141 おかしいな
お客様に、満足していただくためですから……。
宿の中でとある噂が広がっている。
「お、シアンか」
男性冒険者さんが部屋に入ってきた僕の顔を見て嬉しそうに笑う。冒険者の朝は早いが、誰もが朝早く起きられるわけではない。決まった時刻に起こしてくれるように頼む方もいて、最近は僕にもその仕事が回ってくる。
といっても、ほとんどの宿泊客がすでに目を覚ましている。どうやらこのサービスはただの保険として使われているだけのようだ。と、最初は思っていた。
「おはようございます。水をお持ちしました」
ただ起こすだけでなく、部屋に備え付けてある飲用水を交換したり、洗顔用の水を提供したり、そういったこともこのサービスには含まれている。
今の季節は、冬。王都の冬はそこまで厳しくないけど、寒いものは寒い。室内環境を整える魔道具を使えば夏は涼しく、冬は暖かく過ごせるだろうけど、高い。そんなものは高級ホテルにしかない。もちろん、ここの宿にあるはずがない。
新しい水差しとコップを部屋の中に運ぶ。使用済みのコップと水差しに手を伸ばす。冷たい。引っ込めたくなる指と顰めたくなる眉間を根性で抑え込む。笑顔を貼り付けたまま交換を済ませて廊下のワゴンへと向かう。
洗顔用の深い容器と水差し、タオルを持って部屋に戻る。男性冒険者さんは交換されたばかりの水を飲んでいた。先程の冷え切った水と違い、少しだけ温めてあるので飲みやすいのだろう。
部屋に備え付けてある机に容器を置き、水差しから水を注ぐ。6分目ぐらいで注ぐのを止め、ベッドに腰掛けて僕の様子を見ていた男性冒険者へと視線を向ける。
「では、食堂にてお待ちしております」
この方は朝食を注文している。そのあたりの確認も抜かりない。僕もだいぶ慣れたものだ。そう思い告げた僕に対して、男性冒険者さんはちょいちょいと手招きしている。
「シアン、こっちこっち」
まるで内緒話でもするかのように小さな声で僕を呼ぶ。仕方ないので、水差しを机に置いて歩み寄る。
「水、ありがと」
「恐れ入ります」
男性冒険者さんの手が伸びてきて、僕の肩を叩く。それに笑顔で応える。
「またよろしくね」
「はい。では、失礼いたします」
一歩引いてお辞儀をする。顔を上げれば、男性冒険者さんの優しい笑顔が目に入った。この方は親心タイプらしく、初めて会った時からずっと同じ態度で接してくれ、いつもお礼を言ってくれる。いい人だ。
机に置いていた水差しを手に取り、静かに部屋を出る。隣の部屋へ向かいながら、そっとポケットの感触を確かめる。
硬貨が1枚、入っていた。
「あ、シアン君」
食堂へと向かっていると、他の宿泊客と同じぐらいの時間帯に目覚めるようになった女性冒険者さんが僕に気づいて声をかけてくれた。赤みが差した、健康的な顔色を確認しながら歩み寄り、お辞儀をする。
「おはようございます。これからお食事ですか?」
「うん。お願いしていい?」
「かしこまりました」
食堂に一瞬視線を向ける。女性冒険者さんが早起きできるようになったのは嬉しいけど、混雑した食堂内で空いた席を探さなければならないのが少し辛い。幸いにも真ん中あたりが空いていたので、すぐに彼女を席へと誘導する。
椅子を引いて席に着いてもらい、厨房へと回って朝食を探す。女性冒険者さんが早起きするようになっただけでなく、他の女性客も彼女と同じような朝食を注文するようになったために彼女の朝食を見つけづらくなった。まあ、食事と一緒に注文用紙が挟んであるので、間違うことは絶対に無い。
食事はほんのり温かい。しかし、この僅かな温度差は僕の美意識に反する。運びながら、何気ない顔で熱魔法を使う。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
一歩引いてお辞儀をし、女性冒険者さんが食事に目を向けて僕が視界から外れたのを確認して移動する。途中、別の宿泊客の空いた食器を回収したり飲み物を注文されたりしながら厨房へと下がる。
寒い冬の朝は暖かい飲み物が人気だ。紅茶やコーヒーが大半だけど、中にはホットミルクだとかホットレモンを注文する方もいるし、ミルクやクリーム、砂糖の量をその日の気分に合わせて調節してくれ、などという高度な注文をしやがる方もいる。
まあ、紅茶に関しては僕にだってそれなりにこだわりがあるから、いいんだけど……なぜか香辛料やハーブが次々と並べられていく厨房の一画に立ち、なぜか僕がブレンドし、なぜか僕がお湯を注ぐ。そうしてなぜか僕が注文通りのお茶を淹れ、食堂へと運ぶ。
……宿泊客の間で、シアンという従業員に関する、とある噂が広がっている。
従業員の控え室へと入り、簡素な机を囲む簡素な椅子の1つに腰掛ける。ポケットに手を入れ、中身を机の上に出す。
「おお、今日も稼いだな、シアン」
「バートさん……」
机の上に並ぶのは、硬貨と飴。それらを眺めながら、バートさんが僕の向かい側の椅子に腰掛ける。
「そんな顔すんなって。悪いことじゃないんだから」
バートさんが飴を1つ取り、包み紙を外して口へと放り込む。以前から飴はよくもらっていたし、皆さんへの差し入れとしていつも渡しているので、別に怒ったりはしない。ただ、バートさんはさり気なく高級な飴を選っている……らしい。
「女将さんだってそこんとこは分かってるよ」
僕だって分かっている。その従業員の対応が気に入ればチップを渡す。珍しいことではない。僕がこうやっていろいろ貰うのは、つまりはそういうことだ。分かっている。分かってはいるんだけど、ねえ……。
「おかげで繁盛してんだから」
宿泊客が『シアン』のことを周囲に話したのだろう。今、この宿には空き部屋が無い。王都で何か行事があるならば珍しいことではないけれど、特に何も無い。純粋に、この宿が人気だ、ということだ。
「ありがたくもらっとけ。金、いるんだろ」
バートさんの目は僕の髪に向いている。どうやら僕が髪を染めていることは最初からバレていたらしい。あと、僕の妙に完璧な接客態度を見て、訳ありであることは全員が察しているようだ。うーん。
「ま、そろそろ女将さんから何か話あるんじゃない? 俺は知らないけど」
ということは、何の話か知っている、ということか。バートさんが硬貨を1枚手に取り、ポケットへと入れる。情報料だ。さり気なく一番高価なものを選ぶあたり、油断できない。
「シアンが人気だからねー、指名制にするとか聞いたよ」
何だ、それ。バートさんが苦笑する。今度は一番低価のものを手に取った。
「引き抜かれたくないじゃん」
「はあ、分かりました。いろいろありがとうございます」
どーも、と笑ってバートさんが席を立つ。バリボリと飴を噛み砕く音を立て、ティーポットを手に取る。取り出したティーカップは2客。ポットとカップにお湯を注ぐのを目で追いながら考える。
……やっちまったなあ。まさか、シアンの名が広まるとは……。
どうやら僕のまごころたっぷりなサービスは大変好評なようだ。水が冷たくないとか、料理が温かいとか、お茶が美味いとか、よく寝れるとか、痩せたとか、筋肉増えたとか、何とかかんとか……気のせいじゃないの、というのも含め、宿泊客の体調が軒並み改善している。もちろん、心当たりはある。
「どーぞ」
「ありがとうございます」
バートさんの紅茶だ。嬉しい。お世辞無しで美味しい。好き。
「俺もこの宿泊まりてえなあ」
体調が改善するだけならともかく……少々、嫌な予感がする噂もある。
「魔法、どんぐらい使えるかなあ」
……なんか、水でも料理でも、僕から何か飲食物を受け取れば、その日一日、魔力が強化される、らしい。