第八話
(なんというか、だんだんこの状況のヤバさを実感してきたな…)
廃ビルは窓ガラスすら付いていない上に、建築資材やら何やらが放っておかれたままだった。上の階に登るにつれて、フロアを通り抜ける風が冷たくなるように感じられた。
桃の後ろについて廃ビルの階段を上がりながら、衣鳩は冷や汗をかく。桃は他の八瀬童子たちを階下に控えさせ、衣鳩を一人で連れていた。
衣鳩は直感で、桃が八瀬童子の中心的存在であると気づいていた。それ故に、まず桃をなんとか懐柔か隙をつくかしなければ、この状況を打開することはできないと考えていた。なんとか揺さぶりをかけようと衣鳩は話しかける。
「…なあ、アンタ、なんか迷ってんじゃないのか?」
「アンタじゃない。さっきも言った」
桃が立ち止まり、数段上の階段から衣鳩を見下ろして言う。
「迷ってる?どうしてそう思う」
「臆病者って鼻が良いんだよ。そういうの、なんとなく匂いでわかるんだ。俺と同じ匂い。何をしたらいいのかわからない状況で、ビビってるヤツの匂い」
「………」
桃が黙ってしまったので、衣鳩は内心焦り始める。すると桃は小さく息を吐き、口を開いた。
「…認める。そう。私はまだ迷ってる。アンタのことだって巻き込みたくて巻き込んだわけじゃない。私が異端書奪取の時ミスってコンテナに傷をつけたせい。それで異端書はアンタのとこに転移した」
桃が前を向き階段を再度上り始める。衣鳩は追いすがり桃に訴える。
「俺もこれ以上巻き込まれるつもりはない!だから協力しよう、桃!クーラの書は俺が告白するまで俺から離れないらしい、だから俺さえ居ればクーラの書は手に入れたも同然で──」
桃は振り返らずに言う。
「私は迷ってるよ。でも何をするかはもう自分で決めたんだ。だからごめん」
桃の階段を登る足が速くなる。それを追う形で、二人は最上階のフロアに到着する。そこで待っていたのは、翁の能面を付けスーツを着た中年の不気味な男だった。
体格は高身長の痩せ気味で、白髪混じりの長髪を後ろで束ねている。能面の下の土気色の肌には、すでに幾らか皺が刻まれていた。その男は威圧的な低い声を発した。
「その男が異端書の今の『読者』かね?」
「そう」
桃は素っ気なく返答すると、ホルダーから例の奇妙な銃を抜いて衣鳩へ向けた。
「知っても無駄って言ったのは。アンタがここで死んじゃうからだよ」
次の瞬間、様々なことが同時に起こった。
まずクーラの書が燐光を伴いながらリュックから飛び出す。次に、不気味な男が胸元から黒い光沢を放つ栞めいた紙片を引き抜く。そして最後に、ガラスの貼られていない窓からメタリックシルバーのオートバイが突っ込んできた。
「何だ!?ここは12階だぞ!?」
能面の男がうろたえ、黒い栞を投擲しようとしていた腕を止める。バイクで突っ込んできた細身のライダースジャケットの男は、バイザー越しに衣鳩に叫んだ。
「オイガキィ!!死にたくなけりゃその本引っ掴んどけよ!!」
メタリックシルバーの獣が吠える。フロアでドリフトしたバイクはそのまま方向を変え、反射的にクーラの書を掴んでいた衣鳩の首根っこを掴んでバイクは窓から飛び出す。
「おわああああああああ!!!」
叫ぶ衣鳩など意に介さず、オートバイは廃ビルの壁面を自由落下よりも速いスピードで垂直に走る。バイクが飛び出していった窓に桃が駆け寄り、窓から身を乗り出して銃を構える。
「…チッ」
数発撃つが、直前でバイクが高速蛇行運転を始めたため、狙いを定められず当たることはなかった。
「緊急!!異端書が奪取され…まさか、クソッ!!」
桃は携帯端末を取り出して下で待機させている八瀬童子に連絡を入れようとするが、違和感を感じて目を走らせ、発見する。廃ビル近くで待機させていた仲間たちのほとんどが、おそらくあのバイクの男に既にダウンさせられているということを。
バイクはエンジンをさらに吹かすと、猛スピードで下降しながら前輪を浮かせ始める。廃ビルの半分以上は下って、このまま行けば地面に激突するのは明白だった。
未だ衣鳩の首根っこを掴んでいる男は、獰猛な声で囁く。
「おいガキ、今から飛ばす…ゼッテーその本落とすんじゃねェぞ……!!」
ウィリーし始めたバイクはその角度を上げていき、ついには地面と平行な角度にまで車体を持ち上げた。地面まではもう幾ばくもない。衣鳩は言われるがまま、クーラの書を両手で抱えた。
咆哮。そう形容するのが一番に思えるような、そんな爆音をあげて、バイクは地面スレスレを平行に射出された。
そのベクトルは落下エネルギーすら殺し、黒い雲海めいた煙溜まりを残して、バイクの搭乗者たちを桃の目の届かないところまで運んでしまっていた。
能面の男が小声で毒づく。携帯端末で何事かを連絡すると、男は苛立ったように足音をたてて階段へ向かう。
「十中八九機構の能力者だろう。私はエトセトラに要請し援軍を頼む。そちらはできる限りの異端書の追跡をしてくれ」
そう言うと男は早足で階段を下っていった。後に残された桃は何も答えず、バイクの消えていった方角を見据えていた。