プロローグ
塩沢ラグーン水族館
ゴシック体で書かれた大きな看板が目に入った。隣にバンドウイルカの愛らしい絵が描かれている。受付の隣にはお土産売り場があり、エイやチンアナゴ等の人気の海洋生物のぬいぐるみがずらりと並ばれていた。
「優、萌子とトイレに行って来るから先に回ってて。2時にはアシカショーが始まるからそこで集合しましょう。」
巻き髪がよく似合う小柄な女性は帽子を被った少女、鯨間優にチケットを渡しながら言った。
「はいはい、分かったよ。」
鯨間優は気にするそぶりも見せずに、チケットを受け取り、建物の入り口へと向かってく。
優は家族…父、母、妹の萌子と一緒に水族館に来ていた。元々は1人で行く予定だったのだが、日曜日だという事で仕事もなく特に予定のなかった3人がついてきたという次第だった。今年で15にもなるというのに家族と水族館だなんて格好がつかないにもほどがあると優は溜息を漏らす。そもそも一人で来たのだって誰にも迷惑を掛けずに時間を気にせず魚を見るためだった。誰かがいては意味がない。
「まぁ結果一人になれんならいいや。さっさとクラゲ見に行こう。」
優は入り口に飾られたジンベエザメのモニュメントが特徴的なゲートを潜り抜けて建物の奥へと向かって行く。ジンベエザメの展示などない癖にと皮肉を交えながら。
館内は多くの人で埋もれていた。ドクターフィッシュ体験のコーナー、ヒトデやナマコふれあいコーナー、インスタスポット……流石隣県の観光地というだけあって充実している。子供の歓喜に満ちた声やカップルの話し声が耳に入った。基本的に一人で何処へでもいける性分のつもりだったが、家族連れや恋人達を見ていると少し劣等感を感じてしまう。いくつかの展示を体験して、奥の中央にある巨大な水槽へと進んでくとマダラトビエイやハンマーヘッドシャーク等の魚が優雅に泳いでいた。塩沢ラグーン水族館の見所はクラゲであり、20種類もののクラゲが展示されている。それが最大の目的であった優だったが、アジやタイの大群、多種類のエイの美しさに見惚れて水槽に長い事へばりついている。自分も水槽に身を委ねて水中にいる擬似感覚を味わおうとして。
水面から差し込まれる光を浴びて底から眺める。水草に身体を埋もれさせ、魚の群れと共に漂い、醜く無駄に腕を動かさなくてもいい、足だけで自由に水の中に…。
所詮は妄想だ。自分は陸で自由に走れるじゃないか。水の世界に焦がれる必要などないと優は嘲笑を浮かべる。相変わらず何年たっても自分自身の妄想癖は治りゃしない。
優は巨大な水槽を後にし、その水槽を囲むようにある道を通り抜ける。次は熱帯魚の展示があるはずだ。優は少し浮き足立って進んでいく。そんな時にある異変に気が付いたのだ。
人が自分しかいない。
明らかにおかしかった。先ほどまではエイやサメ達がいる巨大水槽では沢山の人が水槽を眺めていたのだ。感嘆の声で埋もれて、肩車しながら眺める親子や水槽の正面にあるベンチに腰掛け一休みする恋人達、写真撮影をする女子高生で賑わっていたはずなのに一体いつから。
いつの間にか館内のBGMも消えていて、突然がらんとした水族館は時代に取り残されているように見えてしまう。優は身震いした。
「……なんだこりゃ…とりあえず母さん達に連絡でも取ろうか。」
とりあえず誰でもいい。父でも母でも萌子でも優は人の声が聞きたかった。
自分だけ水族館に取り残される?
そんな馬鹿なことがあるはずがない。
連絡先リストから焦点の合わない指で無駄に二、三度とコールボタンを押す。しかし、ワンコールもしないうちに無機質な声が耳に響く
『この電話は電波が届かないところにいらっしゃるか、またはでん』
「うそでしょ!?!?」
優は無理矢理声を荒げて明るくしてるが、涙声に近かった。もう一度掛け直してみる。
しかし結果は何度やっても同じだった。
「どうしようか…まじで電波届かんだけかもだしなあ。母さん達のとこ戻ろうかな。怖くなってきたし。」
BGMも無く人もいなくて海洋生物だけがいる水族館は不気味だ。優は身長に似合わず少し大きめのリュックサックの持ち手を少し握る。
心なしかここにいるエイやサメ、タイ達が自分めがけて襲って来そうだ。
怖くなり、足が腕が震えていくのを感じた。
その時、ボオオオと低いような汽笛のようななんとも言えない音が聞こえた。声なのだろうか、それすらも分からない。次に真横から巨大なものが通り抜ける感覚に襲われる。何故か水が少量かかった。何処から飛んできたのか。
「…!」
振り返ると不思議な光景を目にしていた。海遊回廊に鯨が1匹泳いでいた。信じられないほどの巨体で人間など簡単に飲み込んでしまえるくらいの大きさだ。
あまりにおかしすぎて優は目を擦る。嘘でしょう、だってそこには水がない。人間の歩く道だ。
目を凝らしてもう一度見ると消えていた。
「…?気のせいか…?」
頭をひねって考えて見る。気のせい。気のせいという言葉を再度飲み込もうとする。
だってあれは優でも知ってる有名な有名な鯨だったはずだ。
シロナガスクジラ
そんな生き物がこんな日本の水族館で飼い慣らせるはずがない。世界中の何処でも飼育なんて出来ないはずだ。
しかも海中じゃなくて空中を泳いでいた…?そんな不思議な事があるはずが無い。
こんなところにいるはずが無い。
それなのに
「待って!!」
優はクジラが見えた方向に向かって走り出した。手汗が手の中に気持ち悪いほど張り付いている。
いるはずが無い。だけど。
現実にそんな筈が無いことが起きているんだ。人がいきなり消える。そんなホラーみたいな出来事が。
「待ってよ!!助けて!!」
走りながら吠えるように叫ぶ。振り向かないことを知ってる。それなのに喉が痛くなっても黙ることをやめなかった。叫ばなきゃどうにかなりそうだ。
自分がもう何処を走ってるのかすらも分からなくなる。額からぶわりと汗が噴き出した。
「はあ…は…はは。」
息切れしてる中でクジラはもう一度目の前に現れた。優雅に空中を泳いで見せる。そこが水中であるかのようにその泳ぎは違和感が無い。空飛ぶ鯨。脳裏に浮かぶのはそんな陳腐な言葉。
やっぱりシロナガスクジラだった。
ヒレが勢いよく揺れて、もう一度ボオオオと低く鳴いてみせた。口を大きく開いてあぶくを作ってみせる。体表面についた水飛沫をぶわりと飛ばしながら。
優は人よりも好奇心が強いと自負している。ここまで来てしまったら引き下がることなど考えていなかった。
「すげぇ!待って!」
クジラはある曲がり角を左にうねり、そのまま見えなくなる。優もリュックを揺らしながら後ろからついていくと、そこには鰯の大群が展示されていた。トンネル状になっており、左右上鰯に囲まれている状態だ。
「??こんなとこに鰯の展示なんてあったんだ?」
そのまま溺れていくように潜っていく。ぼちゃんと飛び込むような音が聞こえた。
そのまま鰯に取り囲まれた通路を進んで行く。暗いトンネルを照らすかのように鱗を乱反射させながら鰯はそこに群れていた。
トンネル海路を抜けると目の前に二つの古めかしい扉が優の目に入った。
「なんで扉が…?」
優は右の扉を開けようとするが、鍵が掛かっていたので左の扉を開けて進んでいく。扉の先の部屋には標本が飾られていた。綺麗に並んで10個ほどの標本が20畳ほどの部屋に飾られていた。五つの目を持った魚やらオウム貝のような優の身長6倍はあるだろうやたらとでかい貝の生物やらぺたんこなサソリみたいな生物…見たことも無いような生き物の標本ばかりで不気味な佇まいだ。しかし、中には優が知っている生物もいた。
「シーラカンス…これはアンモナイト?どっちも絶滅してるよな…じゃあここにあるのは絶滅した動物??」
ここには水槽はなく、標本が飾られているだけではあったがそれでも今にでも動き出しそうな雰囲気を纏っている。
「……凄えな…。」
優はぼそりと声を漏らしたにも関わらず、反響してはっきりと響いた。大昔の海底にいるような感覚に取り憑かれた気分になり。このまま戻れないのではという不安はありつつも感動で胸が高鳴っている。多少の気持ち悪さは拭なかったが。標本を観察してると、1番左奥にある標本とちょうど真ん中あたりにある標本だけが字が一部掠れて読めなくなっているのに気づいた。
○ーラカンス、カメ○ケラス
「シーラカンスは流石に分かるけどカメなんとかは分からないな…。」
貝みたいなのに恐竜のような名前しやがって。
そんな感じのどうでもいい感想を抱きカメなんとかの大きい標本に少々乱暴に触れるとぼとりと本が標本から落ちてきた。どこかに挟まっていたのだろうか。結構な分厚さで図鑑のような辞書のようなものだった。
『絶滅した海洋生物』
優は手に取ってタイトルを確認し中身を見てみる。パラパラとめくっているとあるページを見つけた。先程の名前の分からなかった巨大貝の絵が描かれている。
『カメロケラスは、主にオルドビス紀の間に生息していた。約4億7000万年前のオルドビス紀中期に出現し、ローレンシアやバルティカ、シベリアの浅海域に生息して…』
そこまで読んでガタンと何かが動いたような音がした。すぐさま振り返る。しかしやっぱり人っ子一人いなかった。アースロプレウラと描かれた海のムカデのような標本が置いてあるだけ。
「……てか長いことたむろっちゃってるけど、母さん達は大丈夫なんかな。今何時だろ。」
腕時計を見て時間を確認すると、短い針は8を指していた。水族館に入ったのは12時だ。アシカショーすら始まってなかったのにそんな時間まで居るわけがない。
「壊れたか…デザインが気に入ってるからってやっぱ安物使うんじゃないなあ」
アンティーク調で全体的に纏められた、一見高そうに見えるが、使い込まれて傷が所々についている腕時計を睨んで優は溜息を漏らす。
とりあえず戻るか。
優は図鑑を置き、標本部屋を後にして、鰯のトンネルに戻る。青色で満たされた数万といる鰯のトンネル通路を歩いていると海の中を歩いている気分になる。やがてトンネルの奥まで辿り着いた。奥には水槽があり、行き止まりになっている。
「…!?あれ…ここに確か道があるはずなんだけど」
間違いない。私はここを通って来たはずだ。水槽に近づいても、目の前には水槽がただただ映り、ぺたぺたと触って見ても鰯とにらめっこしてる状態だ。鰯の鱗はぬめりとしていて、光を纏っていた。星のようにちかちかと照らす。
その時ある疑問が優の中で駆け巡った。
鰯の鱗を触っている……??
鰯は水槽にいた……触れられるわけがなくて…なんで
「ばんでばごぶっぅっ!?」
喋ろうと口を開けたら大量の水が口の中に入ってしまい、ごぼごぼと泡が溢れ出す。まるで本当に海中にでもいるみたいな。
気づくと鰯達は優を取り囲んでいる。いや、それだけじゃない。彼らは丸い眼球を光らせては優に飛びついて口をはくはくとさせていた。
「(こいつら…餌に群れるかのように私の周りに…畜生、張り付いて…)」
必死にもがいてなんとか脱出しようと試みた。鰯の群れは外から見たらトルネード状になっていて、星屑の竜巻みたいに綺麗だった。
「ぶはっあっっハァ…ハァ……あ?」
逃げようとして、結局は先ほどの道を戻って2つある扉の前まで来てしまったが、そんな事はどうでも良かった。先程からおかしなことばかり起きて感覚が麻痺してきた優だったが驚愕な色を浮かべる。
「は……どうして…ゴフ…ゲホ…さっきまで通路だった場所が水槽になって、私がすり抜け?てんだ…。」
身体がびしょ濡れでえずきながら、優は顔を歪ませる。今現在、先程通った鰯のトンネルはその通路でさえ水の中に埋もれており、そのトンネルだった場所はもはやアクリル樹脂で遮られている。そして鰯が中で襲ってくる。訳のわからないことだらけだ。そしてアクリル樹脂という分厚い壁をどのように通り抜けたのか。そして、巨大水槽までへの道が閉ざされていたこと。一気に色々な情報がやってきて頭がパンクしそうだ。
優の身体がぶるりと震えた。一雨来そうな曇天の学校のプールで泳いで上がった時の感覚。どんどん体温が奪われそうだ。腕でさすりながら歩き出す。
「寒い…タオルか何かが欲しい…。」
とりあえず、今は無駄に考えるより動いて心を落ち着かせようと水滴をぽたぽたと身体中から垂らしながら、右側にあった扉を開けようとした。よく見ると扉の隣に文字を記入する機械があった。その下に『色』と文字が書かれていた。
「色?色を入れればいいの?どうゆうこと」
とりあえず試しに『あか』と入れたらブーという機械音が鳴り、優は首を傾げる。適当に入れたら数打ちゃ当たる気はするがどうしたものか。
そう考えて先ほど見ていた図鑑と標本を思い出した。○ーラカンスとカメ○ケラス、そして色を入れる…答えは『しろ』だ。字が掠れた部分を入れればいいのではないだろうか。優は早速記入してみる。ガチャリという扉の開く音が館内に響く。
「はっは。ビンゴだ」
優は少し調子に乗って嬉しくなる。そのまま扉を開いて、出口…その前にタオルを探すつもりだ。
中はさっきの標本部屋と打って変わって簡素な部屋になっていた。変わっていることと言えば映像なのか分からないが周りにプランクトンが泳いでいる事だ。優には種類などクリオネくらいしか分からないがどのプランクトンも星座のように淡く、綺麗だ。プラネタリウムと大差ないのでは無いだろうか。充満する星が優の周りに纏わりついてそれは幻想的な光景に思えた。ふと下を見ればウミウシが優の足の近くにいた。ウミウシの種類は最近図書室でウミウシの本を見たから少しは分かる。ホシゾラウミウシだ。その名の通り空のような青色に黄の斑点が星空のように綺麗なウミウシだ。奄美大島にいるらしい。少し感動する。なんせ一生見られないと思っていたからだ。他にももっと奥に目線を配らせればヘリシロイロウミウシ、ムラサキウミコチョウ、ルージュミノ…他は名前の分からないピンク色やら青色やらの沢山のウミウシがいる。やがて天井近くの上の方に扉があるのを見つけた。ハシゴは近くに無かった。少しジャンプをしてみたら軽く身体が浮いたのを然程驚かなかった。薄々ここも先程のように不思議な水中になっているのだろうと無意識に思ったから。脚を少しばたつかせてみれば、泳ぐのが得意な身体はぐんぐんと上へ上へと進んで行く。脚だけでは踏ん張りが少し難しいので手も平泳ぎの要領で動かしてみる。目は開いても染みなかった。水で身体は少しふやけている。やがて天井付近の扉へ辿り着き、ふと底を見れば文字が絵の具を弾いたような音を立てて浮かんできた。
『シンカイマワリへようこそ』
雑に大きくそうやって書かれていた。
「…?」
考えても仕方のない事だったので優は中に入ることにする。
しかし、扉はドアノブだけが取れて他は作り物だった。畜生。まんまと引っかかってしまった。とりあえずこのドアノブは一応持っておこう。何かに使えるかもしれない。
下に降りるとウミウシ達がクッションのように集まっている。もしかして、先程の扉のようにまた何かしら謎でも解くのだろうか。不意にウミウシを持ち上げてみると一匹のホシゾラウミウシに星の形をしたブローチのようなものが挟まっているのを発見する。他のウミウシを探ったり、プランクトンを探ってみたけれどめぼしいのはそれだけだった。どうしようもないので、部屋中隅々を調べると一箇所窪みのある壁を見つけた。丁度星の形をしている。星のブローチを当てはめてみれば忽ちガガガという音とともに壁だった場所がみるみるうちに人が通れるほどの空洞となった。奥の道が深いようだ。通ろうとするとまたパシュッという音とともに文字が壁に浮かび上がった。
『奴らは腹を空かしている』
「はあ…?」
首を傾げてその意味を探ろうとするが、やはりこの状況を考えるのは少し前に諦めていたので、あまり気に求めずにその穴を進むことにする。
その選択を後悔するのはもう少し先の話だ。