144 え、あ
性別と名を偽り、登校拒否をしている学生とは僕のことだ!
「こんにちは、マゼンタさん」
「あっ、こんにちは!」
シアンの連休は延長されそうだ。なぜそんなことが許されるのか。シアンはここの宿泊客に人気なんだぞ。早く戻らないといけないだろ。ねえ、5日だけじゃなかったの。5日でどうにかなるんじゃなかったの。お願いします。助けてください。
「今日は魚で」
「はあい! お好きな席でお待ちください!」
常連客ができてしまった。今日で4日連続の訪問だ。その方はいつも1人でこの食堂に昼を食べに来る。ぱっと見だとその顔つきや身体つきからちょっと怖そうな印象を受けるけど、口調は丁寧だし、意外と紳士だし、眼差しは優しい。そして、妙に僕を気に入っている。
頼む。やめてくれ、レジー。そろそろ僕も限界がきそうだ。
厨房へと駆け込む。腕を組み、食堂の様子を見つめているその横顔へと駆け寄り、組まれた腕にしがみつく。飛びついた僕をしっかりと支えてくれるその腕を握り締める。
「バートさん……」
「安心しろ、マゼンタ。お前は可愛い」
本気なのか冗談なのかよく分からない顔で僕に告げる。何を安心すればいいのか分からない。僕を助けてくれそうにもない。しばらく見上げてみたが、僕を見下ろすバートさんの表情に変化は無い。
「……お魚ランチ、おねがいします……」
料理人の彼がこちらの様子を窺っていたので、注文内容を告げる。了承の返事と氷冷庫を開ける音が耳に届く。バートさんは黙ったまま僕を見下ろしている。
……諦めて、手を離す。たぶん、バートさんは面白がっている。これ以上、どれだけ訴えても何もしてくれないのだろう。辛い。俯いた僕の頭が撫でられた。僕はいつまでこの格好を続ければいいのだろう……。
「お待たせしました」
厨房と食堂を隔てる仕切りの陰からそっと覗く。偉大なる先輩が僕の代わりにレジーへと食事を運んでくれている。まさか、僕の泣き落とし作戦が通用するとは思わなかった。嬉しい。さすがバートさんだ。好き。
腕と脚を組んでいたレジーがバートさんを見上げる。そして僕の方へ視線を向けた。
「ッ!?」
慌てて隠れる。バレた? 覗き見バレちゃった!? 心臓がバクバク言っている。僕、音とか立ててなかったよね? この仕切り、実は向こう側から見えるとかじゃないよね!? 膝を抱え、息を殺してじっとする。
バートさんの足音が近づいてくる。その音にひたすら耳を傾ける。まだ心臓がうるさい。そりゃそうだ。目が合ったもん。絶対、目が合ってたもん。なんで? どうして? え、怖くない? レジー怖くない??
「大丈夫だ、マゼンタ。自信を持て」
一緒になって隣にしゃがみ込んだバートさんが真顔で僕に告げる。分からない。何なんだ、そのアドバイス。自信を持って、どうしろと言うんですか。さっぱり分からない。背を優しく叩かれた。そんなことされても分からない。
でも、少し落ち着いた。心臓は静まっている。バートさんの気配を近くに感じつつ、再び、そっと、陰から顔を出す。レジーはこちらを向いていなかった。ほっと息が漏れる。
どうやらまだ食事に手をつけていないらしい。行儀悪くも机に肘をつき、口を手で覆っている。どうしたのだろう。
その格好のまま、しばらく食事を見下ろしていた。そして、ようやく、反対の手をフォークへと伸ばす。その緩慢な動きを、じっと目で追う。
――――カン、カランッ
反射的に厨房から飛び出した。レジーの身体が傾く。フォークが床に落ちている。嫌な予感がする。一瞬で距離を詰め、レジーの身体を支える。
「レジー!」
ぐったりとしたレジーが僕の身体に力なく寄り掛かる。目は閉じている。呼吸はしている。椅子から落ちそうな身体を起こし、頭を抱え込む。
「ねえ、レジー、返事して。聞こえる? 大丈夫?」
動かない。返事が無い。崩れ落ちそうなレジーを必死に抱き留める。なんで、なんで、なんでなんでなんで――――ッ
「レジー、お願い、レジー、返事して……」
「……クリス」
身体を離す。見下ろせば、レジーの茶色い瞳が薄く開かれ、ぼんやりと僕を見上げていた。ああ、よかった。意識はある。
「うん、そう、大丈夫? もしかして……魔力が?」
どうしよう。どこか、休めるところ……空き部屋、いや、僕が借りている部屋に運ぼう。運べるだろうか。いや、運ぶんだ。
「とにかく、休もう。動けそう?」
レジーがじっと僕を見上げている。もしかして、喋るのも難しいのだろうか。話には聞いていたけど、まさかここまでとは。レジーを抱きしめる腕に力を込める。
「大丈夫、無理なら無理で――――」
「クリス」
腕を掴まれる。ゆっくり、腕を解かれる。レジーの顔と、僕の腕を掴むレジーの手を、交互に見る。
「やっぱり、クリスか」
「うん、そうだよ、それより、はや、く…………」
あ。
「話が、ある」
しまった。演技か。やられた。
しかし、時すでに遅し。レジーの手が僕の腕をがっしりと掴んでいる。捕まった。逃げられない。肩から力を抜く。抵抗の意思が無いことを示す。それでもレジーの手に込められた力は緩まなかった。
バートさんは知らんぷりをしている。僕と目を合わせてくれない。ひどい。目の前ではレジーが険しい顔で昼食をかきこんでいる。こわい。僕は向かいの席に腰掛けて俯いている。つらい。
レジーが静かに食器を置く。コップを手に取り、水を飲む。コップを静かに置く。どうやら食べ終わったらしい。脚を組むのが見えた。対する僕は……スカートと、眼鏡と、カツラと、化粧と……つらい。つらすぎる。拷問だ。早く話を済ましてくれ。
「俺のこと、覚えているんだな」
な、何を言っているんだ……レジー、正気か? 正気なのか? 覚えてるに決まってるじゃないか。険しい顔のままのレジーをまじまじと見つめる。それとも皮肉なのか? ずっと顔を見せなかったのは俺のことを忘れたからじゃないんだな、って、そういうことでしょうか。だとしたら誠に申し訳ないです。ばっちり覚えております。忘れてなどおりません。
「しかも、ここで女装して働いているとはね……」
うぐっ。それを言われると顔を合わせるのがつらい。再び俯く。バートさんが静かに食器を下げていった。こっちに来たならついでに助けてください。誰のせいで女装してると思ってるんですか。これは僕の意思じゃないことをレジーに説明してください。お願いします。
「どういうつもりだ」
「ごめんなさい」
頭を下げる。こうなったら謝罪あるのみだ。平謝りだ。
「謝れなんて言っていない。何を企んでいる。お前なら今がどういう状況か分かっているだろう」
え、企んでいる、ですか。別に、そんな、何も……それに、どういう状況か、なんて言われても……ただ、貴族と教会の監視の目が厳しそうな学校に近寄りたくなくて、でも王都にいる限りいつかは居場所がバレるわけで、でもブランとノワールを待たなきゃで、そうなったら名前と姿を偽るしかなくて……なんて、言えないし。
「言えないのか」
仮にでっちあげるとしたら……学校行きたくない、勉強飽きた、みんなに会いたくない……うーん、弱いな。家出したかった、反抗期なんです、ちょっとした冗談のつもり……うーん、ひどいな。
「なら言わなくていい」
「えっ」
顔を上げる。頬杖をついたレジーが僕を見下ろしていた。その表情は先程に比べれば柔らかい。といっても険しくないだけで、ただの無表情だ。これはこれでこわい。
「ここにシアンっているだろ」
「はい、僕です」
「…………そうかい」
溜め息を吐かれた。
「これから毎日、茶、飲みに来る」
レジーが唇の端をにやりと持ち上げた。
「毎日、シアンが淹れた茶を飲ませてくれれば黙っといてやる」
「え、あ、うん、わかった」
レジーが席を立つ。え、そんだけ? 呆然と見上げていると、貨幣を数枚渡された。
「飯代だ」
「あ、はい。ありがとうございました」
それだけ言って、予想外にあっさりと、レジーは帰っていった。