵抗である。絶対的な死である。開かれた目は生を象徴するようで実はそうでない。本来横になるべきでない場所に横たわっているという事実が開かれた目に含まれる死の可能性を表層化させるからだ。
私が死体を欲するようになったのはあの告白に起因する所が大きいだろう。中学生の頃、教室の隅で読書をする長髪の女子生徒の下駄箱に手紙を放り込み、放課後の教室に呼び出し告白をした。投げやりでもそれが私の全力の感情だった。しかし私の全力の感情は全力の感情を以って拒絶された。私は友達で居よう。と言った彼女の目を見逃さなかった。あれは毒蛇とキスさせられる時の恐怖に襲われた目だ。蛭の蠢く風呂に入れられた時の生理的な目だ。理性的な理由で拒絶されたならまだ良かった。こいつと付き合うと友達にバカにされるというのなら原因の所在は彼女の人間関係であり私ではない、しかしそうではない、彼女は動物的な反応で私を拒絶した。不可視のナイフで心臓を刺されたようだった。
私は誰もがナイフを心の底に隠し持っているという単純なことを忘れていた。自分自身がナイフを持ち歩いておきながら、他人がナイフを持ち歩かないわけがない。みんなが他人の恐れながらナイフを持ち歩くというのが道理だ。ならばどうしたら彼女はナイフを捨ててくれるのだろうか。ナイフをみんなが一斉に捨てるか? それとも一人の存在にナイフを献上するか?
それは無理な話だろう。
ならばナイフを既に捨てた人を欲すれば良い。誰だ、誰だ、誰だ。答えはひとつ死んだ人間だけだ。
目の前の彼女は草むらを漁り、背中を向けている。それは、私が三ヶ月の時間をかけて勝ち取った信頼だった。話せば話すほど、私は酷く彼女の死体が欲しくなった。スクールバックから黒いプラスチックの柄の包丁を取り出した。
「見つからないねー」
「うん、でも…別の探し物は見つかった」
別のってなに? 振り向きそう言おうとした彼女の口は開いたまま凍結した。目は大きく見開かれ、その美しい黒い瞳には銀色にギラめく刃物を振り上げた殺人鬼が映っていた。
「やめて」「痛いよ」「来ないで」「許して」彼女の声が頭の中で乱反射した。
うるさいうるさいうるさいうるさい。
「これ以上、僕に抵抗しないで、もう拒絶されるのは嫌なんだ。拒絶されるのは!」
肩で息をして、眼下を覗く。赤い水たまりの上に彼女は浮いていた。
「違う…」
君の死は行燈のように美しいはずなのに、なんでこんなにも私は喜べない
「違う…ちがうちがうちがうちがう」私は倒れた彼女を抱き寄せた。誰かの涙が頬を伝って、彼女の頬に落ちた。
ああ、判った。なんで今まで気づかなかったんだろう、私を拒絶する者は誰であっても殺さないと駄目なんだ。
誰であっても…
私は自分の首に包丁を突き立てた。




