第七話
黒のバンの中は重い沈黙に包まれていた。後ろ手に拘束された衣鳩は抵抗を諦め、黙って後部座席に収まっている。隣の座席に例の女が座り、他の座席には変装していた八瀬童子たちが座っている。八瀬童子たちは皆黒を基調とした服装、そしてなんらかの方法で(その多くは黒のマスクで)、顔の下半分を隠していた。黒のバンの前後には、他の八瀬童子たちが運転する車両が並ぶ。衣鳩にはどうしようもない状況だった。
「聞こえてる?返事はしなくていいわ」
唐突に頭の中に声が響き、衣鳩はビクリとする。クーラの書が頭の中に直接話しかけているらしい。隣の女を盗み見ると、どうやらクーラの書の声は聞こえていないようだ。
「心配しなくていいわ!さっきも言った通り、いざとなれば私がなんとかするから。それより、どうして黙っているのよ!」
その言葉に、衣鳩は疑問符を浮かべる。喋るも何も、おそらく前提とされている知識が欠けている状態で、会話して有利に事を運ぶ術など衣鳩は持ち合わせていなかった。
「なんでもいいから喋りなさい!せっかく恋愛冒険活劇みたいに面白くなってきたんだから、これを活かさない手はないわ!どうやら今、暦史書管理機構VS八瀬童子・エトセトラって構図になってるみたいだから、まずどちらかに取り入らなきゃ!今のままじゃあただ巻き込まれただけの一般人なのよ、あなたは私の恋愛譚の主人公になってもらわなきゃいけないんだから、しっかりして頂戴!」
衣鳩はクーラの書のマシンガントークに顔をしかめる。頭の中でこうもまくしたてられては、たまったものではない。仕方なく衣鳩は口を開く。
「…なあ、アンタさ。さっきの屋根に逆さまにくっついてたのはどうやってたんだ?」
女の眉が再度ピクリと動いた。なにかマズいことでも言ったかと体を固くする衣鳩。女はこちらに目を向けることなく言う。
「『アンタ』じゃない。桃だ。私の名前は」
衣鳩は相手が名乗ったことに面食らう。桃の顔を横目で盗み見るも、その感情を読み取ることはまだできない。頭の中でクーラの書が何事かわめいていたが、衣鳩は無視して桃に名乗る。
「あ、ああ…俺は衣鳩ヒロマサ」
「知ってる。アンタはその本と接触した時から監視対象だから」
被せるように返答され、衣鳩は口を噤む。そもそも会話は得意なほうではないし、その上相手がこの調子では、取り入るどころの話ではない。
衣鳩が黙ってしまうと、今度は逆に桃から切り出した。
「…それと。私の力は『壁にくっつく』なんてダサい力じゃない。自分の落下する方向を操作する力だ。…アンタがこれを知ったところで意味は無いけどね」
「…なんで意味がないんだ?」
とりあえず会話を続けながら、衣鳩は訝しんだ。
(知る必要はないだとか、知ったところで意味は無いだとか言うのに、気に食わないところだけ修正をしてくるな…顔には出さないようにしてるが、何か神経質で、怯え焦っているような感じがする…?)
衣鳩は臆病が故に得意となった感情の読み取りの力を、ここで発揮していた。
衣鳩は視線を顔ごと桃の方に向けてみる。桃はあからさまに目を合わせないよう視線を窓の方に向けると、言い捨てるように呟く。
「…アンタに何を言っても全部、意味が無いんだ」
「じゃあ、俺が知っても知らなくても意味が無いってことは、別に教えても構わないってことか?」
「…教える義務はない」
「どうして俺を誘拐するんだ?」
桃は頑なに目を合わせようとせず、しばらく自分の前方を見つめ、しばらくして答えた。
「…別にアンタが目的な訳じゃない。その異端書が私たちに必要なだけ」
「じゃあ何で俺まで?」
「その異端書は勝手に転移する。でも今はアンタが異端書の『読者』になっていたから、異端書を手に入れるためにはアンタごと捕まえる必要があった」
「じゃ何で俺を撃ったんだよ?」
「あれはアンタが『読者』かどうかの判定を出すためにやったんだ」
桃が意外とスムーズに答えるので、衣鳩は調子に乗って一番気になっていた疑問をぶつけてみる。
「あとさ…お前ら忍者だろ?」
桃の銃から撃ち出された十字の刃を見ての疑問である。その問いを発した瞬間、目を逸していた桃が猛烈な勢いで振り向き、衣鳩を睨みつけた。
「おいアンタ…その単語、次口にしてみろ、ブチ殺す」
「なんでだよ!?」
「クソダサいからだ!!」
バンが停車する。どうやら目的地についたようだった。
………
京都郊外に、建設途中で廃棄された廃ビル群がある。市民の反対により、開発途中で手放された計画都市の成れの果てであり、今は八瀬童子たちの根城となっている。
その内の一つ、コンクリート打ちっぱなしで窓にガラスも嵌められていないビルの階段を上りながら、桃はあのエトセトラの男のこと、そしてそこに至るまでを思い返していた。
………
八瀬童子。暦史書管理機構京都支部下部組織。何世紀にも渡り暦史書管理機構京都支部を支えてきた異能力者集団であり、言い換えれば、偶然に常識から逸脱した力を持ってしまった人々の隔離所でもある。古くから皇に仕える集団であったが、全国から集められた偶発性の異能力者、そして消えゆく定めにあった忍びの文化遺伝子が合流し、現代まで存続していた。その八瀬童子の里に産まれた私は、当然八瀬童子になる以外の道は存在しなかった。
それでも、その歴史に、伝統に、運命に、無理に従う必要はないと、私の母はいつも私に言っていた。
その言葉を、もう聞くことはできない。あの忌むべき夜、混沌が全て飲み込んだからだ。
その夜、京都郊外の竹林にある八瀬童子の村に、青い目の襲撃者は唐突に現れた。数多くいた精鋭を悉く殺し、竹林に火を放った襲撃者は、現れた時と同じように唐突に去った。
それから少し時間が経って、生き残った八瀬童子たちは再結集をした。その中で、一番に異能の力が強かった私が、自然と決定権を持つようになっていった。不安定で先行きが見えない中、皆リーダーが欲しかったんだろうと思う。それ以上に、目の前で母親を殺された私は、私たちの一族に起こった悲劇の象徴めいた役柄を背負っていた。
悲劇のシンボルを頭目に飾ってしまった一族が上手くいくことはなかった。その上、私の父が不明で、私の力が異様に強いため、青い目の襲撃者は暦史書管理機構京都支部長であり、私が支部長の隠し子で、それを隠蔽するために八瀬童子を殲滅したなどという噂まで囁かれていたという。事実、あの夜の直後から京都支部との連絡は断絶されていた。
その噂の真偽を確かめるために京都支部に忍び込んだ私たちが見つけた報告書には、『八瀬童子、裏切りがあったため殲滅』とだけ書かれていた。
その夜、私たちは京都支部に討ち入りをした。
理不尽への怒りと、何百年もの信頼関係を失った悲しみだけが、私たちを突き動かしていた。
その結果、京都支部長は討ち死にさせたらしいが、両者痛み分けという形でその討ち入りは終わった。
その三年後のことだった。あの男が私たちの前に姿を現したのは。
翁の能面を被ったスーツの男は、『エトセトラ』を名乗った。
『エトセトラ』。暦史書管理機構の敵対者であり、機構と匹敵するほどの異能力者を有するとも噂されるグループ。組織規模は全く以て不明、異能力を私利私欲のために振るうとされる。
エトセトラは機構に裏切られた私たちに、エトセトラに吸収合併されることを提案した。その提案は、行く宛の無かった私たちにとって非常に魅力的なものだった。しかし喜んだのもつかの間、男は私たちに条件を出した。
「我々の信頼を得るために、とある異端書を盗み出せ」
ここで、私たちにはエトセトラとの交渉を破棄する手もあった。暦史書管理機構同様、エトセトラが私たちを利用しようとしているだけの可能性もあったからだ。
だが最終的に、私は協力することを決めた。
八瀬童子という組織のこれ以上の停滞は望ましくなく、何よりエトセトラの男の能面の奥にギラつく目が、私にとって必要な、何かを成し遂げようとする者の目であるように思ったのだ。