152 やめやめ
やっとゆっくり時間がとれた。
何が話したかったかって、そりゃもちろん手紙のやりとりだけでは伝えきれなかったお互いの1年間のこともあるけど、それよりも大事なことがある。僕の今後の身の振り方だ。
肝心なその話をできたのは食後、研究室に戻ってからだったけど……仕方ないんだ、僕が王都を出たり教会やら貴族の屋敷やらに忍び込んだり、その間は寮に戻らないどころか退寮しちゃったし、ついでに宿で名前を偽って働いてたし、そうなると手紙も届かないし、読めないし、返事書けないし……。
そういうわけで、半年近く音信不通だったことをぐちぐち言われてしまった。その理由はもちろん、何をしていたのかというのもそれはそれは事細かに追及された。まあ、ブランとノワールからの質問に答えたこともあったし、これを語るのは2回目。より現実味を帯びた演説ができた。まったく、僕は役者だよ。
文句を言われたのは少しだけで、それ以外は終始和やかに会話ができた。出張中の話も聞けた。もちろんほとんどが魔物に関わることだけど、各町村の話もしてもらえた。それが植生やら土壌環境やら、建築様式やら方言やら、そういった学術的な話が多いもんだから、これは彼女できないなあ、なんて聞きながら思ってしまった。
師匠、30歳だよ。三十路だよ。このままじゃ一生独身だよ。寂しくないの? 言わないけど。
「冒険者か、ふふ、そっかそっか」
2人掛けの大きなソファに並んで腰掛けて静かに話す。あまり好意的に受け止められない学校卒業後の希望進路を、ベレフ師匠は嬉しそうに繰り返した。てっきり反対されるものだと思っていた。意外な反応に師匠の顔をまじまじと見てしまう。
冒険者になりたいことだけではない。退寮したことだって、宿に泊まっていることも……それも、年上の冒険者2人と泊まっていることだって伝えた。その上でのこの反応だ。意外すぎる。もっと嫌そうにするかと思っていた。
「いいと思うよ。うん。いろんなところに行けるね。きっと、とても楽しい」
頬を緩ませ、宙を見上げ、目を細める。まるでベレフ師匠が冒険者になることを夢見ているかのようだ。いったいその目にはどのような光景が浮かび上がっているのだろうか。暗めの光魔法に照らされる師匠からは負の感情を少しも感じない。
「最近サボり気味だったけど、ちゃんと魔法教えないとね」
は……い? 頷きかけ、ふと考える。サボり気味だったのは最近だけだろうか。ベレフ師匠は放任主義だ。何か師匠から教えてもらったことがあっただろうか。思いつかない。真剣に考えそうになった僕の頭が撫でられる。
「基礎訓練だけじゃなくて、実践訓練も始めよう」
あ、いちおう、考えてたんですね、訓練内容…………師匠である自覚を持っていたことに内心驚いてしまう。こちらを見つめる師匠の顔を見上げる。いったいどんな修行をするつもりなのか、僕の頭を撫でながら、とても楽しそうに笑っている。
「模擬戦もしたいね。いい場所探さないとな」
うーん、それだけの時間が取れるのだろうか。無理はしてほしくないんだけどなあ。それに、卒業するまで1年も無い。そんな短期間で、僕を鍛え上げるつもりなのか。少し怖いな。
僕の頭を撫でていたベレフ師匠の手が止まる。師匠の笑顔もゆっくりと消え去る。真剣な顔つきになる。頭の手が肩に置かれた。
「どこにでも、好きなところへ行きなさい」
雰囲気が変わった。静かな、それでいて強い口調に気が引き締まる。
「私が君を保護するのは……今年度までだ」
終わりが来ることを告げられる。ベレフ師匠が保護者ではなくなる。突然の宣言に、その意味を考える。
成人前と言えど、実質、僕が独り立ちすることになるからか。成人と見なされるのか。それとも、距離ができて言葉通りに保護できなくなるということか。もしや、別れの挨拶なのか。来年度からは傍にいられない、ということか。
1年先のこと。たった1年しかないのか、まだ1年もあるのか……近いようで遠い未来を、いまいち実感できないその言葉を、ゆっくりと噛み砕く。
「王都に、王国に縛られず……むしろ、国外にこそ出ていくといい」
淡い光に照らされた瞳は、金褐色だった。
「師弟関係も、卒業と同時に解消する。だから、仲間と自由に、旅をしなさい」
ああ、そうか。
やっと、腑に落ちた。これは、まさに別れの言葉だ。師弟関係の解消。これは冒険者という選択肢を選んだ結果、か。いつ死ぬかも分からない。どこに行くかも分からない。そんな弟子を送り出す、師匠からの最大の手向け。
勘当の言葉。縁切りの言葉。突き放す言葉。それでいて、力強い後押しの言葉。未練を断つ言葉。応援の言葉。
「私を気遣う必要は無い。むしろ、気遣うなよ。子の負担になりたい親など、どこにもいない」
覚悟が決まった。僕は冒険者として生きていく。どこか曖昧だった意思が明確に形を持ったのを感じる。興奮で胸が熱くなる。そんな僕に対し、師匠は顔を曇らせた。
「でも、それまでは私は師匠だしクリスは弟子だからね。忘れないでよ。修行するんだから、ちゃんとここに来るんだよ。そうだ、後でちゃんと計画立てよう。仲間の2人にも伝えてね。サボっちゃ駄目だよ。約束すっぽかしたら泣くよ。クリスが来るまで待ってるからね。絶対だよ」
さっきまでの威厳は、師匠らしさはどこへやら。まるで駄々っ子だ。せっかく高まっていた感情が一気に萎んだ。内心で盛り上がっていたというのに。
「クリス……私はずっと、君の味方だから」
気弱な顔を見せたベレフ師匠が、僕の肩に顔を埋めた。なんだなんだ、忙しい人だな。困りながらもそのまま肩を貸していれば、そのうち寝息が聞こえてきた。
そういえば、夕食で、お酒、飲んでたな……くそッ、全部全部、酔った勢いかよ!
執務室、書斎机に凭れながら、窓の外をぼんやりと眺める。ベレフ師匠は仮眠室に運んだ。アルコールが入っているからか、少しの怒りをこめて雑にベッドへと転がしてもぐっすりと寝ていた。まあ、まだ疲れが残っているんだろう。それに無理して仕事を片付けたはずだし、今晩もベッドでゆっくり寝ればいい。
僕も、もう寝るべきなんだけど……魔法の光が漏れる、王都の夜景を眺める。そっと、胸に手を当てた。
何かがつっかえているような、この胸の蟠り。もちろん、物理的な違和感じゃない。心情的な違和感だ。ベレフ師匠の寝顔を見て、晒された喉仏を見て、ゆっくり上下する胸を見て……不快に思った。
てっきり、酔っぱらったベレフ師匠に腹が立ったのかと思った。前からよくあったことだ。でも、そんな、いつまでも燻るような感情じゃない。ちょっと仕返しをすれば満足する、その程度の些細な感情。
目を閉じる。胸を擦る。深呼吸をする。心臓が脈打つ音がうるさい。大きな鼓動が気持ち悪い。いったい、何を、こんなに、強く、強く、強く、訴えているのか。
目を開ける。凭れていた身体を両脚で支え、窓際から離れる。仮眠室に向かう。静かに扉を開け、身体を滑り込ませる。ベッドへと歩み寄り、静かに眠るベレフ師匠の隣に立つ。三つ編みを解いた金髪がシーツの上に広がっている。起きる気配は無い。
ベッドに片膝を立てる。ベレフ師匠の顔を挟むように両手をつく。
それでも師匠は目覚めない。
右手を喉に添える。
それでも、師匠は、目覚めない。
……何してんだろうね、僕。あーもう、やめやめ。馬鹿らしい。さっさと寝よ。