第十話
なんなんだ。マジで。
アホみたいな速度のバイクのせいでまだ気持ちが悪いし、山道を歩き通しで足も痛くなってきた。少し前を歩くバイクを押す痩せた男(黒鵜カイと言うらしい)は、こちらを気にする様子もなくずんずんと道なき道を進んでいく。まだクーラの書と喋っている時のほうが、マシだったかもしれない。
何もわからないまま意味も分からず罵られた後、カイは付いてこいとだけ言ったきり黙ってしまった。どうすることも出来なかったので付いていってはいるが、否が応にも黒鵜カイに対する不信、嫌悪感が足の疲労と共に溜まっていく。
もうここで立ち止まってやろうか。そう思って立ち止まってみると、横目だけをこちらに向けた黒鵜にギロリと睨まれ、反射的に歩き始める羽目になった。一睨みで支配されてしまう無力感、自己嫌悪、そういったものが頭の中でないまぜになって、吐き気に変貌していた。
彼女なら、どうしただろうか。単なる普通の高校生であるはずの物部祓は、こんな状況に陥った時も、諦めずにあの目で状況を打破しようとするのだろうか。実際のところはわからないし、そもそも俺は彼女ではない。彼女が何のためにあれだけ焦燥に駆られていたのか知らないし、あのお守りが何なのかも知らない。なにも分からない、まるで目隠しと耳栓でもして歩かされているような気分だった。
唐突に黒鵜カイが足を止める。その先は開けていて、どうやらこの男の目指していた場所にたどり着いたようだった。
………
「…こりゃスゲェ」
日も落ちかけ、空が橙色に染まる時刻。ヘルメットを外し、京都支局を山の斜面から見下ろした黒鵜は、その規格外の規模に苦笑いした。山の中に突如現れた都市国家めいて、塀に囲まれた京都支局は一つの町ほどの存在感を放っていた。
八瀬童子の追手を撒くために竹林にしばらく潜伏した後、黒鵜は衣鳩を連れて暦史書管理機構京都支局へと向かった。京都支局の中心部、京都郊外に存在する大屋敷とそれに付随する大小の屋敷の数々。周囲一帯は立入禁止、人工衛星からも観測されないよう措置がとられている、徹底的に隠蔽された場所である。人の背丈の二倍はある塀、それらを越えて聳える何棟もの五重塔のような建造物。面積で言えばかの平安京の大内裏に引けをとらない規模だ。
巨大な観音開きの正面玄関からではなく、塀を伝って少ししたところにある通常の大きさをした扉にカードキーを通して中に入った。
一歩入ったところで黒鵜は違和感を感じる。
(何だ…?何故誰も居ない?それにこの、異様な雰囲気は…)
綺麗に整備された砂利を踏みしめ、衣鳩を連れた黒鵜は支局内の敷地を進んでいく。敷地内の構造はまさに平安京の大内裏に近く、20をゆうに超える数の寝殿造の建造物が整然とした対称性で立ち並び、それぞれが通路で繋がれていた。
まるで時代劇の中に迷い込んだようで、立ち並ぶ歴史的建造物に衣鳩はただ圧倒されている。
衣鳩を連れた黒鵜は、機構側から事前に指定されていた建物の前に辿り着いた。横長の屋敷の前は砂利が敷かれ広く空いており、夕刻の日がその静寂で満ちた空間を照らしている。黒鵜はバイクをスタンドで立て、衣鳩を連れて木の階段を登り、何枚も横に連なる戸を開けた。
差し込んだ橙色の光が、薄暗く広い座敷を縦に長く照らす。夕陽の差し込んだ先、座敷の一番奥に、和装の男が座っていた。夕陽はその男の胸元までしか届かず、さらに布面(顔を隠すために顔の前に垂らす布)のせいで男の顔は一切判別がつかない。
「…京都支局副官、ニ松だ。そちらの名を名乗れ」
男が低い声で言う。顔を隠している相手にカイは苛ついたが、この布面は京都支局の高位の者が慣例的に身につけるもので、彼が文句を言えるものではなかった。
「暦史書管理機構大阪班、黒鵜カイ。指示通り、異端書は確保したぜ」
そう言って黒鵜はショルダーバッグから沈黙したクーラの書を取り出して見せる。それから衣鳩を一瞥して、付け加える。
「それと、このガキは運悪く異端書の『読者』になっちまった。記憶を消すために、森カイコの出動を東京支局に要請していいか?」
「その必要はない」
その予想外の言葉に、黒鵜は片眉を上げる。
男は続けて、冷酷に宣言した。
「即刻、その者を殺せ。今すぐに」
すっかり憔悴し下を向いていた衣鳩は耳を疑った。顔を上げると、顔の見えない和服の男がいるのがわかった。
(あの男は、今、俺を殺せと言ったのか…?)
二度三度言葉を反芻しても、少しも実感が湧かなかった。
険しい表情をした黒鵜が男に問いかける。
「何故だ?このガキ一人を消して、何になる?」
「現在京都支局は緊急事態が発生している。現状、余分な懸念は取り除いておきたい」
「緊急事態ィ?一体何が起きてやがる?」
「教えられることは何も無いが、貴様の仕事ではないことは確かだ。さあ、異端書を渡してその者を早く殺せ」
ヘェ…と、あからさまに苛ついた表情をする黒鵜。
衣鳩は端から逃げられるとは思っていなかったが、一応自分の後ろの戸を確認する。
その戸から、一片の刃が生えた。
「は…?」
タタタタタタタタン、と、小気味良い音と共に横に並ぶ戸から同様に刃が生える。
「クソッ!!」
黒鵜が瞬時に衣鳩の首根っこを掴んで前に跳んだ。
次の瞬間、轟音が鼓膜を殴った。
座敷の奥に吹き飛ばされる衣鳩と黒鵜。射出された刃が連鎖爆発し、並んでいた戸を周囲の構造ごと軒並み破壊していた。
「ゲホッ、…クソッたれ、何が起きた!?」
黒鵜は爆発の起きた先を見る。空いた空間を挟んで向かいの寝殿造、その屋根に、沈みゆく夕陽を背景に立ち並ぶ者たちがいた。
その中心、煙立つ奇妙な拳銃をホルスターにしまった桃は、確たる意志を持った目で京都支局を睥睨し、言う。
「この景色を見るのは人生で二度目…そして、これで最期にする」
その言葉を合図に、八瀬童子たちの一斉攻撃が始まった。
連続する爆発音に衣鳩は吹き飛ばされた体勢のまま頭を抱える。
京都支局の各地で爆発が起こっていた。ある者は桃と同じく奇妙な拳銃で、ある者は己の異能力を使い、京都支局を破壊しにかかる。
「くそっ、くそっ…どうしてこうなる!」
男はよろけながら立ち上がると屋敷の奥へ逃げ去ろうとする。破壊された戸から差した夕陽が、布面の下の怒りと焦りを滲ませた男の顔を一瞬照らし出した。どうにか立ち上がった衣鳩は、その顔を、その焦燥に歪んだ目を、目撃した。衣鳩は驚き息を飲む。
それと同時に彼らの後ろで、トン、と軽い音がした。振り返る間も無く聞き覚えのある銃声が響く。衣鳩は反射的に目を瞑った。…そして目を開けた。
「…チッ」
最短距離で着地した桃が放った刃は、黒鵜のバイク、「シラウオ」によって防がれていた。
「こいつは特別製でよ…ちょっとやそっとじゃ傷つけられねェぞ」
異能力によって尋常でない速度でバイクを呼び寄せた黒鵜は、そのままアイドリングするバイクに跨がった。そして手に持っていた異端書をひらつかせる。
「どうも副官野郎を狙ってたみたいだが、お目当ての異端書、まだ俺が持ってるぜ」
目で衣鳩にバイクに乗るよう促した黒鵜は、ヘルメットを被る。衣鳩は一瞬迷ったがバイクの後部座席に乗り込む。
「長ェ歴史を持つ八瀬童子…それが今じゃ、エトセトラに唆されたテロリスト…堕ちたモンだな」
ライダースジャケットの懐から巨大なカッターめいた刃物を取り出す。桃は何も言わず、臨戦態勢をとった。
「何も語ることはなし、ってか…いいぜ、クソ忍者」
ハンドルを握り込む。
「チェイスしよう」