137 ただいま
今、びっくりしてる。
目の前にノワールがいた。
すごい怖い顔のノワールがいた。
「目ェ覚ましたか!」
「……え?」
状況が掴めない。何が起きているんだ。手が……動かない。どうやら固定されているらしい。背中が痛い。ノワールの顔に影が差している。ぎり、と歯を噛みしめる音がした。
「さっさと起きろ!」
なるほど。
どうやら僕はノワールに押し倒されていて、しかも両手首をがっちりと掴まれていて、全く身動きができない状態で、怒られている。
分からん。
「ノワール?」
「あァッ!?」
牙を剥いたノワールに怒鳴られる。初めて見る表情に、恐怖よりも動揺が勝った。どうしてノワールは怒っているんだ。ていうか、どうしてノワールがいるんだ。
「どういう状況なの、これ」
「……ああ」
溜め息のような、小さく掠れた声でノワールが呟く。顔から力が抜けていく。眉間や頬に深く刻まれていた皺が全て無くなる。握り締められていた両手首が解放される。
ノワールの手が首の後ろに回り、上体が引き上げられた。
「おかえり、クリス」
抱きしめられている。ノワールの頭が肩に埋まっている。痛いほどに強く抱きしめられている。痛い、痛い痛い痛い。放してくれ、と背を叩こうとして、やめる。
「……ただいま」
よく分からないけど、ノワールが震えていた。きっと、何かあったのだろう。まずはノワールから話を聞かないといけない。
ノワールの背に手を置いて、宥めるように優しく叩いた。
ノワールが落ち着くのは早かった。でも、ノワールから話を聞きだすのは難しかった。
「クリスは何も知らなくていい」
何を聞いても口を尖らせてそればかり言う。互いに地面に座り込んで向き合ったまま、少しも話が進まない一方で、時間はどんどん過ぎていく。
記憶を整理すれば、僕がノワールに怒鳴られる覚えは無い。というか、直近の記憶がどれなのか分からない。嘘みたいだけど、師匠に出会った日から、弟子入りして、王都に来て……と順番に思い出して、現在までの記憶を遡ろうと頭をフル回転させているところだ。
そんな状態で聞くとするなら、ここはどこだ、今日は何年何月何日だ、ブランはどこだ、どうしてノワールがいる、僕は何をしていた、ノワールは僕に何をしていた、僕はこれからどうすればいい、それぐらいだ。
そしてその全てに対し、何も知らなくていい、の一点張りだ。せめて場所と日付ぐらいは教えてくれてもいいんじゃなかろうか。手を替え品を替え何度も質問してみたけど、どんな言葉で尋ねようが、何も知らなくていい、そればかりだ。
もしかして今の状況を分かっていないのは僕じゃなくてノワールなのか、というぐらいに何も教えてくれない。困った。
立ち上がって現在地を確認しようとしても、すぐに腕を引かれて地面に逆戻りだ。どこにも行ってほしくないらしい。困った。
いい加減、僕も諦めてしまいそうだ。そっぽを向くノワールの横顔をじっと見つめたまま、沈黙が続いている。他に何か尋ねることはあっただろうか。記憶を整理する片隅で、ノワールへの質問を考える。
「ノワール……」
名前を呼べば、視線だけで僕の方を向いてくれる。その目は僕を邪険に扱おうとしているわけでも、僕に怒っているわけでも、僕を鬱陶しく思っているわけでもない。何か言いたいのにどう言えばいいのか分からず、仕方なく黙っている、そんな感じだ。
「僕のこと、心配してくれた?」
もう、僕が聞きたいことじゃなくて、ノワールが言いたいことを引き出す方がいいんじゃなかろうか。そう思い、咄嗟に浮かんだ質問がこれだった。我ながらもう少し別の言い方があったんじゃないかと思う。
「した。すっげー心配した」
即答だった。
「戻ってきてくれてよかった」
言葉では安心しているかのような言い方だけど、視線も肩も口角も眉も落ちていて、どう見ても落ち込んでいるようにしか見えない。しょんぼりノワールだ。
「ごめんね」
「いい。クリスは謝らなくていい」
その言葉ははっきりとしていて力強い。まるで、何も知らなくていい、と言われているようだ。ていうか言われてるよね、これ。
立ち上がれないので、頭だけ動かして周囲を見回す。もうすでに何度も繰り返したことだ。見えるのは、外壁と、平地と、山と、森。たぶん、王都の東だ。どうしてこんなところで僕は座り込んでいるのだろう。
……そして、遡る記憶は妙に鬱々としている。誰とも仲良くできていたはずなのに、マーケティング実習でちょっと悪意を真正面からぶつけられただけで人を疑ってかかるようになり、追い詰められ、人の才能に嫉妬し、勝手に落ち込み、自暴自棄になっていく。自分自身の記憶だというのに、現実味が無い。
僕はこんなに病んでいたのか。
あと、記憶の端々に現れる銀髪銀眼の少年。どうやら彼からの精神攻撃に相当参っていたようだ。まあ、なんとなく気持ちは分かる。にしても、そんなに迷惑を被っていたなら直接文句を言いに行けばいいのに……なぜ過去の僕は大人しく攻撃されていたのだろうか。不思議だ。
挙句の果てには身体を乗っ取られている。馬鹿馬鹿しい。少年の本体から際限無く魔力を送られたおかげでかなり高速で移動したみたいだけど……無茶するなあ。止められなかったらそのまま孤児院に突撃するところだったね、これ。
で、孤児院で……。
「あ」
思い出した。
「僕、思い出したのか」
「……え?」
忘れて……いや、あの銀色野郎が封じていた記憶を解放しやがったんだ。なるほどね。それで今の僕は記憶が錯綜しているのか。
「待て、クリス」
然し、どうやら再び封じられるようだ。首元に手を伸ばせばターコイズに指先が触れる。煩わしい。この石と、この男によって再度眠りに堕つるか。嘗てより幾分か劣るようだが……。
「頼むから」
狙は瞭然たるに……彼奴を葬り去れば其の後は如何にしようと厭わん。何を以て我を手元に置かんとするか……此の儘では後顧の憂いを断たずして動けぬよの。
「遠くに行かないでくれ」
ノワールにまた抱きしめられた。仕方ないなあ、もう。
「大丈夫だよ」
さすがに……この状態で復讐する気には、なれないもんね。
ノワールの、魔力で……我の、意識は、また……封、じ――――――