160 はんせい
目がシパシパする。
毒で自爆したのは目だけでなく、鼻や咽喉もバッチリやられていた。痒いし痛いし苦しいし、心なしか手足が痺れるような感覚もあった。下手に魔法で細工をしたせいか、どうも毒の回りが早い。恐ろしいバイオテロをしてしまったようだ。
毒が全身に回る前にベレフ師匠が用意してくれた大量の水で毒をしっかり洗い流し、それから必要最低限の回復魔法で粘膜の炎症を抑えてもらい……心身ともに落ち着くまでしばらく森から出られなかった。
ようやく落ち着いたころには日はすっかり昇りきり、本当なら先程の模擬戦の反省会に充てられるはずだった時間はとうになくなっていた。予想外の消耗に午後からの修行どころか昼食を摂る気にもならない僕を見かねて、ひとまず研究室へと戻ることとなった。
森からの帰り道。外壁門を抜け、大通りを歩き、広場を過ぎ、研究所の入り口をくぐり……その間、僕はずっと顔を伏せ続けた。視界に入るのはベレフ師匠のコートの裾とすれ違う人達の足元のみ。
「はい、着いたよ」
「……ありがとうございます」
涙は止まったものの真っ赤に充血した目は治らなかった。皮膚もまだ赤い。そんな顔を晒して大通りやら研究所の廊下やらを歩きたくない。恥ずかしい。自業自得だけど恥ずかしい。
そんな僕の思いを理解してくれたようで、いつものように甘くなったベレフ師匠の背に隠れるようにして研究室まで戻ってくることができた。
「出る時は声かけてね」
顔を覗き込まれ、咄嗟に俯く。いくらつい先ほどまでボロボロ泣いているところを見られていたとはいえ、こんな情けない顔を何度も見られたくない。
ふ、とすぐ近くで小さく笑う気配。それから僕の頭がふわりと撫でられ、書斎机へと影が離れていく。その姿をちらりと窺えば、椅子に腰かけて机の引き出しから資料を取り出し、すぐにその内容へと目を走らせるベレフ師匠の姿が見える。
仕事モードだ。どうやら修行は終わりらしい。僕の体調を慮ってか、反省会は中止となったようだ。とはいえ、修行が終わったばかりなのに、すぐ仕事って……どうやらベレフ師匠を疲れさせるにはまだまだ力をつけないといけないようだ。
静かにソファへと腰かけ、一息つく。その瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。当然と言えば当然だけど、体力の消耗が激しい。瞼はいつの間にか降りていた。
そのまま急激に襲ってきた眠気に逆らうことなく、意識を手放した。
ふ、と目を覚ました時には窓から差す日の光は斜めに傾き、ほんのりと橙色に染まっていた。夢を見ないほど深い眠りについていたようだ。ソファに横になっていた身体を起こし、伸びをする。かけてあった毛布がずれ落ちていった。
研究室を見渡すが、ベレフ師匠の姿はない。席を外しているようだ。
昨日今日とひたすらベレフ師匠に扱かれていたが、明日は明日で冒険者稼業が待っている。まだまだ疲れが残っていたとしても、ブランとノワールの待つ宿に帰らなければならない。もうしばらくしたらノワールが迎えに来てくれるので、それまでは研究所内で待機となる。
できるならばもうひと眠りしたい。仮眠室のベッドでぐっすりと寝たい。修行の後は身体的な疲労感だけでなく、魔力消費による倦怠感も合わさって非常に怠いのだ。しかし、そこまで時間に余裕は無い。
仕方なくソファに座りなおして全身を脱力させる。ああ、夕方には歩いて宿に戻らないといけない……めんどくさい。
とはいえ、ベレフ師匠の容赦ない指導によって魔力を効率よく扱えるようになったおかげか、それとも慣れただけか、倦怠感は修行が始まった頃に比べるとだいぶ楽になった。それに、今までに稀にあった、急激な魔力消費によって視覚やら聴覚やらが一時的に機能しなくなるだとか、気を失うといったことは今のところ経験していない。
しかし、それはあくまで徹底的に締め上げられた木魔法と雷魔法を使う場合のみだ。今日みたいに調子に乗って土魔法だとか風魔法だとかを使いすぎると、すぐに魔力が底をつく。
よほど僕の魔法は無駄が多いのだろう。未熟な魔法は控えるようにしなければ、すぐに五感が鈍ってベレフ師匠の前でブッ倒れることになる。そうでなくても、今日みたいにボロボロになる。嫌だ。そんな姿、これ以上見せたくない。
ソファに沈んだ身体が疲労を訴えてくる。あくびを噛み殺しながら酷使した腕や脚を撫でて労う。うーん、細い。もっと筋肉つかないかなあ……。
魔力は時間経過に伴って自然に回復する。その回復速度は個々の体調や周囲の環境等で変動することが知られており、特に環境中の魔力濃度によって大きく左右される。
そういう意味では王都はとても恵まれている。魔力石が多く採れるだけあって、王都の魔力は豊富であることが知られている。正確ではないだろうが、とある実験によると、王都で休息したときの魔力の回復速度は帝都に比べて2,3倍に及ぶとか。
そのような恵まれた環境では魔法科学の成長が促される。他国に比べると王国に在住している魔法使いの人数は多いし、都市部の魔道具普及率は高い。当然ながらその技術も優れており、王都は魔法科学の最先端都市といえる。
……話は逸れるが、魔力の定量的分析を試みている研究者の論文は面白い。特にこの回復速度に関してだと、いったいどういう休息の取り方が最も回復効率が良いのか、実際に己の身体を使って検証しているのだ。
例えばそれは睡眠であったり、横になるだけであったり、柔軟体操をしたり、歩いたり、瞑想をしたり、魔力を練ったり、読書をしたり……他にも様々な方法を試している。しかも、その方法が事細かに書かれている。被験者の身体情報はもちろん、生活習慣だとか、実験中の身体への負荷量だとか、天候だとか、心理状況だとか……感心するほどの事細かさだ。
そういう事細かさが大事だというのは分かる。結果を統計処理するときにその数値自体が信用できなかったらいけない。うん。分かる。
でも……考えちゃうじゃん。その論文を書いた人はベレフ師匠みたいに常に屋内で資料を読み漁っている、色白で線の細い人だろう。そんな人が、屋外で、自分の体調を真剣に記録しつつ、真面目な顔で、不慣れな運動していたのか……とか。
ふふっ……まあ、それはともかく……その論文によると、安静時と運動時では前者の方が回復量が僅かに多いとのこと。つまり安静にさえしていれば何をしていても特に回復量は変わらない、と。ていうか安静にしてなくてもそこまで回復量は変わらないようだ。
じゃあ好きに寛ぐしかないね、ということで僕はソファの上で膝を抱えて丸まっている。これは怠けているのではない、論文に準拠した行動なのだ。誰にも咎められる謂れは無いね!
ガチャリ、と静かに扉が閉まる音がした。真っ暗な視界の中、ぼんやりとした思考が今の状況をゆっくりと処理していく。
なるほど、僕は微睡んでいたらしい。
うっすらと瞼を持ち上げれば、直前の記憶よりも色濃くなった日の光と、少しだけ伸びた机の影が見える。身じろぐと、ソファに埋まっていた身体が僅かに軋む。傾いていた首筋が痛い。抱えていた膝を床に下ろし、首やら肩やらを回して身体を解す。
……ノワールが迎えに来てくれるまで、もう少しかなあ……。
研究室を見渡す。ベレフ師匠の姿は無い。てっきり戻ってきたのかと思ったけど、先程の扉が閉まった音は師匠が研究室を出ていった、ということか。起こしてくれてもよかったのに……資料室にでも行ったのだろうか。
ひとつ背伸びをしてから立ち上がる。窓へと歩み寄って研究所の玄関あたりを見下ろすが、ノワールらしき人影は無い。まだもう少しだけ時間に余裕がありそうだ。
さて、どうしよう。
いつもなら酷使した身体を解しているだけであっという間に時間が過ぎていた。そして疲労からぐったりしているとベレフ師匠からノワールが来ていることを知らされて、それで慌てて研究室を出ていく、という感じだったもんだから…………この微妙に残った空白の時間、特に使い道が思いつかない。
ソファに再び座り込めばもう一度眠れそうな程度に倦怠感は残っているけど、そこまで時間があるわけでもなく、だからといって早めに玄関に出て待つにはまだまだ時間がありそうで……。
んー……ベレフ師匠の手伝いでもしようかな。
窓から離れて廊下へと続く扉へと向かい、そのドアノブを握った。
資料室の扉をノックして中へと入る。人の気配は感じるが、どうやらその場を動く気は無いらしい。僅かな物音さえ聞こえない。もしかして、集中していて僕が入ってきたことに気づいていないのだろうか。
「師匠?」
扉に近い本棚から、その間を順番に覗きこみながら声をかける。気配はどちらかといえば資料室の奥の方から感じるので無駄だろうというのは分かってはいるが、念のためだ。もちろん、姿は見当たらない。さらには返事も無い。いったいどれだけ集中しているんだ……。
「師匠、探し物なら手伝いまブッ」
気配の位置はまだ遠いように感じていたため、どうせいないと思って勢いよく覗き込んだのが裏目に出てしまった。思った以上にすぐ近くにいた気配の主は、本棚の陰に隠れるように立っていた。それに気づかず思いっきり顔面から突撃してしまった。
「す、すみませ……ん」
すぐに離れて顔を上げ、誰にぶつかったのかを確認し……咄嗟に頭に浮かんだのは、やっちまった、の一言だった。
「資料室では静かに、気をつけて歩きなさい……先日ぶりだね、クリス君」
ヴィンス所長だった。この研究所のトップ。一番偉い人。そして……どうやら避けるべき、らしい人。冷や汗が背筋を伝った。やっちまった。僕を見下ろすその表情は笑顔だけど、いっそ恐ろしい。何を考えているのか分からない笑顔だ。
「お、お久しぶりです」
声が緊張で固くなってしまった。しっかりとその感情が伝わったのだろう、所長の笑顔に自嘲するような色が浮かぶ。
「すまない、驚かしてしまったね」
「いえ、そんな、僕の不注意です。それに場所を考えずに大きな声を出してしまい申し訳ありません」
頭を下げ、すぐに顔を上げる。所長が何か言葉を発しようとしていないのを確認し、口を開く。
「あ、あの、ベレフコルニクス主任はこちらにいらっしゃいませんでしたか?」
所長に対して特に悪感情は持ち合わせていないが、師匠が避けてくれと言うからにはあまり一緒にいたくない。資料室にいない師匠の行方を探している、という態度をとれば、すぐにここから離れても不自然に思われることはないだろう。
「ああ、彼か……彼にはつい先程頼み事をしてね、しばらくは戻ってこないだろう。ところで」
間髪入れずに所長が言葉を続ける。立ち去るタイミングを逃してしまった。
「君は彼の……ベレフコルニクスの弟子、だったね」
「はい、そうです」
なぜいきなりその質問を……?
「もしかしたらすでに聞いているかもしれないが、彼も私にとって……弟子、のようなものでね」
所長の目が、表情が、どことなく優しくなる。
「私は……親兄弟を既に亡くし、家庭も持たない、身寄りのない老いぼれだ。唯一の弟子である彼のことは、つい、息子扱いしてしまってね。もしかしたらそれが原因で肩身の狭い思いをさせているかもしれないが……そんな彼が、私と同じように弟子をとったと聞いた時には……嬉しかった。私のために孫を作ってくれたのかと、そう勘違いするほどに」
孫。師匠の弟子……つまり、僕が……?
「初めて君のことを聞いた時から、ずっと、会って話をしてみたかった。どうだろう、この後、時間はあるかい?」
長時間は無理だが……無くは、ない。でも……いや、師匠はあくまで会わないでほしい、としか言ってないし、会ってしまった以上、話すのは避けられないし……問題ない、のか……?
一瞬返答が遅れてしまったことで、僕があまり乗り気でないことを察したのだろう、はは、と小さな笑い声が所長の口から零れ落ちた。
「困らせてしまったか。どうも老い先短いと焦ってしまうな。君のことを聞き、それから顔を見るまで何年もかかってしまったものだから……」
何年も……そうか、遅くても僕が王都に来た3年前には僕のことを聞いていたのだろう。研究所で半年は過ごしたけど、それからは寮生活だった。もしかしたら、いつでも会えると思っていた矢先の出来事だったのかもしれない。
いったい、どんな気持ちだったのだろう。
所長が僕から少し視線を外す。顎に手を添え、口を何度か開閉する。
「実を言うと、君が研究所に再び訪れるようになったと聞いてから……研究室や資料室の近くを、わざと通ってみたり……君と話したい一心で、つい、ね。はは、年甲斐もない。恥ずかしいな」
本当に照れているのだろう、顎に添えていた手が頬を掻いたり、後頭部に当てられたりと忙しない。なんだろう、この人……思ったより、可愛らしいな……?
「そういうことで、君がよければだが、いつかゆっくりと話をしないか? ああ、もちろん無理はしなくていい。本当に空いた時に、気が向いたらでいいから――」
「第六曜日と第七曜日なら!」
言葉を遮った僕に、所長が驚いたように目を瞠る。その様子を見てついつい笑みが浮かんだ。ごめんなさい、師匠。僕にはどうしても……この人を嫌えそうにないです。でも、お願い通りに必要以上に接しないようにはするので……少しだけ、いいですか?
「六曜と七曜なら、研究所へ来ますので」
たったそれだけを聞き、所長が嬉しそうに破顔する。まだ最後まで言ってないですよ?
まあ、続く言葉は想像通りだとは思いますけどね!