164 つゆ
梅雨、学校は短い休みへと入った。
王都が霧で包まれている。春とは違う、しっとりとした肌寒さから逃れるように研究所の入口を潜った。
扉が閉まると、からりとした暖かい空気が冷えた身体に染み渡る。さすが研究所、空調がしっかりと効いている。
玄関ホールでコートを脱ぐ。雨は降っていないものの、立ち込める霧の中を歩けばあっという間にびしょ濡れになる。梅雨対策で着ていた薄手のコートも水を含んでずっしりと重い。このまま研究室に向かえるわけがないので、水気をしっかり取らなければならない。
そして、ホールの真ん中にはこれみよがしに置かれた魔道具がひとつ。ご自由にお使いください、との看板つきだ。魔道具の形状は箱型で、大きさは大の大人が1人は入れる程度。前開きの扉を開ければ、底辺の大きい二等辺三角形の形をした金属、つまりハンガーがその箱の天井からぶら下がっている。
具体的に言うならば、小型のクローゼット、といったところか。
魔道具の中にコートをかけ、扉を閉じ、側面に埋め込まれた魔力石に手をかざす。魔力が吸い取られる。少し血の気が引くような気持ち悪さはあるが、倒れるほどではない。吸収しすぎないようにうまく設計されているのだろう。魔力石が光り、魔道具が動き出す。初めは小さかった作動音が徐々に大きくなり、ガタガタと派手に揺れだす。
仮にもここは研究所、魔法科学の最先端技術が集う場だ。もちろん魔道具の研究、開発に携わっている研究者も数多く在籍しており、こういった試作品が研究所の至る所に突如現れたり、設備が急に変わったり、ということが頻繁にある。
ここ最近で驚いたのは、一部の廊下が人の有無により自動で点灯・消灯する魔道具の試験区画となったことだ。いったいどうやって人を検知し魔力を供給しているのか、魔道具の構造が非常に気になったのだが、実物を見る前に数日で試験が終わってしまった。何か深刻な問題が見つかったようだ。残念。
それに比べてこの魔道具は優秀らしい。すぐ近くに説明書きがあるのだが、数年前から梅雨の時期になると今のようにホールに設置し、自由に使ってもらっている、とのこと。毎年好評で、年々小型化にも成功しており、既に一部の施設や家庭でも用いられているそうだ。注文も承って…………って、宣伝してる。
魔道具が動きを止め、魔力石も光を失う。扉を開いてコートを取り出す。うん、軽い。触った感じも悪くない。しっかりと乾いている。
「課題は時間かな」
僕の後ろで黙って魔道具を見ていたベレフ師匠が呟く。実に上から目線であるが、この人は存在が魔道具みたいなものなので仕方がない。今だって師匠の髪もコートもカラッカラに乾いているが、それもそのはず、コイツは霧の中を歩いても濡れたりしない。
少し……いや、かなり意味が分からないが、先程の修行でも霧を活かしてそれなりに大規模な水魔法をぶっかけたのだ。しかし、そのほとんどが師匠に触れる前に相殺された。僅かに当たった魔法も、濡れた端から乾いていく、という完全防御っぷりを見せられた。腹が立つ。
研究所まで歩いて帰るまでにそのことへ苦情を申し立てたのだが、この後仕事があるのに濡れたくないでしょ、と当然のことかのように返された。そうだけどそうじゃない。僕が求めていたのはそういう答えじゃない。どうすればそんな芸当ができるんだ、と僕は聞いたつもりだったんだ。目的ではなく方法を聞いたんだ。
そう問い直そうかと思ったが、答えが予想できるのでやめた。ヤツは天才なのだ。濡れないためには水を弾くか消す。乾かすには水を抽出するか消す。それを全身で行うだけ。何も難しくない。きっとヤツはそう言うのだろう。ああ、分かっている。そういうヤツなんだ。
「時間って言っても30秒ぐらいでしょう。それでこれだけ乾けば十分ですよ」
「3秒でできることだよ」
「それは貴方だけです」
そうかな、と真面目な顔をして首を傾げる天才。なぜコイツは己の高性能っぷりを理解していないのだろう。腹が立つ。
「ほら、仕事があるんでしょう。研究室戻りますよ」
コートの袖を引っ張る。ああ、うん、と生返事をするもなかなか動こうとしないので、腕を掴んで引っ張る。そこまでしてようやく歩き出したが、相変わらず上の空である。もしかして魔道具の改良点とか考えてるんじゃないだろうな。
「……売れるのか……」
え…………金? 金が欲しいのか?
師匠の無茶ぶりみたいな指導も、続けていくうちに慣れてしまうのだから人間とは恐ろしい。だいたい週にひとつのペースで各属性の扱いを徹底的に叩き込まれ、2ヵ月でどうにか及第点をもらえる程度にまでは上達させた。
それでもギリギリ及第点、なんだよね……師匠が求めている水準を分かってはいるつもりだが、理解して実践するまでは至れていない。これだ、という明確な手応えもないし、師匠から褒められたこともないし……。
この感覚を突き詰めれば合格なのかな、というものはなんとなく掴めている……気がする。たった2ヵ月で攻撃魔法を一通り指導させてもらえたのも、この感覚を無理矢理引き出すことに慣れたからだ、と思いたい。
学校の図書室で攻撃魔法の基本となる科学理論を叩き込み、その理論通りに魔法を発動させる感覚を身体に馴染ませる。予習としてここまで準備しておけば、修行の日に僕の精神的疲労が比較的緩和される……気がする。
応用的な技術は、基本さえできていればそこまで難しくないはずなのだ。扱う属性が違うとはいえ、技術自体は同じ。基本を押さえ、別の属性で応用ができていれば、すぐできる、はずなのだ。
……こうやって考えているだけでも、気がする、とか、はず、だとか……もっと言い切れるようになりたいものだ。こんな曖昧な心構えでも師匠のスパルタをどうにか乗り越えたので、方向性としては間違っていないのだろうが……うーん、難しいな……。
今、学校は梅雨休み。その1週目の週末。今週と来週と、第二曜日と第四曜日をどう過ごそうかと少しだけ悩んだが……つまり、冒険者稼業と魔法の修行と、どちらを取るか、だが……修行しすぎたら僕の心が悲鳴を上げてしまう。
ということで、相変わらず研究所に来るのは週末だけだ。そのことを師匠に話したらとても悲しそうにしていた。修行しないなら来てくれるの、と問われたが、断った。ジュディとトッシュが会いたがってるよ、と言われたが……断った。
2人は平日にしか研究所に来ないので、必然的に2ヵ月ずっと会うことができていない。僕だって会いたいが……修行しないのに研究室へ行ったところで、何もやることがないのだ。
かつてそうしていたように、仕事をする3人に相手をしてもらおうと思えるほど僕は子供じゃない。仕事の邪魔はできない。
なら資料を読み漁るか? 確かにそれはそれで面白いが……貴重な1日をそれに費やしていいのか。答えは否である。
研究室に来るならば、修行をするのが一番なのだ。修行をするには師匠の時間を半日ほど貰わなくてはならない。平日にそれは無理だ。本来なら休日である週末だからこそお願いできているというのに、忙しい平日にまで教えを請うなど…………してはいけない。
それを言うなら週末にだって押しかけずに休ませるべきなのだが……この金髪野郎、仕事中毒なので、放っておくと休日も書類仕事に1日を費やしてしまうのだ。僕の修行で強制的に仕事を休ませ、気分転換をさせているようなものだ。
それにどうせ、僕の相手をしたところで絶対に疲れないし、コイツ。
平気な顔をして書類と向き合う師匠を横目に、研究室を出る。ヴィンス所長と話すようになって、研究室で過ごす時間はだいぶ短くなった。すぐに出ていくと不審に思われるかもしれない、と初めはしばらく研究室で過ごしてから出ていたが、特に何も言われないので最近は師匠が仕事を始めたらすぐに出て行っている。
窓の外に見えるのは濃く白い霧。近くにある建物ならどうにか見えるが、少し離れるともはや影が見えるかどうか、というほどの視界の悪さ。
今日は特に天気が悪い。あと1週間もすれば晴れるだろうが……この薄暗さには少し憂鬱になる。
廊下を歩き、階段を上り、最上階へ。誰ともすれ違わない。休みだから当然だ。僕の足音だけが響いている。
目指す先は所長の研究室。最初の遠慮はどこへやら、今ではズカズカと中へ入っていくのだから、全く人間の慣れというものはつくづく恐ろしい。
扉まで数メートル、というところで、前触れもなく扉が開く。先客がいたようだ。歩調を緩め、扉とは反対側の廊下の端に寄る。
「……はい、失礼します」
女性の声だ。声の主が研究室から姿を現す。扉を静かに締め、振り返る。
目が合う。その目が見開かれる。翡翠色の瞳が零れそうだ。
そうして見つめ合うこと数秒。小さく開いた口からは何の言葉も発せられない。まあ、驚くよね。僕も心底驚いた。どうしてこんなところにいるんですか。
「……セルマさん」
その名を口にする。ひゅ、とセルマさんが息を飲む音がした。僕から視線がズレる。ゆっくりと目を閉じ、再び開いた時には……聖女の笑みを浮かべていた。
「はい、そうです。セルマです。お久しぶりですね……クリス、くん」
その見慣れた笑顔以上に、目を閉じる前に一瞬見せた泣きそうな顔が、妙に印象に残った。
少し話しませんか、と誘われ、場所を移す。
研究所は各階に談話室が設けられている。いくつかテーブルと椅子が置かれ、誰でもいつでも自由に使える。飲食もできる。各研究室から距離があるので、少しぐらいなら騒いでも問題ない。
セルマさんがそのひとつに腰掛けたので、テーブルを挟んで向かい合う位置にある椅子に腰掛ける。
「……よく、私だって、分かりましたね」
苦い笑みを浮かべながらセルマさんが話し出す。改めてその姿を見る。彼女がそう言うのも最もだ。目の前の彼女は、僕の記憶にある姿とは大きく異なっている。
まず、服装。聖女である彼女は、白いワンピースに白いローブを羽織るのが常だった。しかし今は……街中で見かけるような、ごくごく普通の、庶民的な服を着ている。椅子にかけているローブだって、聖職者が着るものでない。
そして、髪。白かった彼女の髪は……真っ黒になっていた。といっても、毛先はまだ白っぽい。ある時期から急に髪の色が黒くなったのだろう。
つまり、セルマさんは聖女というより……ただの街娘、という状態だ。
「声や雰囲気は誤魔化せませんよ」
「そうですか? 結構バレないんですけどね」
不思議だ。セルマさんは箱入り娘で、世間知らずで、いい意味でも悪い意味でもとても純粋な人だったのだが……こんなにも落ち着いて、感情の読めない笑顔を見せてくるような人だっただろうか。
「見ての通り、今の私は聖女ではありません。ただのセルマです」
続けて何かを言おうとしたのだろう、言い終えてから間髪入れずに再び口が開かれたが……ゆっくりと閉じられる。その口から出かけた言葉が紡がれることは無かった。
「……聖女としての力を失ったので、今は休養中なんです。原因を調べるために、こうやって研究所にも通ってます。結果は芳しくありませんが」
力を、失った。つまり、魔力が無くなった、ということなのだろう。聖女本人としても、教会としてもただ事ではない事態だ。だというのに、セルマさんの顔は幸福に満ちている。その目は優しく細められていた。
「クリスくんは、お元気でしたか?」
「ええ、まあ。いろいろありましたけど、見ての通り元気ですよ」
「そう、ですか……よかったです。本当に、よかった」
何だろう。彼女の目は僕を見ている。僕を見ているのだが……目の前にいる僕自身を映してはいない。その瞳には歓喜が満ち、心から安堵していることが伝わってくる。いったい、彼女は、僕を通じて、何を見て、何を感じているというんだ。
「……ひとつだけ、お願いしてもいいですか」
戸惑う僕に再びセルマさんが問いかけてくる。頷いて見せれば、とても嬉しそうに微笑む。
「一度だけでいいです。シェレムと、呼んでくれませんか」
意味が分からない。分からないけど、どうにも逆らい難い。迷ったのは数瞬で、ご希望通りに呼んであげることにした。
「……シェレム」
それを聞いたセルマさんが胸に手を当て、目を閉じる。俯きがちの顔に、震える睫毛がよく見える。分からない。彼女はいったい、何がしたいんだ。
「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」
か細い声は震え、瞼に覆われていた瞳は僅かに潤んでいる。
「では、失礼しますね。クリスくん、お元気で。さようなら」
僕が返事をする前に、席を立ってコートを手に取り、談話室を出て行った。
…………え、意味が分からない。なんだ、あれ。しばらく見ない間に、外面も内面も変わりすぎなのでは。
困惑のあまり、しばらく席を立つことができなかった。
終始、気味が悪かった。