145 まって
弱みを握られ、日々ブレンドティーを注ぎ続けているのはこの僕だ!
早朝、宿泊客の中に混じり、武装したレジーがお茶を飲んでいる。こんなことが許されるのかとバートさんに詰め寄ってみたけど、大丈夫大丈夫、と軽く躱された。しかも、仲直りできてよかったな、と笑顔で肩を叩かれた。まるで全てバートさんの想定通りに事が運ばれているかのようで、面白くない。
……結局、これは良かったのだろうか。僕がこの宿を選んだのは、高すぎず安すぎず、貧乏学生も金持ち貴族も来ないような、そんな宿で働きたかったからだ。学校にも貴族にも教会にも知られず、ひっそりと春まで過ごしたかったからだ。
だというのに、バレた。バレたけど、本当に秘密にしてくれているようだ。女将さんやバートさんからは何も言われないし、レジー以外の顔見知りが訪れる気配は無いし、本当にお茶を飲むだけだし、時々学校とかみんなの様子を教えてくれるし、なんか、うん、まあ、ありがたい、かな……?
いったい何が目的なんだろう。よっぽど聞きたがっているように見えたのか、何も言ってないのに苦笑しつつも教えてくれた。曰く、魔力が目当てらしい。シアンから飲食物を受け取れば、というやつである。
おそらく、嘘ではない、と思う。レジーの事情は知っている。僕も魔力のことを話されてからは協力したいと思っていた。いろいろと勘繰っていたから、そんなことか、と正直安心した。おかげでまごころたっぷりのサービスを心置きなく提供できる。
それに、やっぱり嬉しい。学校には行きたくないけど、みんなに会いたくないわけじゃない。でも、嗅ぎつけられる危険を冒してまで会おうとは思えない。そんな中、一番信頼できるレジーが会いに来てくれる。いや、目的は魔力の方だけど、それでも会うことができる。
あと、女装をやめることができた。変装は続いているけど、ちょっと髪色や髪型や表情や格好や口調や声音が違う程度だ。ほぼ僕のままだ。気が楽だ。嬉しい。
「似合ってたけどな」
残念そうに言うバートさんには申し訳ないけど、全く嬉しくない。時々僕の顔や身体をじっと見つめるバートさんが怖い。そんなに誰かを着飾らせたいなら女性の従業員にお願いすればいいのに、どうも僕を女装させたいらしい。やめてください。
そして、唐突に住み込み生活は終わることとなった。
「クリスぅぅぅぅぅぅぅ! ただいまあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うっ」
受付の昼番を任され、来客の対応をしたり食堂へと向かう客を見送ったりと、朝と晩に比べれば遥かに暇な業務を淡々とこなしていた。また扉が開いて新たな客が来たので、笑みを浮かべ、歓迎の言葉を告げ、お辞儀をしようとした。それを妨げるかのごとく、扉の隙間から黒い影が飛んできた。
「こんなとこにいたら分かりづらいだろー! 見つけるのに時間かかったじゃないかー!」
何がどうなったのか、前から飛びついてきたノワールは後ろに回って背後から僕に抱き着き、頭に顎を乗せているようだ。覚悟していた衝撃がこなかったので、全身が強張ったまま、しばらく棒立ちになってしまう。
「で、ここどこ?」
「……宿、だよ」
ノワールがきょろきょろと回りを見渡すのに顔を動かせば動かすほど、髪型が崩れていく。そういえば最近暖かくなってきてたけど、まだ帰ってくるにはちょっと早くないか。依頼が終わったのか、それともまた休みをもらったのか、どっちだろう。早くブラン来ないかな。説明がほしい。
「ノワール、ちょっと、出て。僕、今仕事中」
「ん? え? あれ?」
腕を解き、背中を押して受付の外へと追い出す。ノワールはおとなしく出てくれた。早くブラン来ないかな。僕1人じゃ制御できない。
「なんだ、そのカッコ」
背を押されながらも器用に身体を反転させ、正面から僕の姿をまじまじと見る。真ん丸に見開いた目の中で、水色の瞳が頭の先から足の先まで何往復もしている。崩れた髪型を直せば、視線が髪へと固定される。
「……色が、形が、ちがう」
へにゃり、と顔が情けなく歪む。
「クリスがクリスじゃない……」
いや、僕だけど。否定しようと口を開け、また閉じる。ノワールの言う通りだった。今の僕はシアンだ。クリスじゃない。しかし、ノワールは僕の姿を見る前からクリスだと断定して飛びついてきた。恐ろしい感知機能だ。どうしたものだか。
「すいません、うちのものが何かご迷惑をおかけしましたか?」
バートさんが僕を隠すように前に出て、ノワールと向かい合う。ノワールの顔が見えなくなった。
「誰だアンタ」
「申し遅れました。私はバート、彼の上司です」
バートさん、僕の上司だったんだあ……偉大なる先輩の頼れる後ろ姿を見上げながら、のほほんとそんなことを考えてしまう。しかし、この状況、あまり良くない感じだよね。問題起きちゃってる感じだよね。
「上司……?」
ブラン早く来ないかなあ。
「クリスは今日でここを辞める。どけ」
「え」
なんで勝手に決めてんの。
「恐れ入りますがお客様、彼はシアンであってクリスではありません」
バートさんの、いつもと変わらない、感情の薄い、あっさりとした声音が響く。このままノワールの相手をしてもらうのはとてつもなく申し訳ない。そう思うのに、僕が前に出ようと思うのに、口を挟もうと思うのに、なかなかタイミングがつかめない。2人のやりとりが続く。
「どっちでもいい。今日で辞める」
「それを決めるのは彼でありお客様ではありません」
「まだアンタに言ってないだけで今日辞める」
「ではこの後、彼から直接聞きますので」
「その必要は無い。さっさとどけ」
「お受けいたしかねます」
「しつこいヤツだな」
「申し訳ございません」
ノワールの言葉に棘がある。さすがに見ていられない。バートさんの脇から無理矢理2人の間に出ようとするも、目の前に伸ばされた腕に阻まれて出れない。一瞬見えたノワールは、僕の方に視線を向けていた。あまりの無表情にちょっと怖くなる。怒ってる?
「おい、何してんだよ」
「何がでしょうか」
「クリスの邪魔してんじゃねえ」
「恐れ入りますが仰る意味が理解しかねます」
「てめえ……」
空気が変わる。あ、これ、魔力だ。ダメなヤツだ。怒らないで、ノワール。宥めるように僕も魔力を滲ませる。魔力がぶつかっている、気がする。なんとなく、空気が和らいだ……気がする。そうそう、落ち着いて、ノワール。
「他のお客様の御迷惑となりますのでお引き取り願えますでしょうか」
「……」
「お客様?」
一瞬の無言。今しかない。バートさんの腕にしがみついて顔を覗かせる。
「ノワール、仕事終わってから、ね」
「………………わかった」
口を尖らせたノワールを見て、笑ってしまった。なんて顔してるの。むすっとしたノワールと目を合わせていると、視界の端で扉が開いた。
このタイミングで訪れるだなんて、なんて運の悪い方か。そう思って視線を向ければ、僕が待ち焦がれていたブランだった。すぐに僕を見て、ノワールを見て、バートさんを見て、何かを察したのか、眉間に皺を寄せたブランが溜め息を吐いた。