第一夜
薄暮にこんな夢を見た。
水の音がする。意識だけが闇の中に揺蕩っていた。体と周りの境界線が曖昧で、少しでも力を抜くと体が解けて消えてしまいそうになるのが怖くて、私は膝と肘をお腹に着けるように全身に力を込めて、闇の中を浮かんでいた。
「聴覚は備わったかい、もし私の声が聞こえるなら少し指を曲げてほしい。」
不意に頭に響くような声が聞こえた。私は言われた通り、指を曲げた。
「大丈夫のようだね。なら視覚はどうだい。見えるかな? 今君の頭上に吊り下がった肉の天蓋がぽっかりと口を開けている。やがて君は周囲の壁に押されながらその口に吸い込まれるんだ。」
上を向けば確かにまばゆい光がわずかに零れ出している穴があった。
『そこには何があるの。』
「光だよ。君は今光に向かって動き出そうとしている。嬉しいね。」
『嬉しい?』
「君は何もできないのに自然の摂理に従って希望的行為をすることができている。」
『なら、その光の先に何があるの』
「なにって自由だよ。君は肉壁に動きが制限され、心臓の鼓動や呼吸は空間に同期させられていた世界を抜け出して自由を手にする。」
確かに、ここはひどく窮屈で、動きにくい。動くたびに体の何処かが壁に当たる。お腹から延びる紐も邪魔だ。
「主要な四肢の動きは全く君の意思に基づいて動くようになる。ある程度成長すれば他にも制御可能な部位が増えるだろう。ワクワクしてくるだろう」
『ああ、楽しみだ。』自由とはどんなに素晴らしいのだろうか、無限に広がる希望に思いをはせ、こころは躍る。そのはずだ。
「そうか、何をやってもいいんだよ。何をやってもね。」
『…分からない。』先ほどまでの高揚感が嘘のように凍り付く思考。私は何がしたいのだろう。何処に行けばいい。何をすればいい、急に何も分からない所に放り出されて、私はどうすればいい。
「何をやったらいいのかわからない?冗談だろ。何をやってもいいと言っているんだ。この世界みたいに光に向かって進む必要もない。むこうの世界は光があちこちに充満している。世界の至る所に光が張り付いていて、光源がどこにあるかなどわかりゃしない、向かうべき光がない以上、君に生理的義務は課されていないのだよ」
『そう、でも光に包まれるということは光を認識できないことと同義だ。』
それはひどく怖いものだ。寄る辺が無い、指針もない、前も後ろも光に包まれた世界。先ほどは黒い暗闇の世界に怯えていたけど、光に包まれた白い世界は反対色にして同義だ。いや、黒なら見えないだけでどこかに希望があると、多少の期待もできただろう。しかし、白い世界を見せつけられては、希望など見出すことなどできない。
「おいおい、泣きそうじゃないか」
『私はどうすれば良い、私を導いてくれよ。教えてくれ。』私は声のする方に手を伸ばすが、指に触れるのは、肉の壁ばかりだった。
「何だって、導いてほしい? それは無理な相談だな自由の世界に、導くべきものなどあるわけない、君のすべての行為は君の自己責任。それの何が悪いんだい」
周りの壁がその言葉に合わせて動き始める。やめろ、もう少しだけここに居たいんだ。
「ああ、歓び給え、肉壁が君を徐々に押し上げ始めた。炯々と繰り返す明滅。天蓋の口は呼吸を早め始めた。なんてひどい顔だ……まだここに止まっていたいのかい?」
『ああ、そうだ。ここに居たい。それが僕のやりたいことだ。』
「残念、そいつも無理だよ。まだここは自由の世界じゃないんだ。」
『嫌だ。僕はまだ、ここにいる。私は自由など求めていない。』
必死に四肢を動かすが、動きは鈍く自由に動けない。
「聞き給え、絶叫と加速する歓呼、金属器具の衝突が織りなすオーケストラ、その全てが君を祝福している。それなのにまだ君は絶望している。分からないね。何をそんなに期待しているのもそんなに絶望しているなら泣けばいい、泣き叫べばいいさ。」
僕は、無我夢中にからだを動かした。肉の壁を掴もうとするが、指の間を虚しくすり抜ける。へその紐が絡みつくが、今は関係ない。そんな、地獄にぼくは行きたくない。
「…光の世界へ、君の体が飛び出した瞬間、君は自由の世界に追放されたことに絶望して泣き叫ぶんだ。そして、その哀哭と同時に、君はここでの記憶のすべてを忘れる。思考能力を全てリセットして、絶望してあの世界に生まれ落ちたことすら忘れる。……まあそれも箸休め程度だかね。成長していくにつれて思い出してくる。私は自由など求めていなかった。絶望しながら生まれ落ちたってことをね。クライマックスだ、絶叫のクレッシェンド、歓呼のアレグロ、そして最後を締めくくるのは、君自身の絶叫だ。…さぁ 今こそ誕生の時」
私の喉から出たのは産声だった。