第二夜
宵にこんな夢を見た。
夏の学校に居る。丁度、夏休みの頃だろうか、蝉時雨が響いていた。日本の夏なんて、ただ蒸し暑くて良い所なんてないのに、想像や空想に感化されて悔しいけど何かあるような気がする。
既にロープはなく、仕切りが無くなった長方形の箱からは、その中に満たされていた塩素の残り香が仄かに鼻孔に刺さる。空になったプールの底には、緑色の小さなカエルや茶色の虫が何匹もいて、初めは一匹ずつ捕まえて逃がしていたが、途中で億劫になりちり取りで集めたり、ホースの口を潰して押し流した。プール用のモップをガシガシと滑らせる度に、足の裏からプールの底やプールサイドへ熱が奪われるように、なけなしの命と活力を吸いとられていく。意識だけが体躯から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、掃除を終えた。丁度昼下がりの頃だ。
「今年の夏もダメだったなー」
俺が空になったプールに足を浸していると、横に座っていた同級生の創が間延びした声でそう言った。俺は咥えていたソーダ味のアイスを噛み砕いて、夢見すぎなんだよ。と答えた。どうやら、また彼女を作るのに失敗したようだ。
「そうそう、僕らには縁遠い話だよね。」
「まぁ、夏休みに補習してる時点でさぁ。」
プール掃除用のモップをじゃんけんで負けて片付けた修也と幸助からのヤジに近い援護射撃が、創を撃ち抜いた。プールサイドに創は大の字に倒れる。しかし、その表情はどこか朗らかだ。
「うるせぇ、お前らだって大差ないだろ! 二次オタ、コミ症、根暗」
倒れたままの創の言葉に三人とも苦い顔をする。思わぬ反撃に二人はあっけなく撃沈したようだが、やっぱりどこか楽しそうな表情だ。巻き添えになった俺も苦笑いを浮かべるが、この何気ないやり取りに、心が躍った。そのまま、俺も創のように背中をプールサイドにつけて、高く青い空と白い雲をぼんやりと眺めた。
「夏か」誰にも聞こえないようにそう呟いた。
夏になると入道雲と共に、青春モノのイラストや本が湧きだしてくる。俺たちの記憶の引き出しに該当物はない。そんな嫌な共通点で生まれた友情で俺たちはつながって居た。おそらく四人とも手持ち無沙汰で、時間を潰せる場所を求めて、学校に来ただけで、結果暇ならプール掃除でもしろと、先生にアイスで買収されただけだ。同じようにここに居ても、彼らと俺はまったくの別物といっていい。俺たちは共感こそすれ、決して似ていない、だからこそ、お互いの言葉に一喜一憂して、打てば響くような会話は新鮮で心地良かった。修也たち二人もプールに足を浸し、コンビニ袋の溶けかけたアイスを食べ始めた。
創達三人の奥にあるグラウンドで部活動に打ち込む同級生や先輩の姿がフェンス越しに見える。青春のまっただ中にいる彼らは、失敗も素敵な思い出に変えて見せる。いざこざももめ事も悩める青春のひと時と化して見せる。彼らの青春のフィルターを通してみれば世界は変わるのだ。‥‥なら、架空の空を食べすぎて、綺麗なものを求めすぎて、本物の夏に心をえぐられた俺らも、俺達が今いるこの場所もいつか輝いて見えるのだろうか。そんな淡い期待を胸に、俺はゆっくりと目を閉じた。
急に顔に冷たい衝撃を受けた。ひんやりとした感覚が顔から入り脊髄を通って脳に達する。それは、夢の微睡に浸かっていた俺をいともたやすく覚醒へと導いた。飛び起き、目を見開くと陽の落ちる街にさざめいた夕焼けが目に入った。どうやら、眠ってしまったようだ。顔を触ると、髪の毛が濡れていた。照り返す夕日に顔をしかめながら、校舎を見ると茜を背に三人が立っていた。創の手には空になったバケツがあった。
「さっさと起きろよ。置いてくぞ。」そう言って、三人は悪戯な笑みで走り出した。
俺も少し微笑んで、プールサイドを蹴り三人を追った。
「待て、馬鹿ども!」
空が暮れ夏が終わる。蝉の声はいつの間にか消えていた。人生はいつだって取り返しがつかない、こんなどうしようもない一幕でさえ、いつかは何を失うのだ。そうして、失ったことをきっといつか悔やむのだろうと思いつつ、俺は大きく息を吸い込んだ、顔を撫でる風は苦いレモンの匂いがした。