151 らしくない
所長さんは暇なんですか?
ヴィンス所長が手を後ろに組んで好々爺然とした笑みを浮かべている。背筋は真っ直ぐだけど、色素の薄い、赤みがかった髪色は、彼が組織の代表者らしく老齢であることを暗に示している。細められた目の中で僕へと向けられるその視線には隙を感じない。
「君のことは報告を受けているよ。教え子だそうだね。ベレフコルニクスが君の身元を孤児院から引き受けたとか」
そりゃそうか。研究室をどう使うかは責任者の自由だろうけど、さすがに子供を1人住まわせるとなると無許可では無理だろう。
ヴィンス所長が僕から本棚へと視線を移す。適当な本を1冊抜き取ると、白衣の胸ポケットからモノクルを取り出して右目に着け、ぱらぱらと中身を確かめる。真剣な顔つきは一瞬だけで、すぐに和らげられた。右目からモノクルが外され、人の好さそうな笑顔が僕に向けられる。
「ここの本は難しくはないか?」
どうだろうか。今まで読んできた資料達を思い浮かべる。それらを選んだ基準といえば、興味の有無はもちろんだけど、理解できそうな内容かどうかもかなりの部分を占めている。そして今のところはそれらの内容は理解できている。難しくはなかった。しかしそれはあくまで一部の資料のみの話で、全てに対して、となると……。
そんなことを考えながらヴィンス所長の問いに答えようと口を開きかけたところで、資料室の扉が勢いよく開かれた。
「ここに何か用事でも? 所長」
まるで僕達がいたことを知っていたかのように、間髪入れずに不躾な質問が投げかけられた。ヴィンス所長が驚いた様子を少しも見せずにその声の主へとゆっくりと振り返る。
ヴィンス所長の背中越しに資料室の出入り口を見れば、ベレフ師匠が引き戸に手をかけて無表情で立っていた。仮にも目上の人に対してなんて態度なのだろうか。我が師ながら呆れてしまう。
「なに、たまたま通りがかっただけだ。物音がしたので、つい、ね」
ヴィンス所長が僕の方へ振り返る。腕が伸ばされ、手が背中に触れる。背を押す手に従って前へと進めば、所長の隣に来たところで肩に手を置かれた。
「賢そうな子だ。指導を怠るなよ」
「もちろんです」
即答したベレフ師匠に笑いそうになり、しかし師匠の顔は笑うどころかむしろ不快そうに目が鋭くなっており、息を呑む。どうして睨んでるんですか。そういうの、良くないですよ。
「ではクリス君、機会があればまた会おう」
「はい」
優しく叩かれた肩に、穏やかな笑顔。いい人そうだ。僕も自然な笑みで返事ができた。いい人そうだけど、ただ優しいだけの、子供に甘いだけの人物にも見えない。きっと、厳しく教え導くこともできる人だろう。研究者である以上に、人格者である印象を受けた。
そんなヴィンス所長にベレフ師匠が向ける視線は険しい。その視線は所長が資料室を出て、足音が聞こえなくなるほど遠くへ姿を消すまで解けることはなかった。
今まで見たことのない表情に、戸惑いが隠せない。その表情自体もそうだけど、それが向けられる先がヴィンス所長であることにも理解できない。出入り口に立ったままのベレフ師匠を黙って見上げる。しばらくしてこちらに向けられた顔には余裕が無く、どこか深刻そうに強張っていた。
「変なこと、言われなかった?」
ベレフ師匠が僕に尋ねながら扉を閉め、速足で歩み寄ってくる。目の前で片膝を着き、僕の両腕をそっと掴む。初めて見るような真剣な顔にじっと見上げられる。
「いえ、特には」
「本当に? どんなこと話したの?」
何をそんなに気にしているのか……追及してくるベレフ師匠に正直に会話の内容を告げる。でも、本当にたいした話はしていない。というか、しようとしたところで師匠が現れたからできていない。
何も後ろ暗いところは無いのに、何度も何度も会話の内容を確かめられると罪悪感が湧いてくる。僕はいったい何をしでかしたというのか。僕が嘘偽り無く正直に話していると分かってくれたのか、やっと黙ったベレフ師匠の顔を見つめる。どうしたんですか、師匠。
「……これは、私の、我が儘、なんだけど」
ベレフ師匠が僕から視線を逸らし、小さく呟く。その声を聞き漏らさないように耳を傾ける。
「所長とは……あまり、会わないでほしい」
何故。その疑問を口にするべきか、悩む。ベレフ師匠が理由を教えてくれる気配は無い。おそらく師匠自身も無理な要求をしている自覚があるのだろう。視線は逸らしたままだし、声は小さいし、僕の腕を握る手は弱々しい。
少しの沈黙。ベレフ師匠の睫毛が僅かに伏せられた。小さく溜め息を吐く。師匠が俯く。理由を話すつもりはないらしい。何か後ろめたいことがあるのか、何なのか知らないけど……口角を僅かに上げ、口を開く。
「分かりました。気を付けます」
すごい勢いで顔を上げたベレフ師匠が目を見開いている。その顔が可笑しくて余計に笑ってしまう。師匠が変なことを言うのは今に始まったことじゃないし、無茶ぶりに振り回されるのは慣れている。それに、断る理由も特にない。師匠が会ってほしくないと言うのなら会わないようにする。絶対に会わないという保証はできないけど。
だいたい、お願いするんじゃなくて、命令すればいいのに。ベレフ師匠は師匠の自覚があるのだろうか。弟子なんて、雑に扱えばいいのに。師匠は師匠に向いていないと思う。主任というのも、師匠には荷が重いのではないだろうか。
ヴィンス所長と比べると……ベレフ師匠は甘すぎるんだよなあ。絶対、指導者には向いていない。研究者としても……どうなんだろう。
「それじゃ、戻りましょう! そういえば、何か資料を取りに来たんですか? 探しますよ」
この空気を変えるように声を張る。情けない顔のままのベレフ師匠に笑いかける。腕を振れば、僕の腕を掴んでいる師匠の手も一緒に揺れる。そこまでして、ようやく師匠が笑う。
ほら、さっさといつもの調子に戻ってください。こんな辛気臭いの、らしくないですよ。
すぐ終わらせる宣言をしただけあって、ベレフ師匠はトッシュさんが帰ってからも黙々と机に向かい、陽が落ちる前には仕事を終えていた。それはちょうど僕が迎えに来たノワールにもう1泊することを告げ、嫌がるノワールに捕まり、宥め、帰らせ、研究室に戻ったのと同時だった。
「夕食、どうしようか」
戻ってきた僕に尋ねてはいるものの、その手はすでにローブを手に取っている。外に出る気満々だ。だったらそう言えばいいのに。仕方なく、ローブを羽織ったベレフ師匠に提案する。
「どこか食べに行きますか?」
「うん、いいね、そうしよう」
嬉しそうに破顔したベレフ師匠から視線を逸らし、コートハンガーに掛けられている外套を手に取る。その間、笑みを隠すことができなかった。出張から帰ってきてからというもの、師匠の言動が可笑しくてたまらない。
お互い、特に何も変わっていないだろうに……外套を羽織ろうと広げた陰に、強まってしまった笑みを隠す。意識して顔を取り繕ってから、ベレフ師匠へと振り向く。その視線の先で、師匠はだらしない笑みを浮かべていた。
なんだ、その顔。耐えきれず吹き出してしまった。いくらなんでもそれは卑怯ですよ。それでもベレフ師匠はにこにこしている。まったく、なんて人だ。何を考えればあんな顔になるっていうんだ。それを見せられる僕の身にもなってくださいよ。
「何が食べたい?」
「そうですね……あ、そうだ、気になってたレストランがあったんです」
研究室から先に出て、扉を開けてベレフ師匠が出るのを待つ。お金を払うのは僕じゃないし、ちょっとぐらいお高いところで美味しいものを食べてしまおう。内心ほくそ笑みながら、店の場所を師匠に告げた。