143 まぢむり
シアンは5連休だ。
食堂で宿泊客へと朝食を運ぶ。宿泊客は僕を見て笑っている。それを見て僕もにへらと笑う。飴をもらった。わーい。
「マゼンタちゃーん」
「はあい」
後ろから馴染みの宿泊客に呼ばれた。返事をして振り返れば、宿泊客がマグカップを持ち上げて僕を見ていた。
「コーヒーおかわりちょうだーい」
「分かりましたあ」
厨房へと走る。スカートがぱたぱたとはためく。笑顔のバートさんとすれ違った。気にしない。コーヒーサーバーを手に取り、食堂へと走る。その様子を見て再びマグカップを掲げてくれる。表情を緩め、馴染みの宿泊客の元へと走る。生温かい視線が全方向から向けられている気がする。
「どうぞ!」
「はーい、ありがとね」
コーヒーを注げば、飴を差し出される。コーヒーサーバーを机に置き、えへへ、と笑って両手を伸ばす。受け取ろうとしたところで飴が消えた。眼鏡がズレた。
この方は悪戯タイプらしく、僕がマゼンタになってからは分かりやすく揶揄ってくれる。消えた飴を探していれば、口の中に飴が放り込まれた。いい人だ。
「眼鏡ズレてる」
馴染みの宿泊客から両手が伸びてくる。眼鏡を直してもらった。フレームで分断されていた視界が元通りになった。
「あひはほうほはいあふー!」
食堂に笑い声が溢れる。にこにこしながら食堂を見回す。空いた食器を見つけて駆け寄る。
「かたふけあふねー!」
「うん、ありがと」
女性の宿泊客が笑いながら、再びズレた眼鏡を直してくれた。お辞儀をして厨房へと走る。
「マゼンタ、絶好調だな」
「はい!」
バートさんがにやにやと笑っていた。満面の笑みを返してやった。
たしかに、シアンは働いていない。しかし、僕はマゼンタとなって食堂で働いている。赤みの強い紫色の髪を肩まで伸ばし、眼鏡をかけた、とっても天然の女の子だ。垂れ目なせいで、いつも笑って見えちゃう可愛らしい女の子だ。
全然嬉しくない。
バートさんが突然部屋に来たかと思うと、元から変装してるんだしこれぐらいできるだろ、とこんな姿にされてしまった。悲しいかな、男らしくない僕はつまるところ中性的で、違和感無く女の子となった。なってしまった。なれてしまった。
もちろん、僕は望んでこんな格好をしているんじゃ、ない。断じて、ない。
しかし、せっかく用意してもらったというのに、この変装を断る、のは……少々、申し訳ない。しかたないので全力でなりきることにした。結果は上々だ。宿泊客の方々にはバレていないようだ。信じられん。少しは面影とかあるでしょうよ。誰か気づいてくれませんか?
……これなら、レジーにもバレないだろうけど……。
「ここのお勧めは何ですかね」
バレないだろうけど、バレそうだから帰りたい。
「今の時間はランチセットがありますよ!」
宿の食堂は昼と夜には外来客にも対応している。夜の営業はいわゆる酒場となるので未成年の僕は出ていないけど、昼はお酒を出していないので僕も出られる。そのため、今みたいに外来客の応対をすることもある。
「……肉と、魚と、卵か」
「お肉が1番人気ですけど、私は卵をお勧めします!」
「卵、ですか?」
レジーの鋭い視線が僕を貫く。その視線がただの疑問の視線なのは分かっているんだけど、でも、その……笑顔が引き攣りそう。
「……大きな声じゃ言えないんですけど、お肉とお魚のセットに負けないだけの質になってますからね……」
「なるほど、ではそれで」
「かしこまりました!」
お辞儀をする。眼鏡がズレた。慌てて直して厨房へと戻った。新たな注文を聞こうとこちらに意識を向けてくれている料理人の彼を無視し、思わず呟く。
「バートさあん……」
僕、もう、無理です……助けて……そう思って名前を呼んだのに、偉大なる先輩はまさかのご指名を受けていてこの場にいない。バートさんの代わりに、事情を知る料理人の彼が苦笑しただけだった。
「お待たせしました!」
厨房で気合いを入れ直し、マゼンタとしてレジーの前に再び姿を見せる。レジーが僕を見ている。視線が痛い。この視線は何なんだ。レジーの顔が見れない。バレてるのだろうか。やめてくれ。僕の名誉のために気づかないでくれ。頼む。
「ごゆっくりどうぞ!」
お辞儀をする。眼鏡がズレた。直そうと手を伸ばしたところで、眼鏡が落ちた。
「わっ、す、すいません」
どうしてバートさんはこんなに大きな眼鏡を用意したのだろう。つるを曲げるなりして直したいところだけど、勝手にそんなことしていいのか分からなくてずっとこのままだ。ギリギリ顔に引っかかるし、余計にアホっぽくなるし、これでいいのかなあ、と納得半分、諦め半分で使い続けている。
だから、今、レジーに風魔法で眼鏡を落とされて、すごく、後悔してる。
レジーが席を立つ。僕が拾おうとした眼鏡を先に拾われる。すごく、焦る。マゼンタなら……このまま、探すべき、か?
「大丈夫ですか」
「は、はい」
眼鏡どこだー、眼鏡がないよー。しゃがんだまま、手を宙に浮かせ、床に手をつけたり離したり、ふらふらと動かす。その腕を掴まれた。腕を引かれる。その方向に顔を上げる。レジーが隣で膝をついている。口をぽかんと開けていると、眼鏡を着けられた。
「あ……ありがとうございます」
「どうも」
顔を伏せて立ち上がる。怖い。レジー怖い。笑顔だけど怖い。膝をついたままのレジーに見上げられる。痛い。視線が痛い。誤魔化すために熱魔法で頬を赤くする。
「し、失礼しました……」
数歩後ずさり、お辞儀する。逃げるようにして厨房へ駆け込む。一連のやりとりを見ていたであろう料理人の彼が僕に視線を向ける。その視線に応えるように呟いた。
「バートさあん……」
どうして今日に限っていないの……偉大なる先輩から返事は無い。代わりに、料理人の彼が僕の頭を撫でてくれた。
「え、手荒な真似すんなって言うから」
控え室で向かいの席に座るバートさんが飴を口の中に放り込んだ。机の上には大量の飴とズレる眼鏡。見やすくなった視界で、バートさんを睨む。全ての不満をこの視線に込めるつもりで睨む。バートさんは笑った。
「紅茶好きって言ってもらえて嬉しかったし?」
「……だからって、どうして、こんな」
いろいろと問い詰めたいことが多すぎて言葉が続かない。バートさんが机の上に置いてあった眼鏡を手に取り、そっと僕の顔に着ける。正面からじっと僕の顔を見つめ、眼鏡のつるに沿って指を這わせる。耳の後ろ、赤紫色の髪の中にバートさんの手が潜り込む。
満足したようにひとつ頷くと、僕の顔からそっと眼鏡を外し、手元に引き寄せ弄り始めた。いつの間に用意したのか、バートさんの前には先端が尖った細長い工具がいくつか並べられている。あの、すいません。僕の話聞いてますか。
「俺の独断でできる範囲で、最も面白そうで許してもらえそうな選択肢を選んだだけだ」
手慣れた様子で眼鏡のネジを締めたり緩めたり、レンズを外したり、つるを曲げたり……そうして再び僕の顔に眼鏡を着けるバートさんを目で追う。
やっぱり、バートさんって、ただの従業員じゃないよなあ……。
されるがままにじっとしていれば、前髪まで弄り始めた。斜めに流してみたり、分けてみたり、癖をつけてみたり……そうして再び眼鏡が取られる。
「危なくはないんだろ?」
「……でも、心臓に悪いです」
再び眼鏡を着けられる。僕の両頬に手を当て、顔を左右上下に向けさせる。正面に向き直れば、真剣な顔をしたバートさんが2回頷き、僕の頬から両手を離した。どうやら眼鏡を直してくれたらしい。顔を動かして、ズレないのを確認する。正面のバートさんの方を向けば、ふ、と目尻を下げ、僕の前髪を横に流した。
「大丈夫、可愛いから」
いや、違う。そういう問題じゃない……。