149 おかえりなさい
研究所の入口前で、大通りに現れた人物をじっと見つめる。
僕に気づいた瞬間、手に持っていた荷物を放り投げ、両手をぶんぶんと大きく振ってくる。ついつい笑って小さく振り返す。相手はそれを見て満面の笑みでこっちへと走り出してきた。後ろではジュディさんとトッシュさんが放り投げられた荷物を拾い、後を追うことなくのんびりと歩いて来ている。
ゆるく結ばれた三つ編みが肩の上で跳ね、柔らかい春の陽射しに照らされている。その金色が懐かしい。
「師匠、おかえりな――ッ」
言い切らせてもらえなかった。後ろに数歩よろめく。喋るどころか息を吸うのも苦しい。少しも加減することなく全力で抱きしめてくる師匠の背中を叩く。苦しいです。放してください。早く。
「ただいま、クリス!」
腕の力を緩めてくれない。むしろどんどん力が増していく。痛い。苦しい。離れろ。力を込めて背中を叩く。殺す気か。それでも反応が無い。力づくで引き剥がそうと僕を締めつけている腕を掴む。押し広げようとするも、この姿勢では力が入らない。仕方なく腕から手を離し、握り拳を僕と師匠の間に滑り込ませる。僅かにできた隙間の中で頭の向きをずらす。久しぶり、新鮮な空気。僕は君を待っていた。
息を整え、未だに離れようとしてくれない師匠へと訴える。
「し、死ぬ……!」
再び隙間が埋まった。何故。僕は何かを試されているのだろうか。酸欠でくらくらしてきた頭で必死に考える。このままでは殺される。全力で抵抗しなければ、窒息死する。いや、圧死かもしれない。魔力を練る。小さくていい、少しでいい。とにかく早くしないと、死ぬ。全身が震えてきた。
必死に作った風魔法を発動させる。頭上から破裂音と風圧が襲ってきた。幸か不幸か、耳や目は塞がれていたし覚悟もできていたので僕に被害は無い。髪が乱れただけだ。くぐもった声と同時に瞼越しに光が届く。ようやく自由となった身で荒く呼吸をし、髪を整える。
落ち着いてきたところで、目の前でずっと立ち尽くしている人物を見上げる。両耳を押さえて目を細めていた。眉間に皺が寄り口がへの字に曲がっている。
「おかえりなさい!」
一点の曇りもない笑顔を作り、大声を出す。師匠の眉根がびくりと動く。目と口がぎゅっと閉じられる。苦痛に歪んだ表情に、作った笑顔が自然と歪む。ざまあみろ。
情けなく下げられた眉や引き結ばれた唇はそのままに、目がうっすらと開かれる。耳から手が離れる。目が合う。無言で笑って師匠を見上げる。その顔が目の高さに、さらに肩のあたりにまで下がる。片膝をついてしゃがんだようだ。浮かない表情のままの師匠に少し不安になる。僕、やりすぎましたか?
師匠の手が伸び、僕の腕を掴む。腕が引かれたので一歩前に出る。僕の腕を離した手が背へと回る。今度は軽く添えられただけだった。くすんだ金髪が頬に触れる。背が一定のリズムで叩かれる。
「ただいま」
囁き声に怒りの色は感じられない。安心した。腕を上げようとしたところで視界の端に人影が映る。視線を上げれば、ジュディさんとトッシュさんがだいぶ近くまで来ていた。上げかけた腕を下ろす。
2人は表情が見えるところまで来ている。ジュディさんは笑顔だ。トッシュさんは相変わらず険悪な目つきで僕を見ている。懐かしい顔を見れて嬉しい反面、一連のやりとりを見られていたと思うと恥ずかしい。師匠の肩を押して離れてもらい、立ってもらった時には2人はすぐ側まで来ていた。すぐに笑顔を向ける。
「おかえりなさい、ジュディさん。トッシュさんも」
「ああ、ただいま」
トッシュさんの険悪な目が細められる。まるで睨まれているようだけど、表情を緩めているだけだ。たぶん。少しだけ顔をのぞかせてきた恐怖を飲み込み、返事が無かったジュディさんを見れば、なぜか口をあんぐりと開けていた。それに負けじと目も真ん丸になっている。どうしたんだ。
「クリス君……」
「は、はい」
赤い髪が春の風に吹かれてさらさらと揺れた。風が止んでもずっと見開かれたままだった目の中で、茶色の瞳が僕を映し出している。本当に、どうしたんだろう。
「ジュディさん……?」
僕の名前を呼んだまま、ジュディさんが固まっている。どうしよう。トッシュさんを見上げる。トッシュさんもこの状況に驚いているのか、ジュディさんを見下ろして何度も瞬きをしている。師匠を見上げる。さっきまで僕のすぐ隣に立っていた師匠は、一歩離れたところから僕らをじっと見ていた。
改めてジュディさんを見る。どうすればいいんだ。
「クリス、身長伸びたね」
この状況をガン無視して突然声をかけてきた師匠にゆっくりと振り返る。師匠は嬉しそうに腕を組んで頷いていた。今それどころじゃないです。ジュディさんが固まってるんです。
「ジュディより高いよ」
何を――――
「あ、ああ、や、やっぱり……」
師匠の言葉への不満をたらたら並べるよりも早く、ジュディさんが崩れ落ちた。悲痛な声と荷物が落ちる音に驚いて顔を正面に向ける。3人分の荷物は地面に散らばり、トッシュさんは膝を折ってジュディさんの身体を支えていた。衝撃的な光景に理解が追い付かない。何事ですかこれは。
「わ、私が、一番、小さくなっちゃった……」
トッシュさんの腕にしがみついたまま、ジュディさんがへなへなと座り込む。そのまま一点を見つめて微動だにしなくなった。
……ええええ……そんなことで……。
ジュディさんが立ち直るのを待ち、それから必要な資料を分担して研究室まで運んで片付けた後は、ジュディさんとトッシュさんはすぐに帰った。僕は研究室に残っている。このまま泊まるつもりだ。ブランとノワールにもそのことは告げてある。
出張から帰ったばかりなので、ジュディさんは明日、トッシュさんは明後日を休みにしてもらうらしい。1日しか休めないで大変な気もするけど、しばらくは仕事の量を控えて早めに帰って休む日が続くらしい。よかった。
日はだいぶ落ち、夕陽が窓から差し込んでいる。湯浴みを終えた師匠がソファに腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めている。
疲れているんだろうな。いろいろ話したいことがあったけど……今日は、やめておこう。ハーブティーを入れたティーカップをテーブルに置き、隣に腰掛ける。師匠が窓の外から僕へとゆっくりと視線を移したのを気配で感じつつ、ソファの背もたれに身体を沈める。
「ありがとう」
髪がそっと指で梳かれる。小さく頷いておく。師匠がティーカップを手に取り、口に運ぶ。その様子をなんとなく眺める。肩にかけられたタオルに広がる湿った金髪が首に張り付いている。
かちゃり、とティーカップが置かれる音がした。師匠が再び背もたれに身体を預けるのを遮るようにして肩に手を置く。タオルを手に取り、ソファに膝立ちになる。不思議そうに僕を見上げる師匠に笑顔を向ける。
「髪、拭きます」
返事を待たずに魔法で温風を作る。湿った金髪をタオルに挟み込み、温風を当てる。それを見て師匠が微笑み、顔を前に向ける。
黙々と髪を乾かす。ふと師匠の横顔を見れば、目を閉じていた。緊張した様子は見られない。なんとなく、安心する。
髪を半分乾かし終え、もう半分を乾かすために反対側に移動して気づいた。師匠、寝てるんじゃないだろうか。全く動かないから気づかなかった。
少し悩む。この姿勢、辛くないだろうか。かといって僕に何ができるかっていうと……何も無い、よなあ。
とりあえず、少しだけ師匠に身体を寄せる。もし船を漕いだ勢いで倒れられても困る。いつでも支えられるように、身体をくっつけたまま髪を掬う。
僕はなんて師匠思いな弟子なんだろう。