154 だいいち
ある第一曜日のこと。
いつものように寝起きの悪いノワールをたたき起こし、ギルドへと向かう。寝起きは悪くとも一度覚醒すれば絶好調、機嫌よく僕に抱き着いてくる。抱き着きながら器用にも僕の動きに合わせるもんだから、ギルドまでの短くない道のりをノワールをくっつけて歩くことになる。
周囲の目を気にしてほしい。そうは思うものの、悲しいかな、慣れてしまっている僕もいる。
道行く人々から珍しいものを見るような好奇心や不快なものを見たという嫌悪感を含んだ視線を何度も投げかけられたんだ。初めは恥ずかしいやら恐ろしいやらで縮こまっていた僕も、そんな視線をものともしない2人と並んで歩いていれば自然と堂々とした態度になってしまった。
不思議なもので、周りを気にすれば気にするほど、周りも僕を気にするようだ。ノワールが背中にへばりついているのをさも当然かのように顔を上げてブランと会話していれば、以前ほど無遠慮な視線が向けられなくなった、気がする。
……僕が慣れたように、通行人も慣れてしまった、という可能性はあるけど。
ギルドの入口を潜る。いつも通り少し閑散とした建物の中で、掲示板へと向かう。不人気な依頼が残ると言っても、何日も掲示されたままの依頼は少ない。職員さんが上手く捌いているのだろう。第五曜日にも見たような依頼が掲示板の端にぶら下がってはいるけれど、目立つところに張られた依頼は真新しい。
何か、美味しい依頼は残っているだろうか……自然と目に力が入る。
「おひさ、クリス。顔が怖いよ」
真横から肩を叩かれ、顔を覗き込まれる。突然のことに肩が跳ねる。どうやら眉間に皺が寄っていたらしく、目の前に現れた人物がその皺を伸ばすように人差し指で眉根をぐりぐりと押してくる。
「ば、バートさん! おはようございます!」
そんなことをせずとも、既に僕の眉間は驚きで平らになっているだろう。もうちょっと、心臓に優しい登場をしてくれればいいのに。
数週間ぶりに会ったバートさんは、記憶にある姿とちっとも変わっていない。そりゃそうか。あっさりとした笑顔が懐かしい。驚きでいっぱいだった心情も、次第に嬉しさが込み上げてくる。無意識のうちに頬が緩んでいた。
しかし、なぜギルドにいるのだろう。朝の宿は忙しいはずだ。そりゃ、最も忙しい時間帯は過ぎているだろうけど……朝食後の片付けとか、宿泊客の対応とか、業務の確認とか準備とか、やることはたくさんあるはずだ。こんなところで油を売ってる場合じゃないでしょ。
再会に対する喜びよりも、バートさんがいることへの疑問を隠すことなくじろじろと観察する僕を見て、バートさんがからからと笑う。宿の制服ではなく私服に身を包んでいるからだろうか、随分と軽い雰囲気に面食らってしまう。なんか、変なの。
「そんな顔すんなよ。サボりじゃないから、仕事だから」
仕事……ここで? どんな仕事なんだろう。それは宿の従業員として、なのか、それとも情報屋として、なのか……気にはなるけど、聞いてはいけないだろう。曖昧に頷いておく。
「でも、懐かしい顔、見つけちゃったし」
なるほど油を売りに来たらしい。宿では何でも要領よく仕事をこなす、頼れる先輩なバートさんだったけど、真面目というよりは手を抜くのが上手い、ということか。客の目が無いとなかなか自由奔放な人だ。
「何より今話題のトレーナー君だし」
……調教師? 薄い笑みに細められた瞳の奥をじっと見上げる。その声音は揶揄っているようで、どこか真剣な雰囲気がある。
調教師とは、僕のことか。話題、とは。本心を探ろうといまいち感情の読めない瞳を見ていると、胸が圧迫された。背後からも圧力がかかる。呼吸が詰まる。視線が逸れる。
「何の用だ」
頭上から地を這うような悍ましい声が響いてきた。ぞわ、と鳥肌が立つ。反射的に顔を上げれば、ノワールの顔が見えた。表情はよく見えない。見えないけど、不機嫌だ。間違いない。あと苦しい。ノワールの拘束が苦しい。ちょっと、腕、緩めて。骨が。肺が。呼吸が。
「どーも、狂犬さん」
ま、まさかノワールに絞め殺されそうになるだなんて! いつもは僕の肩からだらりと垂れ下がっている両腕が、どうして今日に限って僕をこんなにがっしり掴んでるのかな! こんな目に遭うなら背中にくっつけたまま過ごすんじゃなかった!
そろそろ耐えきれずに小さく呻き声を上げたところで、僕を締めあげていた腕が離れる。助かった。見れば、ブランがノワールの腕を掴んでいた。ありがとう、ブラン。
「飼い主さんも大変だね」
からからとバートさんが笑う。ノワールを苦々しい顔で睨んでいたブランがバートさんの方を向く。す、と細められた金眼がバートさんを射抜く。
「そんな警戒しないで。ちょっとした取材だから」
なんだこの状況。笑みを浮かべているのはバートさんだけで、ブランとノワールから漂う冷気に身震いする。いったいなんなんだ。トレーナーとか狂犬とか飼い主とか、取材とか!
「向こうで話聞かせてくれないかな。お礼はするから」
「断る」
ノワールが即答した。ギルドホール内の休憩所へ僕らを促そうと足を踏み出したまま、バートさんが固まる。笑顔もそのまま、微動だにしない。なぜか僕の視線が泳ぐ。
数秒の間を置き、バートさんが復活した。笑顔は笑顔だけど、眉が下がっている。肩も竦め、困ったことを前面に押し出している。
「ダメかな。時間を取らせるつもりはないんだけど」
返答が無い。どうやらブランもノワールも話すことは無いらしい。気まずい沈黙、と思っているのは僕だけなのだろうか。
そんなに、駄目なのだろうか。何を話すのか知らないけど、そんな、互いに少しも譲れないのか、この交渉は。間に挟まれている、という気分になっている僕としてはさっさと話を終わらせたい。
いや、終わらせたい、というよりか……。
「何が聞きたいんですか?」
バートさんと久しぶりに話がしたい。それだけの理由でこの依頼を受けるのは駄目なのだろうか? ブランとノワールの手を引き、休憩所の空いたテーブルへと向かった。
……
――――4年前のことだ。
2人組の少年がギルドに現れた。どうやら彼等は初めてギルドを訪れたらしく、受付で職員の説明を受けながら手続きを進めていた。
何も珍しい光景ではない。ホールで雑談に興じていた冒険者達も、初々しい新人を横目に新たな門出を内心密かに祝っていた。
そういった新人に絡みたがる厄介な冒険者もいないことはないが、幸いにもその場にいた冒険者は誰一人として登録手続きを進める2人組に近寄ろうとはしなかった。容赦のない洗礼を経験した者、居合わせた者、その誰もが新人いびりをする必要性も欲求も感じなかったのだろう。いつも通り、賑やかで穏やかな空間だった。
しかし、次第に陰りが見えてくる。登録を済ませた2人組は早速依頼を受けるつもりでいたらしいが、どれもお気に召さないらしい。
よくあることだ。新人ならではというべきか、地味な仕事よりも派手な仕事を好んでしまう。その2人組も例に漏れず、職員に紹介された依頼を尽く突っぱねる有様だ。
職員も慣れたもので、依頼を紹介しつつもその必要性を淡々と説いている。周囲の冒険者も過去の自身を重ね、微笑ましいものを見るかのように表情を緩める者もいれば、同じ轍を踏まんとする後ろ姿に恥ずかしさやら苛立ちやらを感じる者もいる。しかし決して不快な空気ではなく、どこかくすぐったいような、いじらしいような、そわそわと落ち着かない空気が作り上げられていた。
さて、当の2人組と言えば、1人は飽きたかのように壁に凭れて腕を組み、相方を睨みつけるようにして待っている。片やもう1人は職員の話を聞いてはいるものの、不満を隠そうともしない膨れっ面を晒している。
気持ちは分からんでもない。しかし、褒められた行為ではない。そろそろ忠告するべきか――ホール内で休んでいた冒険者が立ち上がるのと、入口から新たな訪問者達が現れたのは同時だった。
途端に、ホール内に緊張が走る。
訪問者達3人の顔ぶれを見て、2人組を除いた誰もが悟った。
「あ? 見ない顔だな」
……洗礼が、始まる。
…………バートさんの語りが止まる。情報屋だからなのか、妙に語りが上手い。話に引き込まれてしまった。僕の頭の中には今から虐められるであろう少年2人組とその背に迫る熟練冒険者達の姿がはっきりと思い浮かべられている。
無意識に前へと乗り出していた身体を椅子の背凭れへと寛げる。円卓で向かい合うバートさんから左右に視線を向ければ、腕を組んで無表情に机上を見つめるブランと、脚を組んで肘をつき、あらぬ方向を睨みつけるノワールが目に入った。めちゃくちゃ興味が無いらしい。
「……訪問者達は2人組を目敏く見つけたかと思うと、わざとらしく大きな足音を立ててその背後へと歩み寄る。2人組は順番待ちが現れたとでも思ったのか、一瞥すらせずに職員と話し続けていた。それが訪問者達の怒りに触れたのか、3人のうちの1人が口を開けた」
佳境だな……! 突如始まった昔話に胸を高鳴らせる一方で、ブランが小さく溜め息を吐いた。