136 お待ちしてました
私室の窓枠に腰掛け、月明かりを背にしたその姿はとても綺麗でした。
「セルマ。僕を匿ってくれない?」
よく晴れた冬の夜、開いた窓から現れたクリス様は、まさしく御使い様でした。
「もちろんです。お待ちしてました、御使い様」
両手を組んで跪いた私の前に立った御使い様が、頬に触れ、額に口付けされたこと、そのことが本当に光栄で、喜びのあまり涙が溢れてしまいました。
ようやく、御使い様にこの身を捧げることができます。
左胸の赤い痣。
重い身体。
とても我が身とは思えず、苦しみさえも愛おしいです。
御使い様をお迎えした翌日から、私が身に纏う衣装は変わります。
それまでは肌身を隠すために袖の長いワンピースを身に着けていましたが、これからは袖の長さは問われません。しかし、冬なので肘まで覆えるロンググローブとショールも着けることにしました。
そして、ベールを頭から羽織ることになります。
床に届きそうなほどに長く、薄いベールで身体を覆います。首や肩、腕がベールに包まれます。
このベールを外すのは御使い様の前だけです。このベールは私が御使い様に身を捧げた証拠です。
もう、御使い様以外は、この身に触れることが叶いません。
「いつもと違うね」
ベッドに腰掛けた御使い様に振り返り、その前に跪きます。
御使い様の脚に手を置き、そっと寄り添います。
「はい……」
「どうして?」
見上げれば、乱れた衣服のままの御使い様が、面白そうに笑っていました。
当然です。御使い様が気に留める必要も無いことなのです。だというのに、気にかけてくださることが嬉しくて、畏れ多くて、幸せで、笑みが零れてしまいます。
「私は、御使い様だけのものなので……」
「そっか」
ふわり、と身体が浮きました。御使い様の力に依るものです。これほどの力、私たちは到底足元にも及びません。されるがままにしていれば、御使い様の脚の上にゆっくりと下ろされました。顔を覆っていたベールは上げられていました。
「綺麗だね」
御使い様の手が頬に触れます。嬉しくて、本当に嬉しくて、目を閉じてその手に頬を摺り寄せます。
手が後頭部へと回り、引き寄せられます。伸びた首筋に、御使い様の口が触れます。
かつて、これほどまでに幸せなことがあったでしょうか。
役目を全うできることに、喜びのあまりまた涙が溢れます。
「本当、綺麗だ」
御使い様は、私の頬を伝う涙を、それはそれは嬉しそうに見つめます。
身体が傾き、ベッドへと倒れこみ、私に跨った御使い様の手が首に伸びました。
首が締まり、空気を求めて口が開きます。
その口が、御使い様の口で覆われます。
目を閉じれば、また、涙が溢れます。
痺れる指先を必死に伸ばし、御使い様の背に手を添えました。
身体に触れることを、御使い様は拒まれません。
今も、私の手を払うことはありません。
私が触れることを許してくださる御心の広さに、胸がいっぱいになります。
ゆっくりと意識が遠のく中、御使い様に口内を侵食される感覚だけが鮮やかに残りました。
目を覚ますと、私の身体は整えられたベッドの中に入れられていました。
ほんのり痛む首を指先でなぞり、部屋の中を見回しましたが、誰もいません。おそらく、ナディムがこの部屋を訪れることは二度とありません。修道女のどなたかが気を失った私の世話をしてくれたのでしょう。
重い身体を起こせば、テーブルの上に折りたたまれたベールが置いてありました。ベッドから降り、痛みを訴える身体を引きずるようにしてテーブルへと向かい、ベールを手に取って羽織ります。
たとえ相手が女性であっても、御使い様以外に触れられることは喜ばしいことではありません。今後、気を失う事が無いように気をつけなければなりません。そうでなければ、いつ御使い様から不興を買うかも分かりません。
今はまだ許されていますが、もっとしっかりせねば……それが聖女である私の役目なのですから。
そして、御使い様はどこへ行かれたのでしょうか。
私が御使い様の行動を縛ることなどできませんが、私が御使い様の側から離れることにはとても耐えられそうにありません。不安に押しつぶされそうになりながらドアを開け、廊下へと出ます。周りの様子を窺いますが、人の気配はありません。
御使い様なら、どこへ行かれるでしょうか。
教皇様の部屋でしょうか。
それとも、聖堂でしょうか。
中庭、厨房、書庫……。
迷いつつも、同じ階にある教皇様の部屋へと自然と足が向きました。
部屋に入った私の姿を見て、教皇様はすぐにその意味に気づかれたようでした。だというのに、いつものように椅子を自身の右隣へと引き寄せたのです。
たとえ教皇様と言えど、そこまで近寄るわけにはいきません。
ドアの前から動かない私の様子を見て無理強いはされませんでしたが、教皇様の好意を無碍にしてしまったことに胸が痛みます。
「御使い様が来られませんでしたか」
しかし、いつまでもこの部屋に留まるわけにはいきません。
教皇様のお仕事の邪魔をしているのです。そうでなくとも、私は既に御使い様へと捧げられた身です。
このような、御使い様以外の異性と言葉を交わすようなことなど、本来は避けるべきなのです。
「来ていない」
「そうですか……」
いったい、御使い様はどこへ行かれたのでしょう。
不安を隠すことができません。
「セルマ」
退室しようと挨拶をする前に、教皇様に呼ばれました。
開けた口を閉じ、続く言葉を待ちます。
教皇様は席を立ち、私の近くにまで歩み寄りました。手を伸ばせば届くほどの距離です。あまりの近さに戸惑ってしまいます。教皇様も私が身を捧げたことは分かっていらっしゃるだろうに、どうしてここまで近づかれるのでしょう。
「辛くはないか」
何を言われたのか、咄嗟に理解できませんでした。
よっぽどおかしな顔をしてしまったのか、教皇様の顔が僅かに歪み、それを見て慌てて口を開きました。
「いいえ、何も辛いことはありません」
辛くないかと問われても、思い当たる節が全くありません。
なぜそのようなことを尋ねられるのか、不思議で仕方ありません。
「むしろ、とても幸せです」
思わず笑みが浮かんでしまいます。御使い様を迎えられたことを思うと、今ほど幸せな時はありません。
しかし、教皇様の顔は晴れません。
それどころか、教皇様が私に手を伸ばしていました。
驚きに目を見開けば、その手は私を覆うベールに触れる前に止まりました。それからゆっくりと下げられる手を、じっと目で追ってしまいます。
「……無理をするなよ」
「はい」
教皇様が予想外の動きをされた直後だからか、笑みが強張ってしまいました。
それにしても、なぜ教皇様はこんなにも気遣ってくださるのでしょう。
「では、失礼します」
長居しすぎてしまいました。焦りから、挨拶が雑になってしまいます。
教皇様も浮かない面持ちで、失礼をしてしまったことに胸が苦しくなります。
逃げるようにして、教皇様の部屋を後にしました。
「おいで、セルマ」
御使い様は中庭にいらっしゃいました。私を見つけてすぐ、腕を広げてくださいます。
逸る気持ちを押さえ、足元に気を付けながら御使い様の元へ急ぎます。
決して速くない私の足取りに、それでも決して気を悪くせず、微笑みながら待ってくださる御使い様の前へと駆け寄ります。
御使い様は広げていた手でベールを上げ、それから両手を私の背に回し、優しく抱きしめてくれます。
その全てが嬉しくて、幸せで、心も身体も歓喜に震えてしまいます。
私とあまり背丈の変わらない、その小柄な身体にそっと腕を回し、振り払われないことに安心して目を閉じます。
御使い様の柔らかい髪が頬に当たって、くすぐったくて、頬が緩みます。
それに気づいたのか、御使い様の顔が動き、それに合わせて目を開けたところで、耳朶に刺激がありました。
「ひぁっ」
一度だけでなく、何度も、何度も……御使い様が耳朶を噛んでいるのだと理解するのに、時間はかかりませんでした。
部屋の中ならともかく、部屋の外、それも中庭で、だなんて……御使い様がされることに不満はありませんが、人目があるところで声を漏らすことには抵抗があります。
おそらく、耳は赤くなっていることでしょう。熱が籠っているのが分かりますし、何より恥ずかしいのです。しかし、御使い様は噛むのをやめてくれません。ならば私はそれに従うまでです。
「んっ」
御使い様の背に添えた手に力が入ってしまいます。私の背に回された腕は私をしっかりと捕えています。距離は近くなれど、離れることはありません。
「はうっ」
噛むだけでなく、御使い様の舌が耳を這います。ぞくぞくと鳥肌が立ちます。脚に力が入らず、御使い様に凭れてしまいます。
崩れ落ちそうな私を支えるため、御使い様が腰に手を回してくれました。
「しょうがないな」
御使い様が私の耳から口を離し、震える私を見下ろします。申し訳なく思う反面、御使い様が浮かべる笑みを見て胸が高鳴ります。
足が地面から離れます。どうやらまた御使い様に力を使っていただいたようです。身体が傾き、宙で仰向けになった私の背と膝の裏に御使い様の手が触れます。
とても情けないのに、御使い様の腕の中にいることが、御使い様の首に手を回せることがどうしても嬉しくて、また涙が溢れてしまいます。
そんな私を見て、御使い様は微笑まれるのです。
なんて幸せなのでしょう。
御使い様は私を抱いたまま中庭から私室へと飛び、施錠された窓を触れることなく開けると、私をベッドに横たえます。
「お仕置きだ」
私に跨る御使い様の右手が、衣服越しに左胸へと当てられます。
きっと、私の心臓が激しく鼓動しているのを感じていることでしょう。
胸を撫でるようにして右手を背へと回されたかと思うと、編み上げの結び目がそっと解かれていきました。
身体を締めていた衣服の紐が緩み、圧迫感から解放されていきます。
ずっと見上げていた、見つめ合っていた御使い様が、囁きます。
「綺麗だよ、セルマ」
御使い様の右手が私の肌に触れ、その顔がゆっくりと近づきます。
目を閉じれば、右頬に吐息を感じました。
また、涙が溢れました。