142 うそでしょ
シアンがモテモテだ……。
正直、嬉しくない。
しかし、ここの宿はいい人ばかりだ。僕が何かを言う前に、女将さんは僕の身を守ってくれることを約束してくれた。一度広まってしまった噂はもうどうにもできないけど、豪快な女将さんが築き上げた人脈で僕を守ると宣言してくれた。危険な気配があればすぐに知らせてもらえるらしい。
だから、ずっとここで働け、ということなのだろう。
……いや、無理です。僕がここで働くのは、ブランとノワールが帰ってくるまでです。つまり春までです。春になれば『シアン』はいなくなります。もしくは教会とか貴族が捕まえにくるまでです。その時は迷わず逃げます。職務放棄で『シアン』はバックレます。ごめんなさい。
そこまで直球には言ってないけど、とにかく最長でも春までしか働く気が無いことは伝えた。女将さんは残念そうにしていたけど、僕が訳ありなのを察しているので受け入れてくれた。
というわけで、春まで全力で働け、ということになった。
まじかあ……。
指名制、とは……宿の諸サービスを提供してくれる従業員を1名選べる、ということだ。宿泊客のみ利用可能。ただし、宿泊費とは別に指名料をいただきます。あと、チップ払えよ、という暗黙の了解があります。ご了承ください。
利用可能なサービスとして、起床、食事、清掃、リラクゼーションが挙げられる。ただし、食事は2回目以降、リラクゼーションは内容によって追加料金をいただきます。あと、チップ払えよ、という暗黙の了解があります。ご了承ください。
リラクゼーションは従業員によって対応可能なサービスが異なるため、事前に確認する必要がある。間違えたから変えてくれ、なんてのは受け付けていない。ただし、従業員に対してサービス対象外の過剰な要求があった場合、直ちに指名取り消し、違反金をいただきます。ご了承ください。
つまり、『シアン』から魔力をもらいたけりゃ金を寄越しな、という豪快な制度である。
というのは冗談で、意外と僕に指名は来ない。古参の宿泊客は僕と話せたら今日はいい日だなあ、ちょっくら張り切って働いてくるかあ、ぐらいにしか思っていなかったようで、指名する気が無い。新参の宿泊客は初めこそこぞって指名してきたけど、金がかかるし古参からの目が怖いしで、しばらくすれば指名の嵐は落ち着いた。
僕としては指名された方が忙しくなくて嬉しいんだけどね。
意外だったのは、バートさんが人気なことだ。確かに僕が勝手に尊敬している偉大なる先輩ではあるけれど、情報通なバートさんは指名してくれた方の望む情報をどこかから仕入れてくるらしい。そして、依頼と報告の計2回の指名、さらに情報料を頂くので、結構稼いでいるらしい。油断できない。
とか考えていると、思い出したように指名されたりする。
「朝は、あまり食欲が無くて、身体も重くて……」
僕を指名する方は、なぜか体調に悩みを持つ方が多い。僕は医者じゃないんだけどなあ、なんて思いながらもカウンセリングをする。
「恐れ入りますが、腕を出していただいてもよろしいでしょうか」
女性の宿泊客が、ぼんやりした顔で右腕を僕に差し出す。その腕にそっと指先を添えて、脈を測る。ついでに呼吸数も数える。ついでに指先にも触れて体温を確かめる。こういうのは、医者に任せれば早いと思うんだけどなあ……。
「朝食をご用意いたしますね。好きな献立や食材はございますか?」
「食べやすいものをお願いします……」
「かしこまりました。お茶を淹れますので少々お待ちください」
ワゴンに並べた香辛料やハーブ、茶葉や乾燥野菜、果物、花弁等々を温めたティーポットへと入れる。色と香りと味と効能を考えていろいろ入れる。こういうのは、もっと、専門に勉強した人がやればいいと思うんだけどなあ……。
「いい香り……」
女性の表情が和らぐ。それはよかったです。
「お待たせしました」
ブレンドティーを注いだティーカップをテーブルに置く。女性が手に取り、そっと口に当てる。
「……美味しい」
たぶん、お世辞ではないのだろう。表情が緩んでいる。よかったよかった。
「では、失礼いたします」
女性って、大変だなあ。典型的な諸症状と、先程の女性の宿泊客の印象からどういう食事やサービスを提供しようかと考えつつ、厨房へと急いだ。
僕がしているのは、話を聞いてあげて、それっぽいお茶を出して、それっぽい食事を出して、それっぽい浴用剤を出して、それっぽいマッサージをする程度のことだ。たった1日で不調が治るわけないじゃないか。これをきっかけに生活習慣を変えましょう、僕にできるのはそのことを全力で伝えるぐらいだ。
今のところ、ただの疲労を訴える方ばかりなので、それっぽくやり過ごせている。これだけ休めば翌日は嫌でも元気になる。そのおかげで魔力が強化されてるのだと思いたいなら思えばいい。単純に疲れが取れて集中しやすくなって魔法が上手く扱えるようになってるだけだと思うけど。とにかく、僕は知らん。
そんなことより、本当に病気の方が来てしまったらどうしようかなあ、というのが最近の僕の悩みだ。そういう時はバートさんに良い医者を紹介してもらえばいいだろうか。いざという時のために事前に話を通しておいた方がいいかもな。
そんなこんなで、今日も僕は元気です。
「冒険者の知り合い、いる?」
控え室で硬貨を指で弾いていると、バートさんが隣に来た。
「いますよ」
弾いていた硬貨を手に取ってバートさんに見せれば、自然な動きでそれを手に取ってポケットに入れた。
「シアンのこと探してるヤツがいるよ。誰か知らんけど」
飴を手に取って包み紙を外せば、バートさんが口を開けて待っていたのでその中に放り込んだ。その間に机の上の硬貨が1枚減っていた。
「レジナルド……だっけ」
机の上の硬貨を全てバートさんの手の平に押し付けた。
「んじゃ、シアンは明日から5連休ね」
バートさんが真顔で立ち上がり、ティーポットとティーカップを手に取る。それを視界の端に確認しながら、机の上に残っている飴玉を指で弾く。
どうしてレジーが『シアン』を探しているのだろう。探しているのはシアンなのか、それともクリスなのか、どちらにしても姿を見られたらクリスだとバレる。それはめんどくさい。別にバレてもいい気がするけど、めんどくさいからバレたくない。学校に行きたくないし。
……そういえば、5日間で、どうやって解決するんだろう。穏便に済ませてほしいな。
「どーぞ」
目の前にティーカップが置かれた。バートさんの紅茶だ。いい香りがする。
「手荒なことはしないでくださいね」
隣の席に改めて腰掛けていたバートさんに笑顔で告げる。笑顔を返された。
「バートさんの紅茶、好きです。いつもありがとうございます」