第九話
思えば、私の姉は、誰よりも私に厳しかったのかもしれない。
特殊な家系に生まれた姉と私は、幼少の頃から教養、技術、その他のあらゆる英才教育を女房(家庭教師のようなもの)から受けていた。京都の山の中に隠された巨大な屋敷で時代錯誤な軟禁めいた日々を送る姉の目は、幼い私から見ればどの大人よりも理知的な、物事全てを理解しているような目をしていた。事実彼女は女房達と対等に会話をしていたし、そんな彼女を京都支局のあらゆる人物が尊敬しているようだった。
そんな姉が私に話しかける時、一言目は必ず何かしらの注意だった。立ち振る舞い、マナー、一般教養。それらは全て姉から学んだと言っていい。私の知らない仕事でずっと忙しかった両親の代わりに、広い屋敷で暇を持て余す私を相手していたのはほとんど姉だった。姉だって時間があった訳ではない。少ない自由時間の全てを、私に費やしてくれていたのだ。
叱られたことも少なくない。中庭のヘビを危険だと思い殺してしまったときは大変だった。学習の時間をすっぽかしてまで私を叱る姉を女房達が探しに来なければ、このまま日が暮れて徹夜で叱られるのではないかと思ったほどだ。
それでも、誰よりも厳しい彼女は誰よりも優しかったのだと思う。
いろんな話をしてくれたのを覚えている。特別な本のこと、夢の世界のこと、私達の使命のこと…話をしながら手を繋いで、広大な京都支局を歩いてまわった。
あの頃の日々はもう戻ることはない。あの恐ろしい夜、全てが失われたからだ。
姉の付き人の一人、七堂に真夜中に起こされた三年前の私は、暦史書管理機構京都支局が所有する京都郊外の巨大な屋敷とそこから京都全土に分布する広大な地下空間の何箇所かで、火災が起きたことを知らされた。起こしに来た彼女に連れられ地下に潜ると、碁盤の目のような通路を右に左に曲がりながら進む途中で、慌てふためく大人たちや、飛び交う「討ち入り」や「童子ども」といった単語が目や耳に飛び込む。それらが心の中で渦を巻いて、確かな不安となって私を苛んだ。七堂に姉の所在を聞いても答えてくれないことが、その不安を大きくしていった。
それから少しして、十字路を通る際、いくつか隣の通路から炎の舌先が見えるようになった。私の手を握る七堂の掌に汗がにじむのを、私は感じ取っていた。
もうすぐ地下を抜けられる、と七堂が私に優しく言った次の瞬間、私たちの前に何者かが立ち塞がったのが見えた。瞬時に私は頭を七堂に抱きかかえられ状況を確認することができなかったが、おそらく何者かと七堂が交戦し、そして相手は沈黙した。
七堂から解放されると、その後ろには姉がいた。どうやら姉が立ち塞がった敵を倒してくれたようだった。
姉の無事を確認して私は喜んだが、その私の両肩に手を置いて、姉は優しくこう言った。
『祓。これからお姉ちゃんは大事な使命を果たさなきゃいけない。だからしばらく会えないんだ。でも毎日連絡はするから、我慢できるね?』
そうして姉は私にお守りを一つ握らせた。
『このお守りは失くしちゃいけない。これが祓を守ってくれる。そして…私からの連絡が途絶えた時、そのお守りを私に渡しにきてほしいんだ。私が無事でなければ他の…七堂なんかに渡してほしい。頼めるかい?』
私が頷くと、姉は嬉しそうに笑って私の頭をくしゃくしゃに撫でた。
『それじゃ、もう行っておいで』
閉じていく扉越しに見た背を向けた姉の手のひらは、血で汚れていたように思う。
やっぱり寂しくなった私は、手を伸ばして──
「…様……祓様!」
体を揺さぶられて、祓は目を覚ました。朦朧とする意識と視界の中、先程夢で見た七堂の姿を捉えた。
「え…七堂…どうして…」
「地下の換気が止まってから、旧アーカイブ含め最下層付近は酸素が薄くなっています!とにかくここを離れましょう!」
七堂は祓に肩を貸し、旧アーカイブと呼ばれた広大な空間を共に後にした。
………
「ここまで来れば大丈夫だろ」
ライダースジャケットの男は衣鳩を竹林の地面に降ろした。衣鳩は吐く寸前の顔色をしている。
男はバイクをスタンドで立てると、地面に転がる衣鳩の元にしゃがみ込む。
「生きてるか?」
「………………はい……」
「それなら良し」
男はそれだけ確認すると立ち上がり、取り出したタバコに火をつけた。衣鳩は震える足に力を入れて無理矢理立ち上がると、男に死にそうな声で問う。
「…アンタ何なんだ……もう何がどうなってんだ……」
男がヘルメットを脱ぐと、オールバックの刺々しい容貌があらわになる。鋭い目線を向けた後、男は自己紹介した。
「俺は黒鵜カイ。このバイクはシラウオ。暦史書管理機構大阪班、異端書担当で、バイクの天才。今回は京都支局副官から要請を受けて海外からの異端書の護送と非常時の対処を任されてる。…まあ今がその非常時って訳だが」
「???」
「わからなくていい。どうせカイコちゃんの力で全部忘れさせられるだろうしな」
そう言って黒鵜はタバコを咥えた。
クーラの書が衣鳩の手の中から抜け出し、宙を舞いながら興奮気味に自己紹介を始める。
「はじめまして黒鵜カイ!私があなたが護送に失敗した異端書よ、クーラの書って呼ばれることが多いからそう呼んでくれて構わないわ!それからお礼を言わなきゃね、あのシーンは私だけでもなんとかなったけれど、あなたの登場でよりドラマティックに」
「うるせえ異端書」
黒鵜は革で出来た何かを一瞬の内に投擲した。ブーメランめいた軌道を描いたそれは、クーラの書が避ける間もなく分銅鎖のように巻き付き、クーラの書を覆ってしまう。すると先程まであれ程やかましかったクーラの書が沈黙し、終いには力を失ったように地面に落ちてしまった。
「なっ…何をしたんだ?」
「『ブックカバー』をつけた。さっきの能面の男が投げようとしてた制御用の『栞』と違って封印に特化した異端書用の道具だ。長続きするモンじゃないが、一日程度なら黙らせられる」
へえ…と、衣鳩が感心して地面に落ちたクーラの書に触れようとすると、黒鵜が先にそれを拾って自分のショルダーバッグに突っ込んだ。
「こうなっちまえばただの本だ」
そう言って黒鵜は携帯灰皿に吸いかけのタバコを差し込むと、ニヤリと笑う。
衣鳩はなんだか安心して、その場にへたり込んでしまった。窮地から助けてもらった上に、そもそもの巻き込まれた原因であるクーラの書まで容易く処理されてしまって、体から緊張が抜けてしまったのだろう。
「あの…もう帰ってもいいですか…?」
「お前よォ」
雰囲気が変わる。黒鵜はフルフェイスヘルメットを被り直し、冷たく言い放った。
「何を安心してやがる?まだお前が『読者』のままだと思ってる八瀬童子どもがいるだろうが。そもそも俺を味方だと思ってんのか?このまま俺はお前を連れて行くが、その先でお前が殺されない保証は何処にもねぇぞ?」
「え…」
衣鳩は言葉に詰まり、怯えた目で黒鵜を見上げる。
「荷物みたいに運ばれやがってよォ、運ばれて運ばれて、それでお前はどうすんだ?死ぬのか?…自分の頭で考えろ」
衣鳩は黒鵜の言葉に困惑を隠せない。黒鵜はトドメとばかりに最後の台詞を吐いた。
「こっから逃げても良いんだぜ。その場合、俺が殺してでも捕まえるけどな」
その言葉を聞き、黙り込む衣鳩。黒鵜はひと仕事終えたように、スタンドで立ててあるバイクに寄りかかる。
(悩め、悩め。ガキに対しては信頼を得たり恐怖で支配したりするよりも、行動への衝動と迷いの間で無限ループさせる方が何よりの行動の阻害になる。体の硬直を生む。少々性格は悪いが、これが一番確実だ)
衣鳩は未だ沈黙したまま、己の膝を見つめていた。